久方ぶりにダンジョン配信
退院してから一週間ほどが経ち、身体の調子もかなり戻ってきた。そこで俺は、久しぶりにダンジョンへ潜ることにした。
「また入院費が増えるのか……」
入口の前で、俺は思わずため息をついた。
とはいっても、いきなり深い階層へ行くつもりはない。今回はあくまでリハビリだ。浅い階層をゆっくり進みながら、今の自分がどれくらい動けるのかを確かめる。それくらいで十分だろう。
久しぶりのダンジョン配信ということもあって、配信を始めると、すぐにコメントが流れ始めた。
『久しぶりの通常配信きた!』
『おかえり黒瀬』
『今日は変身しないよな?』
『普通のダンジョン配信を見せてくれ』
「普通の、な……」
コメントを眺めながら、俺は苦笑した。
「今日は本当に普通に潜るだけだからな。前みたいなことは起きない……たぶん」
『たぶんw』
『その言い方がもう不安なんだよ』
『PON瀬、帰還』
「だからPON瀬って呼ぶなって」
軽く言い返し、俺はダンジョンの奥へと進んでいった。
今回の目的は、何も特別なことじゃない。ちゃんと歩けるか、敵と戦えるか。それに、身体におかしなところがないかを確かめるだけだ。
もっとも、確認しておきたいことは身体の状態だけではなかった。
生活費の問題もある。
三年前の事故から復帰して以降、俺は低階層で地道に稼いできた。だが、今回の入院で出費が一気に増え、支払いをどうにかできるかというところまで追い詰められてしまった。結局、またリボ払いで何とかしたものの、そろそろ限度額にも近づいている。
そもそも、こんなことになったのは昔の俺にも責任がある。
探索者は危険な仕事だ。ランクが上がるほど保険料も高くなる。それでも、普通に高ランク探索者として稼いでいるなら、払えないような金額じゃない。実際、昔の俺なら十分に払えるだけの収入があった。
ただ、当時の俺は自分が強いことにちょっと、いや、だいぶ調子に乗っていた。
「俺が大怪我なんてするわけがない」
本気でそう思っていたから、保険は最低限。年金についても、「今の俺には必要ないだろ。払うだけ馬鹿らしい」と考え、ろくに将来のことなんて考えていなかった。
高ランク探索者として稼げている間は、それでも何とかなっていたのだろう。
だが、一度大怪我をして入院すれば、状況は一変する。
入院している間も、入院費や食費は出ていく。けれど、探索に出られない以上、普段のように稼ぐことはできない。しかも、探索者は普通の保険にも入りにくい。
そのツケが、今になってまとめて回ってきたわけだ。
『元Sランクがリボ払いで限界迎えそうなの草』
『変身ヒーローが一番気にしてるのが借金なの面白すぎる』
『500000人を沸かせた男の現実』
「うるさいな。こっちは生活がかかってるんだよ。入院してるときは入院費や食費が出ていくだけで、金は一切入ってこないんだぞ。探索者は普通の保険にも入りにくいしな」
『いまから入れる保険はありますか状態だった?』
「まあ、そんな感じだ。昔の俺が高い保険料なんて払うのはもったいないとか、年金なんて払うのは馬鹿らしいとか考えてたツケもあるけどな」
『自分で言うのかよw』
『過去の黒瀬、今より調子に乗ってそう』
「否定できないのが困る」
自分で言っていて情けなくなってくるが、反論できないのだから仕方がない。
あの頃の俺は、強ければ大抵の問題はどうにかなると思っていた。実際、Sランクにまで上り詰めたことで、金銭面で困ることもほとんどなかった。
だからこそ、まさか自分が入院費の支払いに頭を抱え、リボ払いの残高を気にしながら暮らすことになるとは思ってもいなかったのだ。
もっとも、過去を悔やんでいても金が増えるわけじゃない。
「……まあ、今さら言っても仕方ないか」
俺は小さく息を吐き、前へ向き直った。
こうして普通にダンジョンへ潜れること自体、つい最近までは考えられなかったのだから。
身体の調子を確かめながら、俺は慎重に通路を進んでいく。
しばらく進んだところで、前方にゴブリンが一匹現れた。
俺は足を止め、相手の動きをじっと観察する。
以前なら、ゴブリンなんて何匹いようが気にする相手じゃなかった。けれど、今の俺は違う。
三年前の事故から復帰して以降、低階層で戦い続けてきたとはいえ、身体が元の強さに戻ったわけじゃない。まして、あの奇妙な世界から戻ってきたばかりなのだ。今の俺なら、一匹相手でも油断はできない。
「……こいつなら、普通に戦えるだろ」
『出た、普通に』
『この台詞、絶対フラグ』
『黒瀬が普通って言うと信用できない』
「なんだよ、その扱い」
俺が苦笑した直後、ゴブリンが棍棒を振り上げた。
その瞬間だった。
胸の奥が大きく脈打つ。
ドクン。
「――え?」
視界が変わった。
ゴブリンの動きが妙にゆっくり見える。
いや、遅くなったわけじゃない。俺の身体のほうが、それより先に動こうとしていた。
「待て――」
自分では踏み込むつもりなんてなかったのに、右足が勝手に前へ出る。腕も、自分の意思とは関係なく持ち上がっていく。
「変身するな!」
叫んだ直後、身体の表面を黒いものが覆った。
『え?』
『変身した?』
『ゴブリン一匹で!?』
『ワータイガーじゃなくても変身するのかよ!』
「だから変身するなって言ってるだろ!」
叫んでも、身体は止まらない。
目の前へ飛び込んできたゴブリンの棍棒を、黒い外殻に覆われた腕が受け止めた。
次の瞬間、拳がゴブリンの腹へ叩き込まれる。
ドンッ!
ゴブリンの身体が吹き飛び、そのまま動かなくなった。
「……」
俺は自分の拳を見つめた。
今、俺は殴った。だが、殴ると決めたのは俺じゃない。
「……身体が、勝手に反応したのか?」
『また本人が一番わかってないw』
『今の動き、自分でやった感じじゃなかったな』
『身体が勝手に動いてたよな』
『黒瀬の意思「待て」 身体「却下します」』
「笑い事じゃないからな、これ」
俺は変身した自分の腕を見ながら、顔をしかめた。
ワータイガーと戦ったときも、俺の意思とは関係なく変身した。あのときは相手があまりにも強かったから、危機に陥ったことで身体が反応したのかと思っていた。
でも、今回は違う。
たった一匹のゴブリンだ。普通に戦えると思っていた相手ですら、身体のほうが俺より先に反応した。
「……帰ってきてから、まだ身体が馴染んでないのか?」
そう口にしたものの、自分でも確信は持てない。
あの事故から戻ってきて、まだそれほど時間が経っていない。身体そのものが変わってしまったのなら、以前と同じ感覚で扱えると考えるほうが間違っているのかもしれない。
とはいえ、今まで低階層で戦ってきたときには、ここまで露骨に身体が先走ることはなかった。
つまり、今回の変化には、まだ俺が理解していない何かがあるのだろう。
「……だったら、しばらくは気をつけないとな」
俺はそう呟きながら、変身した腕を軽く握った。
ただ、嫌な予感だけは残っていた。
もし、この反応が身体の側に残っているものなら――。
「誰かが俺に向かって突然手を伸ばしただけで、それを身体が『危険』と判断したら……」
俺はそこで言葉を止めた。
ダンジョンの中なら、まだいい。相手が魔物なら、変身して殴り倒しても問題にはなりにくい。
でも、街中だったらどうする。
誰かが驚いて近づいてきただけで、身体が勝手に反応したら。俺が止めろと思っても、身体が止まらなかったら。
「……これ、かなり困るぞ」
『黒瀬、真顔になってて草』
『いや笑えないやつだろこれ』
『本人の意思より身体が先に動くの怖いな』
『でもめちゃくちゃ強くなってるのも事実』
「強いとか、そういう問題じゃないんだよ」
俺がため息をついた、そのときだった。
少し離れた場所から、何かが動く音が聞こえた。
反射的に視線を向けると、暗がりの向こうから一匹、二匹とゴブリンが姿を現した。さらに、その後ろからも次々と数を増やしていく。
『増えたw』
『今度は何匹だ?』
『これはどうなる?』
「いや、待て」
俺は慌てて一歩下がった。
身体はまだ黒い外殻に覆われたままだ。さっきの戦闘が終わっても、変身は解けていない。
それなのに、ゴブリンたちの動きを見た途端、胸の奥が再び熱を帯び始めた。
「……もう動くなよ」
俺は自分の身体に言い聞かせるように呟いた。
『もう変身してるぞw』
『黒瀬、そこじゃないw』
「分かってるよ!」
言い返した直後、先頭のゴブリンが棍棒を振り上げて突っ込んできた。
そして――。
俺の身体が動いた。
考えるより先に足が地面を蹴り、迫ってきた棍棒を腕で受け流す。その勢いを利用して拳がゴブリンの腹へ叩き込まれ、相手の身体が後方へ吹き飛んだ。
続けて、右側から迫る一匹へ身体が向き直る。棍棒を避け、腕を掴み、そのまま地面へ叩きつける。
背後から迫る気配には、振り返ることすらなく肘が後ろへ突き出された。
「……やめろ」
自分でも聞き取れないほど小さく呟いた。
それでも、身体は止まらない。
襲いかかってくるゴブリンを一匹、また一匹と倒していく。拳を振るい、蹴りを放ち、攻撃を避ける。その動きはあまりにも滑らかで、まるで俺の身体だけが別の意思を持って戦っているようだった。
『うわ……』
『さっきより動きがヤバくない?』
『これ本人が操作してないんだよな?』
『ゴブリン側からしたら理不尽すぎる』
コメントが流れているのは分かっていた。けれど、返事をする余裕はなかった。
最後の一匹が逃げようと背を向ける。
すると、俺の身体が地面を蹴った。
「待て!」
思わず叫んだが、身体は止まらない。
一瞬で距離を詰め、そのまま拳を振り抜くと、ゴブリンが地面へ倒れ込んだ。
そこでようやく、動きが止まった。
「……」
静かになった通路に、俺の荒い呼吸だけが響いている。
やがて、俺はゆっくりと自分の右手を持ち上げた。
黒い外殻に覆われた拳。
さっきまで、この拳が勝手に動いていた。
俺が殴ろうと思ったからじゃない。俺が戦おうと思ったからでもない。
身体が生き残るために必要だと判断し、勝手に動いたのだ。
「……これが、俺の身体なのか?」
呟いてみても、当然ながら答えは返ってこない。
拳を握り、それからゆっくりと開く。
ちゃんと俺の意思で動く。
それなのに、さっきの戦闘を思い出すと、自分の身体が自分のものではないような、妙な感覚が残っていた。
『黒瀬……大丈夫か?』
『さっきまで笑ってたのに、急に怖くなったな』
『これ、普通にヤバい能力じゃない?』
「……ああ」
俺はコメントに短く答えた。
「たぶん、思ってたよりずっとヤバい」
拳を見つめたまま、俺は小さく息を吐く。
強くなった。そう考えれば、簡単な話なのかもしれない。
でも、これは俺が望んで手に入れた力じゃない。
俺が戦おうと思わなくても、身体は戦う。俺が止まれと思っても、身体が危険だと判断すれば動き出す。
そして今のところ――俺には、それを止める方法が分からない。
俺はしばらくダンジョンの通路に立ったまま、自分の拳を見つめ続けていた。




