【番外編】初恋の車窓と、暴走の始まり
これは、後に「完璧にして冷徹な王太子」と呼ばれることになる男が、まだほんの小さな少年だった頃の記憶。
当時、八歳だったリヒャルトは、過酷な英才教育と、自分を囲む環境の「居心地の悪さ」にすでに胃を痛めていた。
原因の九割は、父親である国王と母親である王妃だ。
公式の視察へ向かう馬車の中でも、国王は「ああ、今日も愛しい私のバラよ、その潤んだ瞳が眩しい」などと囁き、王妃も「まあ、あなたったら」と扇で口元を隠して微笑み合っている。
(……王族たるもの、公衆の面前でここまで締まりのない顔をしてはならん。私は絶対に両親のようにはならない……絶対にだ!)
幼いリヒャルトは拳を強く握りしめ、両親のラブラブぶりから逃げるように、ガタゴトと揺れる馬車の小さな窓の外へと視線を逸らした。
馬車はちょうど、王都の賑やかな下町――「職人通り」の近くを通過しているところだった。
身分の高い人間なら眉をひそめるような平民たちの雑多な喧騒。しかし、そこには城にはない、生き生きとした熱気が満ちていた。
そして、その人ごみの中で、リヒャルトの真紅の瞳はある「二人組の少女」に吸い寄せられた。
「――っ」
一人は、蜂蜜色の髪を揺らし、赤い果汁と甘い蜜を口の端につけながら、出来立ての『ハニーベリーの果実串』を最高に幸せそうに頬張っている少女。その新緑の瞳は、まるで太陽の光を浴びた葉のようにキラキラと輝いていた。
そしてもう一人の少女は、まだ幼い子供だというのに、自分の身体ほどもある分厚い『古代魔導書』を大事そうに抱え、眼鏡をクッ、と指で押し上げながら、隣の少女に呆れたような視線を向けている。
(な、なんだあの二人は……? あんなに小さな子供が、なぜあんな禍々しい魔導書を抱えている……? いや、それより――)
リヒャルトの視線は、果実串を頬張る蜂蜜色の髪の少女から離れなくなった。
彼女が果実を一粒かじるたびに、心底嬉しそうに頬を緩め、花が咲くような笑顔を見せる。
城の中にいる淑女たちは、みな貼り付けたような完璧な笑みを浮かべ、本音を隠してリヒャルトに媚びを売ってきた。しかし、窓の向こうの彼女は、ただ下町の甘味を食べているだけで、世界中の誰も追いつけないほど眩しく、輝いていたのだ。
ドクン、と胸の奥が大きく跳ねた。
「おい、リヒャルト。何をそんなに窓の外を凝視しているんだ?」
「……な、何でもありません、父上!」
慌てて振り返るリヒャルトの顔は、自分でも驚くほど赤くなっていた。
ほんの数秒、擦れ違っただけの名も知らぬ下町の少女。けれど、その眩しい笑顔は、リヒャルトの幼い心に消えない印を残したのだった。
◇◇◇
それから数年の月日が流れた。
リヒャルトは成長し、誰もが恐れ敬う「氷の王太子」となった。自由すぎる父親を支えるために過剰な責任感を背負い、両親への反面教師から鉄仮面を被り続けた彼は、いつしか他人を寄せ付けない冷徹な雰囲気を纏うようになっていた。
だが、彼の胸の奥底には、ずっとあの日の「蜂蜜色の髪の少女」が生き続けていた。
(あの子は誰だったのだろう。ただの下町の平民だったのだろうか。もう一度、あの笑顔を見たい――)
そう思いながらも、身分が邪魔をして自ら探しに行くこともできず、不器用な少年はただ想いを燻ぶらせていた。
そして迎えた、王立学園の入学式。
新入生代表として壇上に立った十五歳のリヒャルトは、大講堂に集まった生徒たちを冷ややかな真紅の瞳で見下ろしていた。貴族の子女たちが息を飲み、王太子の圧倒的な美貌と覇気に熱視線を送る。
その中に、《《彼女》》はいた。
「――!?」
リヒャルトは思考が停止しそうになるのを、気合で踏みとどまった。
一番前方の列。新入生の制服に身を包んだ、あの蜂蜜色の髪。澄み切った新緑の瞳。
間違いない。あの時の少女だ。
さらにその隣には、相変わらず分厚い魔導書を小脇に抱え、眼鏡をキラリと光らせている黒髪の少女の姿もある。
(平民ではない……貴族の令嬢だったのか! 学園に……私と同じ場所にいる……!)
リヒャルトの心の中で、数年間眠っていた巨大な感情が、音を立てて爆発した。
入学式が終わり、控室に戻るやいなや、彼はすぐさま側近の近衛兵を呼びつけた。
「今すぐ今年度の新入生名簿を持ってこい!!」
「は、はいっ!? ただちに!」
数分後、震える手で名簿をめくったリヒャルトの指が、ある一行で止まった。
『レイア・シルフィード(風魔法特待生/シルフィード伯爵家長女)』
「……レイア」
その名前を口にした瞬間、リヒャルトの中で「何か」が完全に弾けた。
長年探し続けた運命の少女。その名前を手に入れた瞬間、彼の中に潜んでいた「父親譲りの過剰で激重な愛の遺伝子」が、一気に牙を剥いたのだ。
「レイア……レイア・シルフィード……! ついに見つけたぞ。もう絶対にお前を逃がさん……!」
部屋にいた側近たちが「殿下の雰囲気が急に狂暴な魔王みたいになった」と怯えて退散する中、リヒャルトは即座にペンを走らせた。
ターゲットは、レイアの隣で妖しい光を放っていたあの眼鏡の少女――クロエ・バレット。
『彼女の好物、よく行く場所、すべてを報告せよ。見返りに王宮禁書庫の閲覧権を与える』
「ふふ……ふははは!」
冷徹な王太子はどこへ行ったのか。
初恋の少女の名前を知ったその日から、不器用すぎるツンデレ王太子の「全力すぎるストーカー的溺愛(と空回り)」の歴史が、静かに幕を開けたのだった。




