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第1話 奈落の底の485℃と、絶対に壊れないナポリピッツェリア

目を開けた時、そこには白い絹をまとった女神もいなければ、太陽が差し込む王宮の玉座もなかった。


あったのは、タールのように濃密な暗闇と、硫黄と赤錆が混ざり合った鼻を突く悪臭、そしてコックコートの生地を突き抜けて骨の髄まで凍りつかせるような湿った冷気だけだった。


俺の名前はアンジェロ。

五分前まで、俺は厨房の作業台の前で夜の営業の締め作業をしていたはずだった。両手にはまだ小麦粉の感触が残り、服には薪の煙の匂いが染みついていた。


それなのに今、俺は真っ二つに割れた黒い玄武岩の上に座り込んでいた。死んだように静まり返った巨大な地下空洞の真ん中で、俺の目の前には故障したネオンサインのように青白い半透明のウィンドウが浮かび上がり、安全靴の先だけをわずかに照らし出していた。


【転移通知:座標に重大なエラーが発生しました】

【現在地:国家災厄級大迷宮『黒きタルタロス』――最深部・奈落層(生存率0%領域)】


遠く離れた正面の暗いトンネルの奥から、歯茎の奥がビリビリと震えるほど重く低い咆哮が響き渡った。直後、硬い甲殻に覆われた無数の脚が岩壁を這いずる金属的な音が反響する。


「……完璧なスタートだな」


俺は砂利の音ひとつ立てないようピクリとも動かずに、低い声で呟いた。


「チュートリアルもなければ聖剣もない。それどころか、いきなりこの世界で一番タチの悪い地下の掃き溜めに放り出されたってわけか。……せめて、俺にどんなクラスとスキルが与えられたのかくらいは見せてもらおうか」


意識を集中すると、個人のステータス画面が開いた。

どうやらこの世界には、強さを示す「レベル」や数値の概念は存在しないらしい。人間の強さはすべて、己の『【クラス】』と『【スキル】』、そして体内に宿る『魔力(マナ)の質』だけで決まる仕組みになっていた。


・名前:アンジェロ

・クラス:【料理人(シェフ)】

・戦闘スキル:なし


・ユニークスキル1:【伝統のナポリピッツェリア(不可侵の聖域)】

効果:伝統的なナポリピッツェリアの店舗を任意に出現・収納できる。店内にはカラーラ産白大理石の作業台、プロ仕様の業務用スパイラルミキサー(生地こね機)、無限の容量と完璧な温度管理機能を持つ『無限業務用冷蔵庫・熟成庫』、木製の客席テーブル、清潔な水回りと仮眠室、そして常に【485℃】の理想温度を保つ『銅張り耐火レンガ造りの薪窯』が完備されている。店主が店内にいる限り、店舗はあらゆる物理・魔法攻撃および瘴気を無効化する【絶対不可侵】状態となる。


・ユニークスキル2:【白き芸術の無限食材庫】

効果:ピッツァとパン作りに欠かせない神聖なる基本食材が、常に最高鮮度で無限に供給される。

対象食材:石臼挽き小麦粉、純粋な湧き水、生きた天然酵母(リエヴィト・マードレ)、サン・マルツァーノ種トマト、カンパニア産フィオル・ディ・ラッテおよび水牛のモッツァレラ、24ヶ月熟成パルミジャーノ・レッジャーノ、新鮮なバジル、野生の山のオレガノ、新鮮なニンニク、エクストラバージン・オリーブオイル、揚げ物用の高オレイン酸落花生油(ピーナッツオイル)、天然海塩、および乾燥させた樫(オーク)とブナの薪。


俺はその青い文字を一度読み、低体温症の幻覚ではないか確かめるために二度読み返した。

その時、正面のトンネルの暗闇の中で、車のヘッドライトほどもある二つの赤い目がギラリと光り、飢えた唸り声を上げながら猛スピードでこちらへ突っ込んできた。


俺は右腕を空洞の岩壁に向かって突き出し、短く命じた。


「――開店(オープン)だ」


ゴォォォォン……!


岩が砕ける音すらなく、奈落の黒く腐った岩盤が幕のようにスッと引き下がり、瞬きする間に古木と溶岩石で造られた温かみのある店舗のファサードが出現した。すりガラスのはまった木の扉の上には、暖かいランタンに照らされた看板が揺れている。


俺が店内に飛び込んで内側から鍵を閉めたコンマ一秒後、身の丈三メートルはある巨大な鎧カマキリのような怪物が正面のガラス窓に激突した。


――チンッ。


花崗岩の柱すら真っ二つにするはずの怪物の大鎌が、俺の店のガラス窓に当たって「壁に小銭を投げつけたような情けない音」を立てて弾き返された。怪物は真鍮のドアノブに噛みつこうとして自分の牙をへし折り、五分ほど無駄な体当たりを繰り返した挙句、すごすごと暗いトンネルの奥へと帰っていった。


俺は一キロメートル分くらいありそうな長い溜息をつき、店内を見回した。

そこは単なる魔法の空間ではなかった。俺の「夢の城」そのものだった。


空気は暖かく乾燥し、上質な薪と小麦粉の甘い香りが漂っている。

左手には、生地を伸ばす時に熱を持たないよう適度な冷たさを保つカラーラ産の白大理石のカウンターと、何十キロもの生地を完璧なグルテン膜で捏ね上げる業務用スパイラルミキサー。その奥には、4℃の低温で生地玉を熟成させたり、巨大な食材を丸ごと吊るして保存したりできる『無限の容量を持つ業務用冷蔵庫』が静かに稼働している。


ホールの中央には赤と白のチェックのテーブルクロスが掛かった木製テーブルが六つ。

そして店の最奥には、祭壇のように荘厳な『銅張りの薪窯』が鎮座していた。ヴェスヴィオ山の溶岩石を敷き詰めた床(プラテア)の上で樫の薪がパチパチと音を立てて燃え上がり、白いドーム状の天井を赤い炎が舐め回すことで、窯の中心温度は完璧な【485℃】に保たれていた。


俺はコックコートを脱ぎ、腕まくりをして肘まで丁寧に石鹸で洗うと、白いエプロンの紐を腰でキュッと結んだ。


「さて、冷静に考えようか」


俺は心地よい静寂に包まれた店内で、一人声に出して言った。


「外は出口がどこかも分からない暗闇で、俺には武器も攻撃魔法もなく、俺を一口で食い殺す化け物どもがウヨウヨしている。……一方で、この店の中にいれば俺は文字通り無敵で、暖かくて、綺麗なベッドとトイレがあり、無限の冷蔵庫とミキサー、さらには24ヶ月熟成のパルミジャーノから落花生油まで揃った無限の食材庫がある。……一体どこの世界に、わざわざ外へ出て命懸けで勇者ごっこをする馬鹿がいるんだ?」


答えは火を見るより明らかだった。そんな馬鹿はどこにもいない。

もしこの世界に冒険者という連中がいるのなら、いつか誰かがこの階層を通りかかるはずだ。それまでの間、俺は俺が人生のすべてを捧げてきた唯一の仕事――「食材を1グラムも無駄にせず、最高の料理を焼くこと」だけをやっていればいい。


それから三週間、俺のピッツェリアは奈落の底の最高峰ラボとなった。


毎朝、俺はスパイラルミキサーを回して石臼挽き小麦粉に70%の加水率で湧き水と天然酵母を合わせ、シルクのように滑らかな生地を捏ね上げた。それをブナ材の木箱に並べて『無限冷蔵庫』の熟成室に入れ、48時間かけてゆっくりと低温熟成させる。


薪窯が485℃の最高潮に達する昼と夜には、自分のために本物のピッツァを焼いた。

ある時は、サン・マルツァーノのトマトソースに、スライスした新鮮なニンニクと野生の山のオレガノ、そしてエクストラバージン・オリーブオイルを回しかけた香り高い『マリナーラ』。

またある時は、トマトソースの上に削りたての24ヶ月熟成パルミジャーノ・レッジャーノを振り、水牛のモッツァレラとバジルを乗せてわずか70秒で焼き上げる『王道のマルゲリータ』。縁(コルニチョーネ)は空気のクッションのようにぷっくりと膨らみ、直火の窯にしか出せない黒い焦げ目――美しい「豹柄(レオパルダトゥーラ)」が浮かび上がる。


さらに昼下がりには、鉄鍋に高オレイン酸の落花生油(ピーナッツオイル)を注いで180℃に熱し、小さく伸ばした生地を揚げる伝統の揚げピッツァ『モンタナリーナ』を作った。落花生油で揚げることで驚くほど軽くカラッと黄金色に膨らんだ生地の上に、温かいトマトソースをひとすくい乗せ、その上から24ヶ月熟成パルミジャーノを雪のようにたっぷりと削りかけ、仕上げにバジルの葉を一枚添えるのだ。


そして、俺の厨房に「廃棄」の二文字はない。

夜の営業(自分ひとりの夕食だが)が終わって薪の炎が落ち着くと、俺は窯の鉄扉を閉め、温度がゆっくりと下がっていく『落ちゆく窯(フォルノ・イン・カドゥータ)』の余熱を徹底的に使い切った。

窯の温度が485℃から【230℃】まで落ちたところで、余った生地をまとめた二キロの巨大な田舎パン『パーネ・カフォーネ』を焼き上げ、分厚く香ばしいクラスト(皮)と気泡たっぷりのモチモチのクラム(中身)を作る。さらに深夜、温度が【150℃】まで下がると、残ったパンにニンニクとオレガノとオリーブオイルを塗ってカリカリのクロスティーニや手捻りのタラッリを焼き上げた。


そして迎えた、二十二日目の夜。

俺が窯から焼きたての『パーネ・カフォーネ』を木べら(パーラ)で取り出し、網の上でパチパチと皮が爆ぜる音を聞いていた、まさにその時だった。


外の暗いトンネルの奥から、初めて「人間の悲痛な声」が聞こえてきたのだ。


「あと……あと百メートルだけ踏ん張れ、みんな……!」


飢えと疲労で掠れきった、若い男の声だった。「あの角の先に高い岩場がある……! どうせ死ぬなら、そこで武器を構えて戦士の誇りを持って散ろう……!」


俺が入り口のすりガラスに近づいて外を覗き込むと、黒い玄武岩の通路を四人の男女が引きずるように歩いてくるのが見えた。

この世界の知識がない俺でも、彼らがただ者ではないことは一目で分かった。ボロボロに砕け、黒い血と泥にまみれてはいるが、彼らが身につけている武具やローブは王国の最高峰の職人によって作られたものだったからだ。


彼らこそが『白銀の暁』――国王の勅命を受けて前人未踏の奈落層へと送り込まれた、この国で最強と謳われる英雄パーティだった。


だが今や、最強の四人組は見る影もなかった。

先頭を歩く黒髪の青年は、【剣聖】のクラスを持つリーダーのレオ。彼は自分の身の丈ほどもある白銀の大剣を杖代わりにして、ようやく立っていた。

その隣で巨大な塔盾(タワーシールド)を引きずっている身長二メートルの大男は、【難攻不落の城塞(タンク)】のゴラン。その鋼の肉体は極度の空腹による胃痙攣で小刻みに震えている。

ゴランの肩に寄りかかっているのは、【聖女(ヒーラー)】のエレナ。仲間の致命傷を治すために精神力と魔力を最後の一滴まで使い果たし、その美しい顔は蝋人形のように蒼白だった。

そして最後尾を歩くのは、割れた眼鏡の奥の目が窪んだ【四大元素の大魔導士】ヴィクトルだった。


五日前、異常な地殻変動によって唯一の帰還階段が崩落した。

食料は二日目に尽き、水は四日目に尽きた。奈落層の空気中に漂う魔力は瘴気に汚染されていて呼吸から魔力を回復することもできず、ヴィクトルが誇っていた高価な錬金術の栄養丸薬もすべて底をついていたのだ。


「レオ……ごめんなさい、もう指先に光の魔力を灯すことすらできないわ……」


ヒーラーのエレナが冷たい岩の上に両膝から崩れ落ち、かすれた声で言った。「私の治癒魔法は裂けた肉を塞ぐことはできても、飢えて血を失った体に新しいエネルギーを作ることはできないの……」


「馬鹿なことを言うな、エレナ!」


巨漢のタンク・ゴランが震える声で吠えた。「俺たちの袋にはまだ、一時間前に倒した『奈落の装甲猪(アーマード・ボア)』と『溶岩トカゲ』の死骸が丸ごと入っている! 毒だろうが何だろうが、俺が短剣で生の肉を切り取って食わせてやる!」


「よせ、ゴラン! 十分以内に内臓が腐り落ちて死にたいのか!?」


大魔導士のヴィクトルが割れた眼鏡を押し上げ、乾ききった唇で制止した。「王立学院のどの文献にも書かれている通り、奈落層の魔物の肉や脂には猛毒の酸性瘴気が蓄積されており、しかも筋繊維は鋼鉄のように硬くて人間の歯では噛み切れない! 魔物から採取できるのは心臓の魔石だけであり、残りの肉や骨はすべて『有害な生ゴミ』だ! そんな腐肉を食って悶え死ぬくらいなら、ここで静かに目を閉じて――」


ヴィクトルは言葉を最後まで言えなかった。


なぜならその瞬間、俺が外の煙突のダンパー(排気弁)を開けて樫の薪の煙を逃がし、ピッツェリアの正面扉を十センチだけ細く開けたからだ。


硫黄と死臭が立ち込める奈落層の凍てついた暗闇の中へ、温かく、濃密で、黄金色に輝くような『香りの奔流』が流れ出した。


それは攻撃魔法ではなかった。

焼きたての『パーネ・カフォーネ』の香ばしい麦の香り、粗く切ったパンの表面にこすりつけた新鮮な生のニンニクと山のオレガノの刺激的な芳香、甘いサン・マルツァーノのトマトソースが485℃の溶岩石の上で弾ける匂い、そして削りたての24ヶ月熟成パルミジャーノ・レッジャーノとバジルの香りだった。


王国最強の四人の英雄たちが、雷に打たれたようにその場でピタリと凍りついた。


剣聖レオが、命の匂いを嗅ぎつけた狼のようにバッと顔を上げた。

巨漢ゴランの腹が、洞窟の壁を震わせるほど凄まじい音を立てて鳴り響いた。

倒れ込んでいた聖女エレナが大きな緑の瞳を見開き、故郷の麦畑と家庭の温もりを思わせるその温かい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

そして、誰よりも気取っていた大魔導士ヴィクトルでさえ、割れた眼鏡が湯気で曇るのも構わず、口をあんぐりと開けたまま固まっていた。


「お、俺はついに死の間際の幻覚を見ているのか……?」


レオが大剣を下ろし、夢遊病者のようにふらふらと黒い岩角を曲がった。「こんな奈落の底で……焼きたてのパンと、ニンニクと、チーズの匂いがするぞ……!?」


俺はすりガラスの扉をいっぱいに押し開け、背後の銅張りの薪窯で燃え盛る炎の光を背負いながら、肩に布巾をかけ、片手に木べら(パーラ)を持って入り口に立った。


「おう、やっと生きた人間が通りかかったか!」


俺はボロ雑巾のようになった四人を見下ろし、ニヤリと笑って手招きした。


「おいお前ら、そんな寒い外で突っ立ったまま死に方の議論を続ける気か? それとも、俺の窯の温度が下がっちまう前に、中に入って熱い飯を食うか!?」

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