兄弟の対決
左京にたどり着く前、別の火事に人を分けたため、阿蘇の少史はただ一騎となって自邸を目指した。
妻の受け継いだ邸はこじんまりとしているが、売れなかった分の蔵書がそこかしこに収められていて、火がついたら大事になる。少史は凄まじい勢いで駆け込んで、真っ青になった。特に書物の多い西の対が燃えている。
馬を下り、寝殿に走りこんで叫んだ。
「下部はどうした! すぐに消しとめよ! 奥方と娘は無事か!」
「……みな、逃げましたよ」
背後から陰鬱な声が答える。火でさえ乾かすことはできそうにない。
「……あなたが燃やしたのか」
「そうです」
じっとりとした声は人とも思えぬ。だが人以外の何者でもない。少史は振り向き、兄と対峙した。
「ここに妻も子も住むことを承知で燃やしたのだな」
「おまえの妻と子など、知ったことではありません」
「本気か!」
出したこともない大声を出した。盗賊に会った時さえ、こんな声は出さなかった。
「本気で捨てる気なのだなっ」
「何を今さら。私などただの亡者ではありませんか」
「亡者などまだマシだ! 人の道を捨てたおまえは、ただの鬼だっ!」
学者は口元をゆがめた。
「鬼の師匠ですからね。鬼でしょうよ」
「…………あなた」
子の手を引いた女が、東の廂から声をかける。視線は交互に二人を行き来し、どちらにかけた声なのかはわからない。少史は青くなって彼女を見た。
「急いで逃げなさい! ここは危ない!」
女は必死に何か言おうとしているが、声が出ない。ねずみに似た貧相な男は、何の感慨もないかのような顔でそれを見ている。
ぱちぱちと、火のはぜる音がする。木材の燃える強いにおい。少史はもう一度うながそうとした。すると、手を引かれた子が彼を見て大きく叫んだ。
「おじさま!」
後ろの男が息を呑む音が聞こえる。少史は振り向かない。そのままにっこりと笑いかけた。
「お母さまを連れて東の方に行きなさい。それと、これからはお父さまと呼びなさい」
すでに娘として扱い、人にもそう話していた。だが薄絹のような何かが、ほんのわずかに間を隔てていた。少史は自分でその布を裂いた。
「すぐに!」
強く命じると、子を連れた女はきびすを返した。瞳によぎった色を読み取ることはできない。
少史は男に向き直った。彼はいまだ信じられぬものを見たかのように目と口を開いている。
「……あの子は、私の」
「私の娘だ」
そういって少史は太刀を抜いた。
「とにかく数だ、それが強みだ」
先ほど燃えかけた地域にさしかかり、五の宮は領子に馬を止めさせた。火事を抑えた人々はまだ興奮が納まらず、熱狂的に三人を迎えた。
「火付けをする者たちがいる。それをどうにか留めなければならない」
ただし危険だ。それでも人々は助け合うべきだ。
「火の消し方は、先ほど以上のことはわからぬ。京職(市民課の公務員)はそれぞれ摂関家の防火に取られていないが、坊令・保長(自治会委員長と班長さんみたいなもの)はいるだろうか。いたらその者が、いなくても誰かこの知識をまだ燃えていない地域に伝えてほしい。みな、疲れたと思うが今宵一晩、なんとか耐えてくれ!」
次には領子が声を張り上げた。
「みなさんの中に鼻のいい方はいますか? いたとしたらその人は、油のにおいと火のにおいを探ってください。でも、けして一人では動かずたくさんの人といっしょにね」
「普段から空いた家、留守が多いと知られている家が特に危ない」
「みな、すまぬが燃えてない地域にすぐに伝えてくれ!」
「私からもよろしくお願いする」
六位蔵人まで加わって、市井のことを民に頼んだ。
飛んだ火は見えなくなった。消えたのかもしれないし、どこかで静かに広がっているのかもしれない。そうでなくとも付け火はまた出る。だが暗くなった今、三人にできることは限りがあった。
腹を決めて都を北に駆け上がる。が、門を閉めた邸の立ち並ぶ四条の辺りで、射られた矢が馬の尻をかすめた。一瞬前足立ちになったせいで、五の宮の体は地に投げ出された。
「宮さまっ!」
「馬をとめるなっ! 内裏で会おうっ!」
「私がお助けしますっ! ひ……みずら丸は先にっ」
六位蔵人も叫んだ。領子は決意した。
ーーーー二人は絶対どうにかするわ
彼女は夜の道を駆け続けた。
一方、五の宮も声を止めなかった。
「いいっ、おまえも行けっ」
「ダメですっ、宮さまっ」
「違うっ! まろは自分の身は自分で守れる!」
「守れるわけがないでしょう!」
「いいから行けっ! おまえが人質になるほうが迷惑じゃ。行って帝と姫を守れ!」
「あの馬は帝拝領の名馬ですっ。追いつけません!」
「それでも、行ってくれ」
五の宮の声が翳りを帯びた。
「…………頼む」
時間はない。蔵人も決断した。
「わかりました! 必ず内裏で会いましょう!」
「承知したっ」
いったんはやんだ矢が飛んでくる。蔵人の馬は消え、五の宮は残った。
彼を取り巻いたのは盗賊たちだ。それも新参の者がほとんどだ。野卑な言葉を口走りながら彼を威嚇する。五の宮はまず名乗りをあげ、それから尋ねた。
「大盗賊夜烏はおらぬか。あの男には世話になった。会えるのならば、今一度礼を言いたい」
男たちは顔を見合わせた。
「そういや、宮さまに衣一枚恵んでやったって話なかったか」
「あったわ、確か。おまえがその宮さまか」
「だまされんじゃねえ、そいつはさっきたちはきの旦那から、夜烏の兄貴が死んだことを聞かされてたわ。どうせ宮さまってのもフカシに決まってら。おいらはさっきヤボ用で旦那の下にいたんだ」
男たちが色めきたった。月の光を受けて野太刀がきらめく。だが五の宮は焦りもせずにそれに答えた。
「ああも生き生きとしていた男が死んだとは思えぬでな。間違いならよかったと思っただけだ。本当のことなのか。はなはだ残念である」
「うるせえ、こいつ殺っちまおうぜ!」
気の荒い男の一人が野太刀を高く上げる。だが五の宮は顔色を変えなかった。
「まろを生かしておけばおまえたちにも利がある。たとえば人質にもなる。仲間の一人が捕らえられることもあるであろう。その者と交換することもできる。今の大頭は誰じゃ? とりあえずその者の所へ連れて行け。たちはきなのか?」
へっ、と盗賊は鼻で笑った。
「あの旦那は態度だけはでかいがな、そんなタマじゃねえ」
「ならば女頭か」
「今ひと時はな」「先のことはわからんぞ。俺かもしれん」
五の宮のさかしい脳裏は、与えられた情報を自分なりに解釈する。
「ならば連れて行け。手柄がいるであろう。たまたま馬の尻を矢がかすめて落ちたが、こうしてまろが生きておることからして、大した矢数は持たないのであろう。手の者がいなければ、まろはただの無力な子どもじゃ。逃げることもできず、なんの危険もない」
男たちは少し話し合って決めた。
「よし、おまえついて来い」
「誰かこいつの手を縛れ」
「逃げはせぬと言うに」
「そうはいかねえ。こちらはまだ一仕事あんだ」
されるがままに拘束を受け入れ、五の宮は男たちの一団に引かれていった。
「それでは、帝は守る者さえ少なくていらっしゃるのですか」
妹と名のる女は、切れ長の目でひたと見つめる。
「父上の外行きに従わない者などほとんどいない。おまえももう知っているかもしれぬが、うちは都随一の立ち位置を持つ最高位の家柄だ」
「その一端に連なることができて光栄ですわ……でも」
女は瞳を翳らせる。
「帝に危険が及んだら、その責めをお兄さまが負うことにならないでしょうか。都にいぬ者は仕方がなくとも、京内にいた高位の家柄の者が駆けつけて手助けすることさえしなかったと、家名をうらやむ者にそしられたりはしませんか」
左大臣の息子はうなった。それはないとは言えなかった。危険な目にはあいたくないが、今後一切出世できないのも困る。ましてや父は、自分の立場を守るためなら平気で息子を贄として差し出す。そういう性格だ。
「ありえないとは言えんな」
「でしたら……遅ればせながらも、帝のお傍に参った方がよろしいかと」
息子は躊躇した。だが女は続けた。
「それに、多少なりとも滝口(武士)のいる内裏の方が安全な気がしますわ。その上、身の危険も省みず駆けつけたとしたら、帝のお覚えがよくなるのではないでしょうか」
あいつらに差をつけられる。途端に気力がわいてきた。
「なるほど。すぐ支度しよう」
「女房の一人として連れて行ってくださいまし。ここに残されるのは恐くて」
「さもあろう。か弱い女の身ではな。ならば連れ行くことを許そう」
「嬉しいわ、お兄さま。それでしたらもう一つお願いがあります」
「なんだ。言うてみい」
妹はわずかに口の端をあげ、身を寄せた。男は魅入られたかのような顔で願いを聞いた。
夜の道は暗い。が、まっすぐなのでさして困らない。領子は北へ向かって駆け上った。
だが突然、矢音もせぬのに馬がつんのめった。彼女はとっさに手綱と鞍を強くつかんで身を留めた。
大きな邸から、わらわらと人が出てくる。また走り出そうとしたが、男の声がそれを止める。
「無駄なことだ。女の髪でなった縄を何本も仕掛けている。無理に走らせると馬が骨を折るぞ」
ここは誰の邸なのか。広さと位置でそれはわかる。ここは……右大臣邸だ。
「一人か。おまえは五の宮と姫のどちらだ」
話が漏れている。領子は唇をかんだ。帝か中宮の下に手の者が入れられているのかもしれない。
「すぐにわかる。下ろせ」
「自分でおりるわ」
観念して領子は馬を下りた。途端に人々に囲まれる。この際だと思い彼女は尋ねた。
「なぜ私たちがここを通るとわかったの」
「行きには間に合わなかったが、帰りも通るはずとして用意しておったのだ」
道を変えるべきだったかと後悔する。それと明るいうちはともかく、暗くなってからは道ゆく人が何人かこけたのではないかと心配になった。
「来い」
下部たちに囲まれて、邸の東の対に連れて行かれた。高欄(平安ベランダ手すり)の下の白砂の上で、無理に頭を下げさせられる。
「面を上げよ」
今度は上だ。むっとしながら頭を上げると、簀子(平安ベランダ)までやってきた右大臣がしげしげと顔を見つめる。かがり火がこうこうと二つも焚かれているので丸見えだ。こちらも、穴が空くほど見つめてやる。
「五の宮ではないな」
「それでは内大臣の姫でしょうか」
「確かめねばなるまい。この姫を、この対の塗籠(閉鎖された部屋)に連れて行け。存分に見測らねばならぬ」
右大臣はにたりと口元を緩めた。
子どもの頃を除いて、自邸以外の塗籠に入った記憶はない。連れて行かれた右大臣邸の東の対のそこは、丈夫な壁に囲まれていて、中央に御帳台(平安ベッド)が置かれてある。物置として使っている自邸のものとは全く違う。
異なる点は他にもある。灯りが下に置く高灯台ではなく、天井の梁から釣灯籠が高い位置にかけてある。
ーーーー灯をつけるのに手間がかかると思うわ
眺めていると、右大臣が仕える者に指示を与えている。
「少々の物音でいちいち来るな。手を打って呼んだら廂に控えよ」
「はっ」
確認のための女房が呼ばれるのだろうと考えていた領子は、事態に気づいて青ざめた。
ーーーーー明かりをひっくり返せば……上だったわ!
もう少し壁際なら、なんとか壁を駆け上がって火に飛びつくのだがそれも難しい。
ーーーーこの人を蹴倒して逃げても、すぐに誰か来るわ
それでも実行しようかと思った瞬間、いきなり押し倒された。
「何をするのっ。私は帝の命を受けているのよっ」
「そんな命は与えていない。帝はそうおっしゃるはずだ」
「いやっ! 離してっ」
右大臣は卑しい笑みを浮かべた。
「暴れるな。大人しくしておれば、そう悪うはせぬ。なにしろわれはすぐに世の大半を手にする男であるから、縁ができたことを喜ぶがよい」
彼は東宮(皇太子)の後見だ。この男が自分の立場を貶めようとするのなら、帝に対しても敬意を持ってはいない。いや悪意があるのではないか。領子はそう考えてきっ、と右大臣をにらんだ。
白い馬は右京からしばらく京の外に出て、大内裏の裏を走り抜ける。一条大路に戻ると、大胆にも邸の多い辺りにある国司の邸に飛び込んだ。そこの主は遠く離れた国にいる。
「……お頭?!」
「なにか不具合でも?」
七人ほどの盗賊たちがいる。海賊はいないが、三人ほどは古くから夜烏の傘下だった者だ。
白馬から見下ろす布間に見える瞳は冷たく、黒い水干も平絹でいつもの夕月と変わりないように見える。だが、腰に必死にしがみつく女房は見慣れない。
「なんです、この女」
「……聞く必要はないわ」
夕月の声が答える。
「状況が変わった。ここにいる者は学者を待機場所に迎えに行き、合流の後山崎へ。その後連絡が来ないようなら、海賊は学者とともに伊予の巌六の元へ。盗賊たちはしばらくそこにいて」
突然の変更に男たちは驚いた。なんのかんのとぼやきながら支度をしようとしたが、盗賊の一人がふいに手を止めた。切れ長の目がとがめるようにそれを見たが、男はけんのある視線で相手をにらんだ。
「おまえ……本当にお頭か?」
白馬の二人は黙って男を見返した。




