第20話:敗走
「随分と遅かったじゃねえか、ドブネズミ共!!」
天井からのまばゆい照明が、金庫室の闇を完全に払った。
同時に、倉庫の四方に設置された通気口から、シューッという不気味な音と共に鮮やかな紫色の煙が噴き出し、瞬く間に室内を充満していく。
「チィッ……っ! なんだ、この煙……魔力が、練れない……!?」
「……ただの毒煙じゃない。魔力回路を強制的に閉じる特殊な香木。……罠」
シエルが即座に口元を覆い、静かに短刀を抜く。
周囲のバリケードを蹴り破り、包囲するように現れたのは、異様に筋肉が膨れ上がり、瞳孔が開いた黒蜘蛛の構成員たちだった。彼らは皆、紫黒色の魔法薬で痛覚を麻痺させ、肉体を限界まで暴走させている。
そしてその構成員たちの中心から、巨大な戦斧を肩に担いだ男が悠然と歩み出てきた。
顔面に深く刻まれた悍ましい『十字の傷』が、照明を受けて引きつるように笑っている。
「ガザル……ッ!」
「よう、久しぶりだなァ、リリヤ! 俺の顔にこんなモン刻んでくれた恩、一日たりとも忘れちゃいねえぜェ!」
十字傷のガザル。かつて裏社会でリリヤに敗れ、所属組織ごと叩き潰された男だった。
圧倒的に不利な閉所での戦闘が、突如として幕を開ける。
普段の彼女たちであれば、魔力が制限されようと一対多だろうと、力技で制圧できるだけの人外めいた身体能力がある。だが、今日のヒロインたちには『絶対に大きな騒ぎを起こせない』という重い枷があった。
ここで派手な破壊行為に及べば、数日後に控えた査問会議において「白百合騎士団の粗暴さ」「平民の男を庇い立てして理性を失っている」という、急進派の思う壺となる格好の攻撃材料になってしまうのだ。
「くっ……! 鬱陶しい……っ!」
リリヤの剣が構成員の肉を裂き、シエルの短刀が的確に急所を貫く。だが、薬で強化された男たちは致命傷に近い傷を負ってもお構いなしに突撃してくる。魔法で一網打尽にすることもできず、ジリ貧の肉弾戦を強いられていた。
さらに、ガザル本人の規格外の膂力による戦斧の一撃がシエルを捉え、彼女の肩口から鮮血が舞った。
「シエル!!」
「……んっ。平気。でも……おかしい。防壁魔法が、完全に……」
シエルの呟きに、ガザルが狂気を孕んだ笑みを浮かべる。見れば、奴の片手には奇妙な形の魔導具が握られていた。そこから発せられる不可視の波動が、二人が無意識に展開しようとした微弱な防壁魔法すらも直接掻き消しているのだ。
「結界器まで持ち出してきたのか! チィッ、本命の拠点じゃない。ここはただの罠か……!」
「引くぞ、シエル!!」
これ以上の戦闘は無意味だ。撤退を決断し、出口へ向けて反転したその瞬間――。
外で待機して見張りをしていたはずのガロが、身を挺して正面の重い木扉を破壊し、外からの月明かりを招き入れた。
「ガロ……! 何やってんだあんたは!」
「馬鹿野郎、早く逃げろ! ここで死ンじまったら、この街の掃除は誰がやるんだ!」
ガロは懐に隠し持っていた煙幕玉を地面に叩きつけ、視界を奪う。だが、その隙を突いた敵の凶刃を浴び、彼はその場に倒れ込んでしまった。
リリヤは悲痛な叫びを上げながら彼を抱え上げ、シエルが血を流しながら殿を務める。二人は文字通り、命からがら倉庫から脱出することに成功した。
――数時間後。
白百合騎士団の女子寮。裏口からこっそりと帰還した二人は、泥と血にまみれ、心身共にボロボロだった。
査問会議前の最も重要な潜入捜査での、手痛い敗北。証拠は掴めず、協力者に怪我を負わせ、あまつさえ因縁の敵に後れを取ってしまった。圧倒的な実力者である彼女たちにとって、これほどの屈辱と絶望はない。
「……ごめん、シエル。あいつが絡むと、冷静じゃいられない……っ」
「……謝らないで。私の、索敵ミス。これじゃあ……レオンを守るどころか……」
暗い廊下で、二人はどうしようもない無力感に圧し潰されそうになっていた。
その時、廊下の奥から急ぎ足の足音が近づいてきた。
「シエルさん、リリヤさん……? どうしたんですか、その怪我は!?」
パタパタとスリッパを鳴らし、レオンが血相を変えて駆け寄ってきた。
本来なら、彼にこんな情けない姿は見せたくなかった。最強の騎士として、平然と彼を守り抜くはずだったのに。
「レオン……ごめん、起こしちゃった……」
「……見ないで」
「謝らないでください! 急いで手当てを……っ!」
レオンは二人を自室の大きなベッドに休ませると、信じられないほど手際よく、かつ羽のように優しい手つきで止血と包帯の処置を施し始めた。
そして、傷ついた二人の冷えた体を温めるため、特製の温かいスープを運んできた。
「大丈夫です。傷はそんなに深くありません。……痛かったですよね。よく、無事に帰ってきてくれました」
温かいスープの湯気と、レオンの底抜けに優しく甘い声。
その瞬間、リリヤとシエルの中で張り詰めていた誇りという名の糸が、プツリと切れた。
「っ……あ……ううっ……!」
「……っ、っ……」
顔を覆い、しゃくり上げるような嗚咽が漏れる。一度溢れ出した涙は、誰が止めることもできなかった。
悔しくてたまらなかった。情けなくてたまらなかった。彼のために戦ったのに、彼に傷を癒やされている自分が、ひどく惨めだった。
それでもレオンは、何も聞かずにただ二人の背中を優しく撫で続けた。
「泣いていいですよ。僕の前では、無理しないでください」
レオンが傍にいてくれる。その事実だけが、今の彼女たちにとって唯一の光であり、最大の救済であった。
だが、事態は最悪を極めている。強大な敵、見えない権力、奪われた武力の優位性。
勝利への道筋は、完全に絶たれたかに見えた――。




