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紅染めの小袿

 弥生(やよい)が来てから夜烏(よがらす)は、手下どもをおのれの小家に入れることはない。会合はよそで行い、使いの者も隣の明烏(あけがらす)の家に向かう。それでも人の行き来が繁くなったため、彼女は盗賊一味が近々何か事を起こすのだろうと読むことができた。

 命じられた縫い物はほぼ終わった。最後に鮮やかな紅の小袿(こうちき)を縫い上げる。見事な発色で、夕月に着せてみたくなった。

 薄い戸がぎしぎしときしんで夜烏が戻った。弥生は衣を広げて見せた。


「女御であろうと感心するほどの出来よ」

 (きぬた)で打ったその絹は見惚れるほどの艶だが、夜烏は大して目を向けずに頷いた。


「たたんでおくわ。何か古い布に包んだ方がいい?」

「いらん」

 妙に低い声で応える男に弥生は驚くが、相手はかまわずに続ける。


「…………着てみろ」

「え」

「言われたとおりにしやがれ!」


 声に怯えた女はおずおずと小袿を身に付ける。寂しげな美貌が色に映える。

 眺めていたのはわずかな時間だ。夜烏はすぐにそっぽを向くとぶっきらぼうに告げた。


「それはやる。おまえが着ろ」

 弥生は慌てた。


「これは絹よ。私なんかが着るもんじゃないわ。凄く高いものでしょう」

「どうせタダで奪ったもんだ」

「でも………」

 言い募ると男は激高した。


「やかましいっ。俺の言葉に逆らうなっ。人目が気になるなら家の中でだけ着ておけ!」


 弥生は少しうつむいて礼を言った。夜烏は応えず、荒々しく戸を開いて外に出て行った。軋んだ音が辺りに響いた。



 物忌(ものい)みがようやく明けて、領子は女院に呼ばれた。変わらぬ威厳を目の前にして、いつもと同じ脅えを感じる。女院は笑みさえ浮かべずに彼女を眺める。


「最近は和歌の覚えも悪くはないようだな」

 ようやく通常の姫君の足もと程度の域に達してきた。

「少々試してやろう。いくつか言葉を引くので元歌を答えてみよ」

 緊張で全身が熱くなる。視線をむやみに動かすと、末席に控える夕月の姿が目に入った。恐れが少しだけやわらぐ。


「君ならで」

 女院の声が真正面から響く。領子は目を伏せて残りを詠みあげた。

「誰にか見せむ梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る」

 貫之の従兄弟の友則の歌だ。女院は満足そうに頷いた。


「ほう。学んだな。では次。名にしおはば」

「いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」

「よろしい。夢と知りせば」

 これは下の句の一部だ。大丈夫。思い出せる。


「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを」

「では乙女の姿」

「天つ風雲の通ひ路吹きとじよ 乙女の姿しばしとどめむ」

 好調だ。領子は得意そうに微笑む。女房たちも口々に誉めてくれる。


「松も昔の」

「誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」

 女院の態度も少しやわらぐ。


「うむ、格段の進歩だな。これ一つで終わろう。みかの原」

 自信を持って続ける。


「八十島かけてこぎ出でぬと 人にはつげよ天のつり舟」

 一息に繋げて賞賛を待つ。が、辺りは奇妙な静けさが満ちている。首を傾げた彼女は急に青ざめた。


「ごめんなさい。それは違いました。みかの原の後は、ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出し月かもです」

 女院の女房たちは嗤ったりはしない。だが困惑の表情が浮かんでいる。領子は青くなった。どうやら二つとも間違えているらしい。身体が微かに震えるのを感じる。


「わきて流るる」

 凛とした声が響いた。夕月だ。途端に領子は思い出した。

「わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらん」

 周りの空気はようやく解けた。女院はしばらく黙っていたが、不意に破顔した。


「よかろう。最後の一つは大目に見よう。どれ、褒美に明日内裏(だいり)に連れて行ってやろう」

「え」

 驚いて見返す。いつかは行かなければならない場所だが恐ろしいので近寄りたくはない。なのに女院は機嫌よく続ける。


入内(じゅだい)に備えて慣れておく必要がある。残念だったな、もっと早ければ白馬節会(あおうまのせちえ)を見せてやれたのだが。いや、今年は妙な様子だったからかえって良かったかもしれん」

「はあ」

「まずはわが弘徽殿(こきでん)に案内する。そなたが入内の折はこの場所を譲ろう。特に有力な者だけに与えられる格式ある殿舎だ。ありがたく思うがよい」


 礼を述べて頭を下げるが、内心ではせめて人目の少ない片端の場所のほうが良かったと考える。


「女房たちもこの姫の明日の支度は特に気を使え。男どもに垣間見せることは絶対にならんが、それでも女たちの口からその愛らしさが伝えられるように計らうのだぞ」

 女房たちが女院の命に素直に応える。領子は固い表情のまま黙ってそれを聞いていた。



 明け方近くまで夜烏は戻らなかった。弥生は与えられた小袿をまとってまどろみ、戸の軋む音を聴きつけて身を起こした。明烏が夜烏を支えて入ってくる。


「例の姫さまを越える分だけ呑んでみせた。手下の前ではしゃんとしていたが」

「………今も平気だっつーの」

「かもしれんが、昼過ぎには完全に醒めてくれなければ困る」

「わかってる。寝るわ」


 板間に倒れこむとすぐに寝息を立て始めた。弥生は地の厚そうな衣を集めて夜烏にかけてやった。そしてふと、視線を感じて明烏のほうを見ると驚いたような顔で自分を見つめている。少し考えて、慌てて小袿に手をかけた。


「忘れてたわ。夜烏がくれたの。絹だから温かいしこれもかけてやらなきゃ」

「………脱ぐな」

 弥生はきょとん、と明烏を見返す。


「え、もちろん下はいつもの格好よ」

「そのままでいろ。夜烏もそう言ったのだろう」

「ええ」


 開いたままの戸口から月の光が差し込む。栗色を帯びた弥生の髪がわずかに光る。明烏は言葉もなく女を見つめた。やがて、普段から口数の多くない男が珍しく静寂に耐えかねたかのように口を切った。


「おまえの髪も結構赤いな」

 弥生は微笑んだ。

「あんたもね。短いけどわかるわ」

「夜烏の髪は黒い」

「そうね。だけど私もあんたも似たような色ね」

 明烏は目を反らした。弥生は気を悪くした風もなく彼に尋ねた。


「今日、事を起こすの? 三日月がそれらしいことを言っていたけれど」

「ああ。………三日月はよく来るのか」

「ごく稀に。この家に入ることはないわよ。ちょっとした用事を伝えに来たり、干物を届けに来たりするわ」

「おまえの無事を確認に来るのだろうな」

「そんな大そうな相手じゃなし。あんたたちの様子を見に来てるんでしょ」

「ここに預けられているとはいえ、仲間の一人だろう」

「私はただの居候よ。ここでも、あそこでも」


 弥生は薄苦い色合いを微笑にのせた。明烏はそれを盗むように見た。


「それでも、おまえの命が第一の約定だ」

「夕月はそう言ったけれどあまり意味はないわ。子供の指切りとおんなじ。何か形が欲しかっただけよ」

 月影は小袿の紅をも引き立てる。それをかき寄せる女の指先がわずかにしなる。


「……おまえはそれでいいのか」

 まっすぐに顔を上げて明烏が尋ねた。こくん、と弥生が頷く。

「他にどうすればいいかもわからないし」

「………好いた男はいないのか」

 弥生が噴きだした。寂しげな面持ちがわずかに華やぐ。


「まさか。そんな余裕のある暮らしはしてなかったわ」

「それなのに利用はされるわけか」

「仕方ないわ。使える女は私しかいないわけだし」

 弥生の瞳がわずかに細められた。彼女は不意に背を向け、板間の奥に身を移した。


「もう行って。身体を冷やすわよ」

「…………」


 明烏は戸口でしばらくためらった。口では促す女の声に悲鳴のようなものが秘められているのを聞いたような気がした。けれどかける言葉も持たず、闇におぼろな女の姿をただ眺める。輪郭さえ消えそうに見える。

 何度か声を出しそこね、ようやく「おまえも、もう寝ろ」とだけ呟いた。

 女がそっと頷いた。明烏は軋む戸を可能な限り静かに閉めた。

 外では月が男の影をただ長く伸ばした。




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