67.ルーシャスの執着
そんなことがあったのが、エデルが昏倒してから目覚めるまでの間のことだった。
エデルは無事に目覚め、今はミューリアが用意した酔い止めの薬を一度飲んだので、ふたたび眠っている。
まだめまいと吐き気は残っているものの、あとは休養を取れば回復するだろう。
この薬もミューリアが館の女たちに頼んで、薬屋まで買いに行ってきてもらったものだった。エデルには治癒魔法が効かないから、こういうものに頼るしかない。
そこまで終えて、ルーシャスも一度、エデルのそばを離れて従業員用食堂で落ち着く。自身も食事をとらなければならなかった。
そんなとき、ミューリアが控えめに声を掛けてきたのだった。
「エディのことなんだけれど……。あなたたちは明日ここを発つけれど、あの子だけ置いていったほうが良いんじゃないかしら」
館は開店時間になり、客の出入りのある一階の食堂や二階以上の各部屋は、女たちと客の笑い声が絶えない。
夜は、この街全体が目覚めて活気づく時間帯だ。館だけでなく通りを越えたあちらこちらからさまざまな音楽が奏でられ、今夜も賑々しく働く者たちが客を楽しませている。
それらを背景に、エデルは健やかに眠れているだろうか、と考えていたときのことだった。
「エディは、あなたたちの調査について行っては危険だと思うの。だから預けて行かない?」
ミューリアに問いかけられたルーシャスは、つまみを食べていた手を止め、黒髪の女をじっくりと見やった。
ルーシャスが何かを言うより前に身を乗り出したのは、向かいで明日の段取りを話し合っていたナイジャーだ。
「俺も、エディはここに預かってもらってたほうが良いんじゃねえかと思うな」
「もちろん、預かるのなら責任を持って預かるわ。あなたたちの任務とは別口でエディを狙う傭兵がたくさんいるのでしょう。私が結界も張っているし、エディのために必要なら強化もするわ。いくらあなたたちふたりが一緒だとはいえ、バガスの闇市にエディを連れて行くのは危険だと思うの」
ルーシャスは沈黙した。だがそれは、彼女たちの意見に心を動かされたからではない。
言い募ろうと口を開いたミューリアを、ルーシャスは制したのだった。
「申し出はありがたいが、ここに置いていくほうが心配だ。戦える者もいないだろう。もしものことがあったら守ってくれとも言えない」
「確かにうちの子たちはあなたたちのように戦えるわけではないけれど、問い詰められたとしても簡単には口を割らないわ。うちの子たちもエディのことは大事に思っているの。だから……」
ルーシャスは頑なに首を振った。
「エデルは自分のせいであんたたちに危険が迫ることを良しとしないだろう。俺としても、無関係のここの従業員に被害を出させるわけにもいかない。となると、何かあったときにはあんたたちが危険にさらされる前にエデルを差し出させるしかない。――だが、俺にはエデルを犠牲にして良いなどとは絶対に言えない。全員が束になって犠牲になっても守ってくれと願ってしまうんだ」
「…………」
ミューリアとナイジャーは困った顔で目を合わせた。
わかってはいたが、とでも言いたげな表情だ。
「ナイにもだいたい事情は聞いたし、エディからも聞いて、占いもしてなんとなくあなたたちの関係は知っているつもりだったけど……あなたから直接聞いたことはなかったわ。あなたにとってエディは何者なのかしら。それほどまでに大切に思う理由は?」
ミューリアはルーシャスの隣に腰掛ける。
どうやら腰を据えて話をしようというつもりのようだった。
「私とナイも姉弟のようなものだけれど、たとえナイがまた闇市に捕らえられて奴隷にされようとしても、私にはあなたが犠牲になってもナイを助けてほしい、とはきっと言えないわ。それはわたしよりもこの子がはるかに強くて自力でなんとかするだろうからと思う気持ちもあるけれど、それ以上に……家族のようなものだからこそ、家族のトラブルに他者を巻き込みたくないからだわ」
気を悪くしたらごめんなさいね、とミューリアは続けた。
「あなたがエディとどういう過去があって彼女を大切にしているのか、外野の私がどうこう言うことではないのでしょう。わかっているわ。でも、目の前で明らかにエディには荷の重い場所へ連れて行かれようとしていて、あなたは手放す気がないようだから、事情は知らないけれど行ってらっしゃい、とは素直に言えないのよ」
それでもなお、ルーシャスがエデルとの関係について話すつもりがないのならミューリアには尋ねる資格はないし、連れて行くというのなら引き止める資格もない。だが、エデルが不憫に思える、と彼女は訴えた。
ルーシャスはひとつ息をつき、手にしていた杯を飲み干した。
「別に、隠していたわけではないんだ。……説明をするには長い話になるから、どう話したものか悩んでしまって」
「ええ」
「それに、エディの前では話すわけにはいかなかった」
「……どうして?」
「あいつは覚えていないようだから」
手酌していた瓶を軽く振って、既に残りがないことに気づく。
もう一本もらおうかと立ち上がりかけたところで、目の前のナイジャーがどんと酒瓶を目の前に置いた。
「飲まなきゃ話もできないんだろ」
「すまん。良い思い出じゃあないからな」
「姉さんもいる?」
「いただきましょう」
新たになみなみと注がれた麦芽酒に口をつけ、ルーシャスは息をつく。
「――楽しくはない話だ。手短に話そう」
ひとつ微苦笑をこぼすと、仄かな酔いの勢いを借りて重い口を開いた。
*
自身が緑層に墜ちた話から、そこで奴隷同然に扱われていた幼少時代。日々を生き残るので必死だったあの当時は、何の仕事をさせられていたかなど覚えてもいない。記憶にこびりついているのは、周囲の大人たちの鬱憤晴らしに付き合わされていたことだけだ。
エデルに出会ったのは、本当に命が尽きかけたそのときだった。あの時代、生きることのすべてを諦めた自分にとって、てらいなく手を取ってくれたエデルは小さな天使だった。
浮浪児時代は自身よりも幼いエデルの面倒こそ見たが、そんなことは拾われたのだから当然だ。彼女が生きていなければ、自身がここにいる意味もなくなる。
拾ったくせに、自身よりももっと死に近づいていたエデルをなんとか生かすことだけが、ルーシャスの生きる意味だった。だから浮浪児たちの輪の中で彼女だけを特別扱いした。浮浪児たちにも魔力のことで敬遠されていたエデルを連れて輪の中に入り、嫌がる子どもがいれば説き伏せた。エデルに危害を加えようとする者がいれば自身が制裁を加えた。
そうしてなんとか、子どもたちの集団の中にいながら孤立して死にかけていたエデルの命を繋いだのである。
やがて浮浪児たちは事件に巻き込まれ、それをアドラス・ダユン率いる傭兵団が助けることになる。そしてそれぞれ孤児院に預けられ、ルーシャスもエデルと引き離された。
「――ナイには以前にも言ったが、俺がアドラスに引き取られるとき、オルドー・マーシュロウに引き取られることになったエディと約束をしたんだ。大人になったら迎えに行くと。でも果たせなかった」
ルーシャスはほろ苦く笑う。
「アドラスに言わせれば、俺はエデルに執着しすぎているんだそうだ。独り立ちをしたときに迎えに行こうと思っていたが、アドラスに止められた」
おまえはエデルに執着しすぎだ、とアドラスには言われた。エデルが生きる指針になりすぎていると。もっと世界を知れと叱咤されたが、構わず出奔した。
「ナイを見つけるより前の話だ。エディを探した。だが見つからなかった。……オルドー・マーシュロウもまた俺の執着をわかっていてエディを隠したんだろう」
オルドー・マーシュロウの場合、ルーシャスからエデルを隠したかったのではなく、世間の全てから隠さなければならなかった。今は想像ができる。だが当時は憤った。世界中を探してもエデルを見つけてやると息巻いていた。
「おまえに出会ったのはその旅の最中だったな」
「なんだ、俺はついでかよ」
ナイジャーは軽く肩をすくめてみせる。だいぶ酒が進んでいるようで、褐色の頬をわずかに紅潮させていた。
「だけど、だったとしたら自由戦士なんか悠長なことしてないで、エディを探す旅に出ようって最初から俺に言っただろう、おまえなら。そうしなかったのはなんでだ?」
ルーシャスは低く笑いながら尋ねたのだった。
「おまえ、そう言ってついてきたか?」
「旅に連れ出す目的が〝世界を見よう〟じゃなくて〝初恋の子を探すのを手伝ってくれ〟だったら、笑いはするだろうが蹴り飛ばして別れてたよ。俺ァおまえの初恋を叶えるための手段じゃねえ」
「だろう? わかっていて聞くな。そんなことを言ったらミューリアだってナイを手放さなかっただろう」
「騙して連れて行ったのなら、今からでも遅くないから帰ってきてくれて良いのよ」
冷えたミューリアの言葉に、ルーシャスは笑って杯を飲み干した。
「騙したつもりはない。……俺は確かにエディに執着していた。俺だけがエディを救えると思っていたし、エディは俺のそばにいて初めて幸せになれるんだと信じていた。だが、エディが俺と一緒にいてどう思うかは考えたことがなかった。ナイと出会ったときにはもう、そのことに気づいていたんだ」
エデルを探す旅をしていて、多くの人と出会い、世界を知った。その間に、自分が彼女に執着する気持ちだけを大切にして、彼女の気持ちは考えたことがなかったことに気づいたのだ。
だから、エデルを探すのはやめにしようと思った。
「エディだって、あのときオルドーに引き取られたんだ。幸せに暮らしていないわけがない。今オルドーと楽しくやっているのなら、エディのつらい思い出とともにいた俺は、もう姿を見せるべきじゃないのかもしれないと思ったんだ。……だが」
ルーシャスもいい加減酔っている。吐き出す吐息は熱く、思考は浮かされて、余計なことを口走りそうになる。
「だが、緑層のあんな寒村で、また周囲から冷たく当たられながらつましく暮らしているとは、思いもしなかったんだ」
再会したのは本当に偶然だった。
ギレニア山中の森の中、傷ついて疲弊し、ボロボロになったエデルの姿が忘れられない。
よく笑うくせに身の上を話すたびに表情は固くなり、人形のように生気のない目をするエデルを見て、何度村の場所を教えろと詰め寄りそうになったかわからない。
エデルをそこまで追い詰めた村の連中なんて、根絶やしにしてやりたかった。
エデルが幸せでいてくれるならもう会えなくても良いのかもしれないと思ったのに、再会してみればエデルは到底穏やかな暮らしとは程遠い環境にいた。
許せなかった。だが、寸前で堪えたのだ。
「エディは俺のことを覚えていなかっただろう。なら、不用意に思い出させたくはなかった。ただあの状況で放ってはおけなかったし、今後エディを守る者がないのなら、俺が守る。もう二度と他の誰かに任せたりしない」
ルーシャスはぐっと拳を握る。
その諦観にも似た忍耐を思ってか否か、ナイジャーは気遣わしげに眉をひそめた。
「いや、エディは覚えてるよ。断片的にだけど、たぶん。おまえっぽい少年と昔一緒だったことがあるって言ってた」
「だがすべてを思い出したわけではないだろう?」
「そりゃあ、まあ……」
エデルも、ルーシャスとともにいたときは生きるのに必死過ぎて、記憶のほとんどを取りこぼしてしまっている。彼女自身も思い出せなくて苦労しているようだったのは、ナイジャーだけが知るところだった。
ナイジャーが答えられずにいると、ルーシャスは金の目を深く揺らした。
諦観だった。
「なら、そのままにしてやってくれ。あの時期のことは、エディにとって決していい思い出じゃない。忘れているのならそのほうが良い」
きっと思い出したら、ルーシャスの存在がそばにあるだけでエデルは自身の辛い幼少期を思い出す。そうしてほしくなかったから、ルーシャスは黙っていることを選んだのだ。
「覚えていなくて良いんだ。思い出させる必要もない。ただ、オルドーがいなくなったのなら、俺が守る。それだけだ。だから誰かには任せられない。ミューリア、あんたにもだ。信用できないからではなく、俺の気が済まないだけなんだ」
だからエデルは連れて行く、とルーシャスは締めくくった。
答えに窮すナイジャーとミューリアを置いて、ルーシャスは部屋へ戻っていった。エデルのそばに戻るのだろう。もう二度と彼女が独りになることがないように、思い出されずとも、あの頃のエデルと二度と再会できずとも、ただひたすらに黙って彼女を守っていくつもりなのだ。
相棒の静かな後姿を見やって、ナイジャーはしかし、吐き出さずにはいられなかった。
「だけどよ、ルース。それじゃあ、おまえがエディを大事に思ってた気持ちはどこに行っちまうんだ」
酒気とともにこぼれ落ちた寂しい言葉は、誰にも拾われることはなかった。
ルーシャスの回想がふんわりしてるのは仕様です。まだ。詳細はまだ時期じゃないので。その時までお待ちください。




