第1話 呪い
大好きだったのに。
こんなの嫌だ。
大好きだったのに。
もう嫌いだ。
何も聞きたくない。
何も触りたくない。
僕をそんな目で見ないで。
♪
高校の校舎の屋上。転落防止のフェンス越しに、青年が夕焼けを見ていた。この高校に通う2年生の三島隆司だ。何も言わず、ただ空を見つめている。
「やっぱりここにいた」
教師が声を掛けた。
「屋上は立入禁止なんだけど」
「なんだ、カコ姉ぇか……」
「学校で『カコ姉ぇ』って呼ぶなって言ってるでしょー」
「はいはい、すみませんでした、榎本先生」
「よろしい!とりあえず降りなさい。部活もやってないんだから最終下校時刻まで残るんじゃない」
「はいはい……」
三島はトボトボと榎本の方へ歩く。
「先生が亡くなってもう1年よ。そろそろ戻ってもいいんじゃない?」
三島がすれ違う瞬間、榎本がボソッと言った。
「無理だよ。もう手が言う事聞かないんだから」
「……」
「それじゃ、さようなら、榎本先生!」
「ヤな奴!」
わざとらしく『先生』を強調しながら、三島は背中越しにヒラヒラと手を振った。誰もいなくなった屋上で、榎本は三島と同じく夕焼けを見つめる。
「そろそろあの子を解放してあげて下さい、先生……」
榎本佳子、この高校で音楽を教えている。
「三島!」
昇降口から外に出ると、クラスメイトが声を掛けてきた。
「今度の合唱コンクール、またお前が伴奏やってくれねーか?」
「あぁ、別にいいけど……」
「ビシビシやってくれ!今年も優勝しようぜ!」
去年、三島のクラスは学校史上初めて1年で合唱コンクールを制した。それ以来、三島の名前は学校中に知れ渡っている。ただ、伴奏をやる気にはなれなかった。
誰も帰りを待っていない自宅へ帰る。地上二階、地下一階の豪邸は、一人には広すぎる。鞄を自室に放り込み、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。キャップを開け、一口飲み込み、キャップを閉める。
三島は階段の前で立ち止まった。
「……」
いつもなら近づきもしない地下へと向かった。重い扉を開けると、もう一枚同じ扉が姿を現す。二枚目の扉をくぐると、真っ暗な空間が広がった。電気を点ける。
25帖の広いスタジオだ。
三島はそれに目を向ける。鈍い頭痛を感じる。すぐに視線を外し、グランドピアノの前に座った。鍵盤蓋を上げ、カバーを取る。音に狂いがないかを軽く確認した後、鍵盤に指を走らせ、一気に曲へ没入した。
♪
急に肩を叩かれた。三島はハッとして現実に引き戻された。
「なんだ、カコ姉ぇか……」
「随分な言い方ね。運指も荒いし、なんかあった?」
「別に……」
時計を見ると既に21時を過ぎていた。約4時間以上もピアノを弾いていたようだ。
「別にって事はないでしょ。話してみなさい」
「何でもないって!」
そう言って三島はスタジオを出て行った。
「隆司!」
むなしく扉が閉じる。榎本は床に無造作に置かれた鍵盤カバーを拾い、グランドピアノへ歩く。話せとは言ったが、実際榎本は分かっていた。先程のむせ返るようなピアノの演奏を聞けばなおさらだ。怒りと悲しみに満ち、まるで窒息寸前のようだった。
「父・三島尊が掛けた呪い……」
世界的ヴァイオリニストの息子という重圧と、父からのプレッシャーにより、三島はヴァイオリンを弾けなくなった。父が亡くなって1年が経つというのに、全く改善の兆しがない。
「隆司……」
三島はリビングのソファーに寝転がっていた。返事をしない。
「シカトかよー、隆司ぃー」
榎本がソファーの背もたれ越しに頭をワシワシと撫でる。
「んだよ!」
「返事くらいしろ、クソガキ」
「うるせぇ。後見人だからって偉そうにするなよ」
「何々?いっちょ前に反抗期?」
ニヤニヤしながら三島をつつく榎本。
「なんだよ!」
「あんた、別にもうヴァイオリンやらなくてもいいのよ?」
「え?」
それは三島にとって予想外の言葉だった。
「けど、屋上で『戻ってこい』って言ったじゃん!」
「あれは『ヴァイオリンをやれ』って意味じゃないわよ。あんたがどれだけ苦しんでたかなんて、一番近くにいた私が一番分かってるわよ」
「……」
「音楽は苦しむためにやるんじゃないの。苦しいんだったらやらなきゃいいのよ。ピアノが楽しいならピアノでもいい。ただ、笑顔でやりなさい。私が言いたいのはそれだけ」
三島はむっつりと黙り込んだまま、榎本を見つめていた。
「そんな事より、あんたご飯まだでしょ?」
「あぁ、うん……」
「しょうがないなぁ、私が作ってやるから待ってなさい!」
榎本は腕まくりをしながらキッチンへ向かう。それを見送りながら、三島はさっき言われたことを思い出した。
「笑ってなんて無理だ……」
三島の言葉は誰の耳にも入る事なく、力なく拡散し消えた。




