騎士科との演習
下町での騒動から一夜明けた、王立魔法学園。
昨夜、寮の自室に戻ってからというもの、レイアの頭の中はぐちゃぐちゃだった。
(なによ、あの傲慢ツンツン王太子……! 人の事をネズミだなんて言っておいて、あんな綺麗なハンカチで拭くなんて、やってることが矛盾してるわ!)
机の上に綺麗に洗濯して畳まれた、最高級シルクのハンカチを見つめながら、レイアは朝から何度もため息を吐いていた。王室の紋章が隅に刺繍されたそれは、あまりにも場違いで、手元にあるだけで心臓に悪い。
「朝からずいぶんと熱烈な視線をハンカチに送っているのね、レイア」
気がつけば、後ろから覗き込んでいたクロエが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「ち、違うわよクロエ! これはただ、どうやって返そうか悩んでいただけよ!」
「そのまま直接手渡せばいいじゃない。殿下なら大喜びで――ゴホン、喜んで受け取るわよ」
「嫌よ、あんな目の敵にしてくる人に近づきたくないわ。……それより、今日は大変な日じゃない?」
レイアは強引に話題を切り替えた。
そう、今日の放課後は、学園の恒例行事である『魔法学科と騎士科の合同演習』が行われるのだ。
この演習は、将来の宮廷魔導師と近衛騎士の連携を想定したもので、広大な第一訓練場に両学科の生徒が集結する、一大イベントだった。
何より、レイアにとってこの演習は、憧れのアルフレッドの雄姿を合法的に、しかも至近距離で拝むことができる貴重な時間なのである。
「ハンカチのことは忘れて、アルフレッド様の応援に全力を尽くすわ!」
「はいはい、切り替えが早くて結構なことね」
クロエは呆れつつも、面白そうなイベントを前にして瞳を輝かせるのだった。
午後、第一訓練場は熱気に包まれていた。
遮蔽物となる擬似的な岩や木々が魔法で配置され、本番さながらの戦場が再現されている。
魔法学科の生徒たちはそれぞれローブをまとい、騎士科の生徒たちは眩しい金属製の甲冑を身につけて整列していた。
「――やあ、レイア嬢。今日の演習、お互いに頑張ろうな」
不意に、鼓膜を震わせる爽やかな声が届いた。
振り返ったレイアは、危うくその場で卒倒しそうになった。
そこには、白銀の甲冑を完璧に着こなし、腰に模擬剣を帯びたアルフレッドが立っていた。プラチナブロンドの髪が太陽の光を浴びてキラキラと輝き、琥珀色の瞳が優しくレイアを見つめている。
「ア、アルフレッド様……! は、はいっ、ご挨拶いただき光栄ですわ! 今日の演習、アルフレッド様のご活躍を心から応援しております!」
緊張のあまり、レイアはまるで新兵のようなカチコチの敬礼をしてしまった。
アルフレッドはそれを見て、クスリと品良く微笑む。
「ありがとう。君のような優秀な風の魔導師に応援してもらえるなら、百人力だ。……ああ、そうだ。実は今日の演習には、特別な『総指揮官』が参加される予定でね」
「総指揮官、ですか?」
「ああ。私たちの連携を直接評価するために、わざわざお越しくださったんだ。ほら、あそこに――」
アルフレッドが視線で示した方向を見た瞬間、レイアの笑顔が完全に凍りついた。
訓練場の一角に設けられた特等席。そこには、金色の刺繍が施された極上の軍服をまとい、尊大に椅子に腰掛ける男の姿があった。
艶やかな黒髪に、冷徹極まりない真紅の瞳。
昨日、下町の路地裏でレイアの頬を拭いた張本人――王太子リヒャルトだった。
(なんであの人がここにいるのよ……!?)
レイアが心の中で絶叫したその時、リヒャルトの視線が、正確にレイアの姿を捉えた。
彼の美しい眉がピクリと跳ね上がる。そして、レイアのすぐ隣に立つアルフレッドへと視線が移った瞬間、リヒャルトの瞳に、見るからに不機嫌そうな、暗い光が宿った。
ビリビリと、遠目からでもわかるほどの圧倒的な威圧感が訓練場全体に広がる。
周囲の生徒たちが「ひっ、王太子殿下のご機嫌が斜めだぞ……」「今日の査定、厳しくならないか?」とガタガタ震え始めた。
(完全に私を睨んでるわ……! 昨日のことをまだ根に持っているのね、器の狭い殿下だわ!)
レイアはギュッと拳を握りしめ、リヒャルトから目を逸らした。
「――これより、合同演習を開始する!」
教官の号令とともに、演習の幕が上がった。
前半は、騎士科の生徒が前衛に立ち、魔法学科の生徒が後衛から援護しつつ、配置されたゴーレムを撃破していく実戦形式だ。
アルフレッドの動きは、まさに圧巻の一言だった。
大振りの大剣を軽々と操り、ゴーレムの突進を鮮やかにいなしては、急所を的確に突いていく。
「すごい……! なんて無駄のない洗練された動きなのかしら!」
レイアはうっとりとその姿を見つめていた。アルフレッドが敵を倒すたびに、周囲の女子生徒たちから黄色い歓声が上がる。レイアも心の中で激しく拍手を送っていた。
しかし、そんな平穏な時間は長くは続かない。
前半の基本演習が一段落したその時、特等席からゆっくりと立ち上がったリヒャルトが、訓練場の中心へと歩み出てきたのだ。
「そこまで」
彼の低く冷徹な声が響き渡ると、訓練場は一瞬で静まり返った。
リヒャルトは、腰に差した漆黒の儀礼剣の柄に手をかけながら、冷ややかに生徒たちを見渡した。
「実につまらん。騎士科は腰が引けているし、魔法学科は詠唱の速度が遅すぎる。これでは実戦なら開始三分で全滅だな」
手厳しい酷評に、生徒たちがガックリと肩を落とす。
リヒャルトの真紅の瞳が、ふらふらと動いて――再び、レイアの前でピタリと止まった。
「特に、シルフィード伯爵令嬢」
「は、はいっ!?」
突然名前を呼ばれ、レイアは思わず飛び上がった。
「お前だ。先ほどから風の魔法の展開速度が、許容範囲よりも数秒遅い。お前が放っているのは魔法ではなく、ただのそよ風か?」
「なっ……!」
(そよ風!? 私の全力のエアバーストをそよ風だなんて……!)
レイアの負けず嫌いな魂に、一瞬で火がついた。いくら王太子殿下とはいえ、血の滲むような努力で磨き上げた風の魔法を侮辱されて、黙っていられるはずがない。
「リヒャルト様、それは誤解ですわ。私は前衛の動きを邪魔しないよう、あえて威力を最適化して――」
「言い訳は不要だ。……ならば、お前のその『最適化』された魔法が、私に通用するかどうか、直接査定してやろう」
リヒャルトはフッと口元を歪め、漆黒の剣を鞘からすらりと引き抜いた。
「おい、冗談だろ……? 王太子殿下が直接手合わせするのか?」
「シルフィード嬢、目を付けられすぎじゃないか……?」
周囲のざわめきを他所に、リヒャルトはレイアに向かって不敵に顎をしゃくった。
「来い、レイア。お前の実力が口先だけではないと、私に証明してみせろ。もし私の服の裾の端でも綻ぶような事があれば、先ほどの非礼を詫びてやろう」
「……望むところですわ!」
レイアはカチンときて、ついに我忘れて前に出た。
隣でクロエが「ちょっと、レイア! 相手は国内最強の魔剣士よ!?」と止めるのも耳に入らない。
訓練場の中央で、二人が対峙する。
リヒャルトは剣を抜いているものの、その構えには一切の隙がない。完全にレイアを「子供扱い」している余裕の態度だ。
(絶対に、あの綺麗な軍服の裾を破いてやるんだから……!)
レイアは愛用の樫の木の杖を構え、体内の魔力を一気に練り上げた。
「――風よ、集え! 迅雷の如く駆け抜けろ、『ブラストショット』!」
レイアの杖の先から、肉眼で見えるほどの超高圧縮された風の弾丸が、猛烈な速度でリヒャルトへと放たれた。直撃すれば、巨大な岩をも粉砕する威力だ。周囲の生徒たちから「おおっ!」と驚きの声が上がる。
しかし、リヒャルトは微動だにしなかった。
彼は迫り来る風の弾丸に対し、漆黒の剣をただ一振り、横に薙いだだけだった。
パンッ!!!
信じられないことに、レイアの渾身の風の魔法は、リヒャルトが剣に纏わせた極薄の魔力障壁によって、霧散するように完全に掻き消されてしまったのだ。
「なっ……!?」
「速度は悪くない。だが、軌道が素直すぎる。相手の動きを予測して、風の『流れ』を操れと言っているんだ」
リヒャルトは冷酷に言い放つと、一瞬で間合いを詰めてきた。
その移動速度は、まるで瞬間移動のようだ。気がついた時には、リヒャルトの端正な顔が、レイアの目の前に迫っていた。
「ひゃあっ!?」
驚いたレイアは、慌てて後ろに飛び退こうとした。
しかし、運悪くそこは先ほどの演習でゴーレムが削り取った、地面の窪みだった。
「あ、」
完全にバランスを崩し、レイアの身体が後ろ向きに派手にひっくり返りそうになる。スローモーションのように遠ざかる青空を見つめ、レイアは「あ、終わった、頭を打つわ」と覚悟を決めて目を閉じた。
――だが、衝撃は来なかった。
代わりに、驚くほど強固で、温かい「何か」が、レイアの細い腰をがっしりと受け止めた。
「――おっと」
低く、耳元で響いた声。
レイアが恐る恐る目をあけると、視界いっぱいにリヒャルトの顔があった。
彼は左腕をレイアの腰に深く回し、彼女の身体を完全に抱き留めていた。二人の距離は、互いの吐息がかかるほどに近い。
リヒャルトの真紅の瞳が、至近距離でレイアをじっと見つめている。その瞳には、先ほどの冷徹さは微塵もなく、むしろ「危ないだろう」と言いたげな、隠しきれない過保護な優しさが揺らめいていた。
「……っ、」
レイアの心臓が、ドクンと大きな音を立てた。
アルフレッドを見ている時の『憧れ』のときめきとは違う、頭が真っ白になり、息ができなくなるような、強烈な鼓動。
「……怪我はないか、レイア」
リヒャルトの声が、驚くほど低く、甘く、かすかに震えていた。
「あ、え、あの……は、はい……」
あまりの状況に、レイアが完全にキャパオーバーを起こして真っ赤になっていると、リヒャルトはハッと我に返ったように表情を険しくした。
そして、名残惜しそうに腕の力を緩めると、レイアをゆっくりと地面に立たせ、わざとらしくフンと鼻を鳴らした。
「本当に、お前というやつは危なっかしい。魔法のコントロール以前に、自分の足元の管理すらできないのか。……今日の演習はここまでだ!」
リヒャルトはそう言い残すと、耳の裏を少しだけ赤く染めながら、大股で訓練場を去っていった。
後に残されたレイアは、赤くなった顔を手で押さえながら、その場にへたり込んだ。
(な、なんなのよ、もう……! 意地悪を言ったり、助けてくれたり……わけがわからないわ!)
遠くから、アルフレッドが心配そうに駆け寄ってくるのが見える。しかし、今のレイアの胸の奥で暴れている妙な熱さは、さっきまで憧れていたはずの騎士様ではなく、去っていった不器用な王太子の残した温もりのせいだった。
「……ねえ、レイア」
いつの間にか隣に立っていたクロエが、顎に手を当てて、完全に『すべてを察した』顔で微笑んでいた。
「あなた、今の抱き留められ方、完全に恋愛小説のヒロインだったわよ。殿下のあの必死な顔、全校生徒に見せてあげたかったわ」
「な、何言ってるのよクロエのバカ――!!」
レイアの絶叫が、夕暮れ時の訓練場に虚しく響き渡る。
リヒャルトの不器用すぎる「特別扱い」に、レイアの心は、下町の嵐よりも激しく翻弄され始めていたのだった。




