路地裏の秘密
王都の青空に、白亜の尖塔が美しく映える。
ここは王立魔法学園。身分を問わず、優れた魔力を持つ若者たちが集う、歴史ある学び舎だ。
「――ふう、今日の座学も長かったわね」
シルフィード伯爵家の令嬢、レイアは、使い込まれた魔導書をパタンと閉じ、大きく息を吐き出した。
輝く蜂蜜色の緩やかなウェーブヘアに、新緑を思わせる瑞々しいグリーンの瞳。整った容姿でありながら、その表情には高位貴族の令嬢特有の「気取り」が一切ない。
レイアが得意とするのは風属性の魔法だ。その魔力は、伯爵家の中でも随一と言われていたが、本人はいたってマイペースな性格だった。
「本当よ。魔力の流動理論なんて、実技で体感すれば一発なのに、どうしてあんなに難解な数式にするかしら」
呆れたように同意したのは、レイアの幼馴染であり、クラスメイトの子爵令嬢、クロエだ。眼鏡の奥の利発そうな瞳を輝かせ、早くも教科書を鞄に仕舞い込んでいる。
レイアとクロエには、学園の誰にも言えない「秘密の放課後」があった。
それは、高級な馬車を離れ、制服を脱ぎ捨て、一般の平民のような素朴な衣服に着替えて、王都の下町を散策すること。
「ねえ、レイア。今日は西区の路地裏に新しくできた、ハニーベリータルトのお店に行ってみない? なんでも、職人通りのテオおじさんが、魔導窯を使って極限までサクサクに焼き上げているらしいの」
「魔導窯のサクサクタルト!? 行くわ、絶対にいく。クロエ、今すぐ着替えましょう!」
レイアの瞳がキラキラと輝く。
二人は手早く学園の女子寮へ戻ると、あらかじめ用意していた麻のワンピースと、髪を隠すためのキャスケット帽を身につけた。鏡に映るのは、どこにでもいるちょっと小綺麗な町娘の姿だ。
学園の裏門から、風の魔法で足音を消しながらするりと抜け出す。
その瞬間、レイアの胸は解放感でいっぱいになった。高価なだけの社交界の夜会よりも、活気に満ちた下町の匂いや、行き交う人々の笑い声の方が、彼女にとっては遥かに魅力的だったのだ。
「いらっしゃい! 焼きたてだよ!」
職人通りの狭い路地に入ると、甘酸っぱいベリーと香ばしいバターの香りが鼻腔をくすぐった。
小さな露店のカウンターで、二人はお目当てのタルトを買い、近くの古びた噴水の縁に腰掛けた。
「んん~っ! 美味しい……! サクサクの生地の中から、温かい果汁が溢れてくるわ!」
「最高ね。伯爵邸の専属料理人が作るお菓子も上品だけど、この『ガツンとくる甘さ』は下町ならではだわ」
レイアは幸せのあまり、ふにゃりと頬を緩ませた。風の魔法で周囲に軽い結界を張り、一般の平民には自分たちの会話が聞こえないようにする気配りも忘れない。
「そういえば、レイア。今日の午前中、騎士科の訓練場の方をずいぶんと熱心に見ていたでしょう?」
クロエがタルトをモグモグと食べながら、悪戯っぽく視線を送ってきた。
レイアは一瞬で顔を真っ赤にし、持っていたタルトを落としそうになった。
「な、何言ってるのよ、クロエ!」
「隠さなくてもいいのに。アルフレッド様のことでしょ?」
アルフレッド・フォン・グランヴェール。
グランヴェール侯爵家の令息であり、学園の騎士科で「並ぶ者なし」と謳われる天才剣士だ。
爽やかなプラチナブロンドの髪に、誠実さを体現したような琥珀色の瞳。誰に対しても優しく、高潔な彼は、学園中の女子生徒の憧れの的だった。
そして、レイアにとっても、彼は「特別な憧れ」だった。
以前、夜会で嫌がらせを受けていたレイアを、アルフレッドがスマートに助けてくれたことがある。それ以来、レイアは遠くから彼を見つめるだけで、甘酸っぱい恋心を抱いていた。
「だって……アルフレッド様、今日も白銀の甲冑が本当にお似合いで……。剣を振るう姿が、まるで一幅の絵画のようだったんだもの。私なんて、遠くから風の悪戯を装って、彼の汗を拭う風を送るのが精一杯よ」
「それ、ただのストーカー魔法の一歩手前だからね?」
クロエが呆れ半分、微笑ましさ半分でツッコミを入れる。
レイアは「もう!」と膨れたが、憧れの人の名前を出されるだけで、胸の奥がハニーベリータルトよりも甘く、熱くなるのを感じていた。
しかし、そんな甘い空気は、突然の「歓迎せざる声」によって一瞬で凍りついた。
「――相変わらず、シルフィード伯爵令嬢は、道草を食う場所が独特だな」
背後から響いた、低く、どこか傲慢でありながら、極上の楽器のような深い声。
レイアの背筋に、冷たい電流が走った。
ゆっくりと振り返ると、そこには、下町の薄暗い路地裏には絶対に存在してはならない、圧倒的なオーラを放つ男が立っていた。
艶やかな漆黒の髪に、すべてを見透かすような冷徹な切れ味を持つ、真紅の瞳。
仕立ての良い漆黒の私服を身にまとっているが、その身のこなし、放つ魔力の濃密さは、彼がこの国の頂点に立つべき人間であることを示している。
リヒャルト・フォン・オルランディ。
オルランディ王国の第一王子であり、次期国王たる王太子殿下その人だった。
「お、王太子……じゃなくて、リヒャルト様……!?」
レイアは慌てて立ち上がり、キャスケット帽を押さえながら声を潜めた。平民に変装しているため、大声で「王太子殿下!」などと叫べば大騒ぎになってしまう。
リヒャルトは、レイアの慌てふためく姿をじっと見つめると、ふっと意地の悪い笑みを唇の端に浮かべた。
「なんだ、その格好は。ネズミかと思ったぞ。伯爵令嬢ともあろう者が、このような不衛生な下町の路地裏で、口の周りをベリーまみれにして……。相変わらず品格という言葉を知らないらしい」
(な、なによその言い方……!!)
レイアの額に、ピキリと青筋が浮かんだ。
このリヒャルト王太子、学園でも、あるいは宮廷の夜会でも、なぜかレイアを見つけるたびに近づいてきては、こうして嫌味や小言を言ってくるのだ。
「魔法のコントロールが甘い」「制服の裾が短い」「歩く速度が早すぎる」――。
レイアにとって、リヒャルトは「私のことが大嫌いで、目の敵にしてくる、一番苦手な人」だった。
「リヒャルト様こそ、このような場所に何の御用ですか? 王太子殿下が、護衛も連れずに下町をうろつくなんて、危機管理能力を疑いますわ」
レイアも負けじと、ツンと小鼻を鳴らして言い返した。
隣で、クロエが「ああ、また始まった……」という顔で、そっと頭を抱えている。
「私は王都の治安視察だ。お前のように、甘味に釣られて這い出てきたネズミとは違う」
リヒャルトはそう言うと、大股でレイアに近づいた。
あまりの距離の近さに、レイアは思わず一歩身を引こうとしたが、背後は噴水の縁。逃げ場がない。
リヒャルトはレイアを見下ろし、その綺麗な真紅の瞳を少しだけ細めた。
そして、何を思ったのか、懐から上質なシルクのハンカチを取り出すと、レイアの頬に触れた。
「ひゃいっ!?」
変な声が出た。
冷たいハンカチの感触が、レイアの左の頬を少し乱暴に拭う。
「……ベリーのソースがついている。だらしない。これでは、誰がどう見ても伯爵令嬢には見えないな」
「う、うるさいわね! 自分で拭けますわ!」
レイアはリヒャルトの手をパッと払いのけ、ハンカチを奪い取った。
顔が、アルフレッドを想っていた時とは違う意味で、カッカと熱くなる。怒りのせいだ、とレイアは自分に言い聞かせた。
リヒャルトは払われた自分の手を見つめ、ほんの一瞬だけ眉をひそめ、すぐにいつもの冷徹な仮面に戻った。
「まあいい。学園の門限には遅れるなよ、レイア。お前が夜道で魔獣にでも襲われたら、シルフィード伯爵への言い訳が面倒だからな」
「言われなくても戻りますわ!もう!」
レイアがそっぽを向くと、リヒャルトは最後に彼女の蜂蜜色の髪を、まるで惜しむように一瞥し、静かに路地裏の闇へと消えていった。
彼の姿が完全に見えなくなると、レイアは大きく肩を落として噴水にへたり込んだ。
「なんなのよ、もう……!どうしてあの殿下は、いつもいつも私にばかり意地悪を言うのかしら。本当に嫌な奴!」
奪い取った高級なハンカチを握りしめながら、レイアはぷんぷんと怒り続けた。
しかし、レイアは気づいていなかった。
リヒャルトが去り際に、レイアが持っていたハニーベリータルトの「お店の名前」を、しっかりと記憶に焼き付けていたことに。
そして、彼がわざわざ護衛を遠ざけてこの路地裏に現れたのが、他でもない「レイアがここに向かった」という情報を得たからだということに。
「……レイア」
クロエが、タルトの最後の一口を飲み込みながら、深い溜め息をついた。
「あなた、本当に魔法の成績は『優秀』なのに、人間の心の機微に関しては、壊滅的に『無能』よね」
「え? 何のこと?」
純粋な新緑の瞳で小首を傾げるレイアに、クロエは「なんでもないわ」と首を振る。
(王太子殿下、本当に不器用すぎるわ……。あんなにレイアのことが好きなのに、あれじゃただの意地悪なクソガキじゃない。)
クロエは心の中でニヤリと笑った。
王都の下町に、少しずつ夕暮れのオレンジ色が染み渡っていった。




