第4章 4 懇願
木曜日の午後、結衣はメインストリートにあるサイモンさんのオフィスを訪ねた。トローリー電車に乗るのは初めてだった。車窓から風景を眺めると楽しい気持ちになった。
サイモンさんのオフィスは、カラフルにペンキを塗り立てた五階建てのビルの中にあった。エレベーターで三階に上がった。
「ようこそ、ユイ」とサイモンさんは言った。「どうだったね。トローリーは」
サイモンさんはユイを抱きしめ、肩を叩いた。
「はい、窓からの景色がきれいで、楽しかったです」
「キャシー、こちらのかわいらしいお嬢さんにノースアイランドティーを差し上げて」
「日本からのお客さま?」
キャシーと呼ばれた女性はデスクから立ち上がり、結衣を抱きしめた。
サイモンは応接室に結衣を案内した。
「あと四日だね。ここにいるのも。どうだったね、テネシーは。楽しかったかい?」
「はい、とっても……」
「そうかい、それはよかった」
キャシーが入って来て、飲み物を二人に渡した。
「ユイ、キャシーが作ったノースアイランドティーは格別なんだ。こうやって客が来ないと、わたしもめったに飲めないんだよ」
「いただきます……。うん、おいしいです」と結衣はうなずいた。
「ごゆっくりね……」キャシーは小さく手を振った。
「さて……」サイモンさんは、グラスを置いた。「わたしのオフィスに来たということは、ショウヘイにはシークレットな話かな?」
「シークレット、ではないんですが、ひとつお願いしたいことがありまして……」
「わたしにできることなら……」
サイモンさんはそう言って人差し指を立てた。
「甲子園に行くのが、昇平くんの夢なんです。今年は無理だとしても、もし来年、腕が治ったら、日本に返してほしいんです」
「コウシエン……」サイモンさんは、腕組みをして肯いた。「もちろん、わかるよ。コウシエン……日本のキュウジ、だれもが憧れる、阪神タイガースのベースグラウンドだね」
結衣は大きく肯いた。
「昇平くんは、いつ、前のように全力で投げられるようになりますか?」
サイモンさんは、一呼吸おいて言った。
「彼の腕は、基本的には、もう治ってるよ」
「ほんとですか?」
「本当だとも。ただ、投げられる、というだけの話さ。以前のようにミラクルボールを投げられるかどうかは、これからのことだよ」
結衣の心中に不安がよぎった。
「日本に帰って、トレーニングをしても、それはかまわないが、わたしは、ショウヘイのミラクルボールを復活させるためのトレーニングを開始する。ミラクルボールの復活が、来年の夏に間に合えば、コウシエンもあり得るだろう。ただ、ユイ。忘れちゃいけないのは、ショウヘイのミラクルボールが復活してからなんだよ。すべてがスタートするのはね」
「可能性は……。昇平くんの腕が復活する、可能性は?」
「百パーセント、もしくは、ゼロだ……」
サイモンさんは、ノースアイランドティーをもう一口飲んだ。
「きみも飲みなさい。味が薄くなるといけない……」
結衣は言われるままに飲んだが、味がしなかった。
「あの、もうひとつ聞いていいですか?」
「なんだい?」
「昇平くんは、スーザンさんと仲がいいようなんですが……サイモンさんは、父としてどう思っていますか?」
「仲がいい? ただのボーイフレンドだろう。スーザンがだれを好きになろうと、わたしは気にしない。たとえそれが日本人でもね。失礼な言い方になったかな?」
「いいえ。今日はどうもありがとうございました」
結衣は立ち上がった。
「そうか! ユイにとっては、迷惑なんだね、スーザン。それはすまない。でもひとつだけ安心できる情報を与えよう。スーザンは移り気でね。シーズンごとに恋人を変えるんだよ。困ったものさ」
サイモンさんはそう言って笑った。




