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後編

 見覚えのある封筒には、やはり見覚えのある幼い筆跡で『わたくしの親愛なる魔法使いへ』と記されていた。

 記憶に間違いがなければ、裏には『あなたの小さな友人より』と書いてあるはずだ。切なさと皮肉をこめて走らせた筆の感触をはっきりと思い出せる。

「そ、その手紙……いったいどこで……!」

 とっさに手を伸ばすが、届く前にひょいっと後方へ放り投げられてしまった。白い封筒は床に散らばるありとあらゆる魔術師の品々に埋もれ、見えなくなった。

「ゼルグ!」

「ちゃんとあとで回収して大事に保管しておきますよ。もちろん、返却はできません」

「返してちょうだい! 今すぐに!」

「なぜですか? あれは私宛ての手紙でしょう?」

「そうだけれど……っ! でも、もう必要ないものだわ!」

「……お嬢さんは何か誤解しているようですね」

 うっすらと目を眇める仕種に、クラリーセは音を立てて凍りついた。逃げ出すことを考える暇もなく懐深く抱き寄せられ、あまつさえ旋毛に唇を寄せられる。

(なななな、何が起こっているの!? この状況はいったいどういうこと!?)

 クラリーセがすっかり借りてきた猫のようになっているのをいいことに、彼は金髪をまとめたリボンの垂れ下がった先で遊んでみたり、項の後れ毛を指先に絡めてみたり、ほっそりとしたくびれを描く腰をするすると掌でたどってみたり、とにかくクラリーセの心臓に悪いことばかりしでかしていた。極度の混乱の嵐から羞恥の海に投げこまれたクラリーセは、とうとう耐えきれずに懇願した。

「ゼ、ゼルグ、お願いだからちゃんと説明してちょうだい……っ」

 だんだんとあやしくなりはじめていた手の動きがぱたりと止まった。

 耳まで真っ赤に染めたクラリーセを見下ろし、彼はふと口元をゆるめた。なぜだろう、先ほどから自分に注がれるまなざしがどんどん甘くなっているような気がする。

「何から説明すれば?」

「ど、どういうつもりでこんなことを……」

「どうもこうも、長年に渡って自分に想いを寄せてくれている年下の女性を心から愛でているだけですが」

「手紙を読んだの!?」

「ええ、あなたが魔術書に忍ばせたその日のうちに」

 彼の片手が頬に触れ、するりと撫でられる。それだけでクラリーセの体温は跳ね上がり、堅い指先が掠めた耳が焼け落ちそうなほどだった。

「う、うそ……だってあなた、そんなそぶりぜんぜん見せなかったじゃない!」

「まだ社交界での披露も済ませていなかった子どものあなたに、まさか応えるわけにはいかないでしょう? ……それに、所詮は年頃の少女によくあるいっときの勘違いだと、見くびっていたんです」

 彼はわずかに目を逸らしてつけ足した。途端に涙を膨らませた野葡萄色の目に顔をしかめ、こぼれ落ちる前にそっと拭い取る。

「私はあなたを泣かせたいわけじゃないんですよ、お嬢さん。あなたの想いは私が考えていたよりもずっと深くて、まっすぐで、そして尊いものだったと今ならわかります。年を追うごとにきれいになっていくあなたを見つめながら、あなたの心が変わらず私に向き続けていてくれると確信した私の喜びが、あなたに理解できますか?」

 どこか苦しげに打ち明けられた告白は、クラリーセの胸の真ん中にすとんと落ちた。彼女は何度も瞬き、彼の表情をよく見ようと雫を払った。

「…………ゼルグは、わたくしのことが、好きなの?」

 ぽろりとこぼれた問いは、いつになく素直なものだった。彼は視線をクラリーセに戻すと、一瞬顔を歪め、それからほろ苦く笑った。

「ええ、お嬢さんが考えているよりもずっと昔から。あなたは私の心の安らぎなんですよ」

「それは、気心の知れた友人ということではないの?」

「友人というだけで満足する時期はとっくに通り過ぎました。いったい私がどれほどあなたの成長を待ち続けていたと? 旦那様と奥様のお許しをいただいて、あなたに求婚できるようになるまで、すっかり待ちくたびれましたよ」

「……ちょっと待って」

 おそろしい予感と戦いながら、クラリーセは尋ねた。

「お父様とお母様のお許しを貰っている、ですって?」

「はい。あなたからの手紙を読んでいただいた上で、もしもあなたの想いが変わらなかったらぜひお受けしたいということをお伝えしました。おふたりとも『がんばってくれ』と笑顔で快諾してくださいましたよ」

 それまでの苦悩を感じさせる顔はどこへ行ったのか、彼はにっこりと微笑んで言った。クラリーセはもはや悲鳴を上げることすらできなかった。

(あ、あの狸夫婦……!)

 貴族令嬢にあるまじき罵倒をあらん限り心の中で両親に叩きつけ、ついでに憎ったらしい想い人の胸をどんどん殴る。彼は喉の奥で笑いながら、どこまでも赤くなるしかないクラリーセの頬に軽く口づけた。

(おかしいわ、絶対におかしいわ。わたくしの知っているゼルグ・リュヒトがこんなに優しいというか色っぽいわけがないのに! だいたいどうして、こっ、恋人にするような真似をあっさりしてくるの? いつの間にこんなことができる間柄になったというの!?)

 父と母が許したということは、つまり自分と目の前の魔術師は将来を誓い合った仲という話になる。……では、彼に来ているという縁談はなんなのだ?

「ゼルグ、ゼルグ・リュヒト! まだわたくしの質問のすべてに答えていないわ!」

「……もう充分ご理解いただけたと思うんですがね、私の愛しいクラリーセ」

 滅多に口にしない名前を悩ましげに耳元で呼ばれ、クラリーセは危うく失神しそうになった。ほとんど意地と気力だけでなんとか堪える。

「わ、わたくし、あなたに縁談が来ていると確かに聞いたのよ! あなたの未来を思えばこの上なく最高の良縁だと! だ、だから、わたくしは……っ」

「その話ならとうに断りましたが?」

 あっさりとした回答に、勢いをくじかれたクラリーセはぱちぱちと睫毛を上下させた。

「こ、断った?」

「ええ、旦那様から話を聞いてすぐに」

「だ、だってあなた、『考えさせてほしい』って!」

「今後余計なちょっかいをかけられないようにするにはどんな方法がいいか『考えさせてほしい』という意味ですよ。まあ、それは私が考える間もなく旦那様が進んで引き受けてくださったたんですが」

「お父様だって乗り気だったじゃない!」

「私の心変わりをおためしになったんでしょう。その程度の嫌がらせは、あなたを手に入れられるのなら喜んでお受けしますよ」

 彼はにやりと薄く笑い、鼻先が触れ合うほどに顔を寄せてきた。

「そしてかわいらしい勘違いをしたあなたは、私のためを思って身を引こうとしたというわけですね?」

 もはやぐうの音も出ないクラリーセは、涙目になりながら彼を睨むことしかできなかった。しかし、男は心底嬉しげに双眸を細め、先ほどとは反対の頬に唇で触れた。

「あなたは本当にすばらしい女性です。それなのに、血統と毛並だけが取り柄の能なしどもにあなたをくれてやるなど許しがたい。旦那様のご意志を理解し、それを受け継ぎ、そして私の魔術を託すことができるひとは、あなたしかいないのに」

「そんな……わたくしは、ただ……もう二度とあなたのように謂れのない理由で、道を閉ざされるひとがいないように……あなたの隣にいられなくなるのなら、せめて、賢者の友人としてふさわしい努力をしようと……」

 くしゃくしゃに顔を歪め、クラリーセは彼の胸にしがみついた。苦しいほど抱き締められ、祝福のような接吻の雨を、額に、こめかみに、眦に、次々に贈られる。

「旦那様は最初からあなたを跡継ぎにと考えていらっしゃいましたよ。確かに女性の当主や爵位持ちは少ないそうですが、前例がなかったわけではないと。それに、時代は変わる。社交性のかけらもない引きこもりの魔術師と、万魔が蠢く宮廷を生き抜く術を知り、なおかつ高い志を持ったたくましい淑女と、どちらが偉大な成功者の後継にふさわしいかなど一目瞭然ではありませんか?」

 そっと瞼に触れた熱に促され、クラリーセはゆるゆると目を開いた。緑灰色の瞳はすっかり痺れるほどの熱情を湛え、彼女だけを映していた。

「……わたくしは、あなたにとって必要な人間?」

 怯えるような問いに、彼は「ええ」と小さく、だが力強く頷いた。

「あなたがいなければ、私は途方もない魔術の神秘に食い潰されていたでしょう。私を魔法使いと呼んだ小さな女の子が、どんな他愛ない発見にも目を輝かせて喜んでくれたから――私は、もう一度世界の謎を解き明かすすばらしさを思い出せた」

 あなたがいてくれないと困るんですよという答えだけで、充分だった。

 クラリーセは崩れるように泣き笑い、いつか恋文に綴った言葉を唇に乗せた。

「『わたくしはあなたの友人だけではなく、恋人にもなりたいの』」

「――喜んで。そして、願わくはそれ以上のひとになってください」

 賢者もまた笑みを返し、ようやく明かされた秘密の味を確かめるようにやわらかく唇を重ねた。それは仄かに苦く、だが赤々と熟れた林檎のように甘い、幸福な恋の味だった。

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