66.倒れていた間の出来事
エデルが鼻血を出して倒れたと聞いたとき、こちらの心臓までもが止まってしまったかと思った。
駆けつけてみれば、エデルは従業員用食堂の床にばったりと倒れ、鼻血どころか顔中赤いものにまみれて倒れている姿が目に飛び込んだ。口からも真っ赤な吐瀉物を戻している。その場に居合わせたらしいヘデラが冷静に彼女の身体を横向きにさせていなければ、吐瀉物で窒息していたかもしれなかった。
呆然としているところにミューリアとナイジャーが先に駆け寄り、状況を確認する。エデルの碧い目は焦点をなくし、意識朦朧としたまましきりとなにかつぶやいているようだった。あとになって確認したところ、「目が回る」だとか「気持ち悪い」といったようなことを訴えていたようだ。ようだ、と伝聞でしかわからなかったのは、そのときルーシャスは呆然と突っ立っているだけで何もできなかったからだ。
結局、エデルが血液のようなものにまみれていたのは、直前に食べていたいちごを吐き戻したことが原因だとわかった。顔にまで飛び散っていたのは手にしていたいちごが爆発したからで、出血したと思われたのは一筋垂れた鼻血程度のものだった。
そうとわかって、ミューリアを始めとした館の女たちは明らかに胸を撫で下ろし、ナイジャーもエデルを部屋の寝台に寝かせながら息をついたものだ。
「姉さんが言うには魔力酔いだとよ。ヘデラと一緒になんかやろうとしたらしいわ。あとでヘデラにも話を聞いてくるけど、ヘデラはヘデラでエディが目の前でぶっ倒れたからショックだったみたいでな。ちょっと落ち着くまで時間がかかりそうだ」
「…………」
誰も彼も、どうして平然としていられるのだ。
ルーシャスにはわからなかった。
「ルース? どうした。さっきからおまえ呆然としてるだろ。大丈夫だよ。エディのはただの魔力酔いだったって」
「大丈夫なわけないだろうが」
「――え?」
「エディの魔力酔いがどれほど危険なものか、おまえにだってわかるだろう? ナイ」
どうしてそんなに平然としていられるんだ、と続けた言葉は、震える感情に掠れていた。
ナイジャーは困惑したように太い眉を下げた。
「ルース、なあ、おい。そんなに深刻になるなよ。エディの魔力について知らないわけじゃねえけどさ、今回は軽い魔力酔いで済んでるんだよ」
「出血して昏倒するのが軽い魔力酔いだと?」
「そうじゃねえけどさ……」
「以前魔法を使うだけで……体内に魔力を巡らせるだけで命に関わる可能性があると言ったのはおまえだろう!?」
「ルース」
言い募るルーシャスに、ナイジャーは慌てて唇に指を立てた。
はっと見下ろすと、苦しそうに目を瞑るエデルが唸っている。ルーシャスの大声で半分覚醒してしまったらしい。
「静かにしろ。今は眠ってるほうが楽なんだろうから眠らせてやれ。意識があっても吐き気とめまいで辛いだけだよ。こればっかりは時薬でしか治んねえんだから」
「……すまない」
「そりゃエディに言ってやることだな」
ひとつ息をつき、ナイジャーは備え付けのテーブルに腰を下ろす。そこにしか座る場所がないくらい狭い部屋なのだ。
ルーシャスも座るように促され、ようやく椅子に身を預けた。
「軽い魔力酔いっつったが、エディにしちゃ軽いほうだったって話だよ。医者に診せられねえ以上姉さんの診断になるが、それだって俺よりずっと魔力の見方の上手い人だ。その姉さんだってエディの魔力のことは知ってて判断してる。信用ならねえか?」
「そういう、わけじゃないが……」
「なら大丈夫だったってことで一度落ち着け。おまえが動揺してどうする」
「…………」
自身の両膝に肘をつき、手で顔を伏せるようにしてルーシャスは深くため息をついた。
確かに、動揺していた。ナイジャーに指摘されて、初めてそのことに気づいたくらいだった。
「おまえにとってエディが特別なのはわかるけどよ。大事だったらなおさら呆然としてるな。あの場におまえしかいなかったら……そのおまえが呆然と突っ立って見てるだけだったら、エディは確実にもっと危険な状態になってたはずだぜ」
「……そうだな。すまない」
あの場ではルーシャスは何もできていなかった。吐瀉物を喉に詰まらせないようエデルをとっさに横臥の姿勢にしてくれたのはヘデラで、介抱したのはナイジャーであり、状態を確認して魔力酔いだと断じたのはミューリアだった。
ルーシャスはなにもしていない。
今回も、なにもできなかった。
自身の不甲斐なさに唇を噛むことしかできない。
「本当はさ、エディみたいなほとんど無限の魔力量を持つ人間は、絶対に魔力をコントロールできるようになってなきゃいけねえんだよな」
ナイジャーがため息交じりにつぶやいた。
「なのにエディはまるで魔力の使い方をわかっちゃいない。魔法についてもほとんど知識がない。ふつう逆だろって思ったけど、こういうことになるってのを目の当たりにすると、親御さんがどうしてそういう判断をしたのかよく理解できる」
「……ああ。たかだか戯れ程度に魔法を使おうとしただけでこうなるから、魔法そのものから遠ざけようとするだろうな」
コントロールさせようとしたところでエデルの身体が傷ついていく。ならば知識だけでも教えようとしたって、きっと魔力に詳しくなればなるほど魔法を使いたくなる。エデルが魔法に興味を持たないよう、彼女の養父は徹底的に遠ざけたのだ。
「難儀な子だなあ」
「まったくだ。だからこそ、俺が取り除ける苦労は取り除いてやりたい」
「……おまえも難儀なやつだな」
ナイジャーは呆れたような、しかし軽い笑みをこぼすと立ち上がった。
「様子見といてやんなよ。俺はへデラに話を聞いてくる」
「ああ。――さっきはエディを助けてくれてありがとう」
ルーシャスはお礼もまだだったことに気づいて顔を上げた。
ナイジャーは軽く手をあげるだけでそれに応え、部屋を出ていった。




