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初日 この体は思った以上に便利だった。

 いくらどう悩んでも事態は進まない、それならいっそう出かけようか。

 着替えのために頑張ってクローゼットを開けようとすると、気づいたら幽霊の私が着ているパジャマも制服になっていた。どんな原理なんだろう。

 思わず無意識にドアノブに手をかけて開けようとしたら——スッと透けて、眩しい日差しが私の顔面に無慈悲に当たった。

 「あれ?うわ、眩しっ、」

 振り向いたらドアが閉じたまま。じゃあ、私はどうやって出てたんだ!?

 もう一度ドアに向かって、恐る恐る手を伸ばしたら手首まで透けていた。

 「ひぃ!?」

 この常識離れした事態が、妄想ではなく現実に存在しているこの異常さを、やっと少しだけ実感しはじめた。鳥肌が立った両腕を、冷たい手で温めようとしながら、私は理解できないことを無理やり理解するのをやめる、と決めた。


 くたびれた階段は珍しくどう力入れて踏んでも音が出ない、ただ風に少し揺らされて今にも解体しそうなだけだった。差し込む朝日は思った以上に輝いてる。それもそうか。私はもう、何ヶ月もこの部屋から出てないんだから。

 「さって、まずは学校からだ。」


 いつもの通学路。数分歩いて、電車に乗る。

 今思えば、この賃貸マンションは本当に便利だね。片親の上に母が暴力的、という最悪な家庭状態だった。行方不明の父に似ている私は、母に愛されなかった。だからこの実家から離れた高校に合格してすぐ、私は自分で学費や生活費をなんとかする代わりに、自由を手に入れた。バイトと学校を両立する生活は厳しかったけどなんだかんだ気分は軽い——何かあったまでは。

 何があっだったんだろう。無愛想に考えながら、たとえ無意味だとしても、私は存在してないICカードを使っているふうに改札を通り、丁度到着した電車に乗った。


 こんなはっきり無視された感覚は新鮮で、心の底に少しだけ、寂しさを感じた。

 私の机はいつものまま。隣席の石井はまた勝手に私の椅子を使って、後ろの席の代崎とおしゃべりしている。彼女の隣にいくら立っていても、彼女は気付かない。段々立つのに疲れてきて、私は教室を見回って空いてる席を探した。幸い、三年生になって、選択授業になったおかげて空いた席は他に幾つもある。何も置いていない机を選んで、授業が始まって私も座った。


 「——八月一日。八月一日?……ああ、八月一日は入院して暫く学校休むことになったっけ、忘れたわ。」

 村田先生の大声に起こされて、いつのまにか寝てた私はぼんやりしていても、それでもその名前に強い違和感を感じた。「ほずみ」……この名前を聞いただけで息ができないほど、首が絞められたように胸が疼く。

 周りの生徒がくすくすっと笑って、耳打ちしている。


 「雫川が不登校になったのは絶対あいつのせいだろう、キモいし手ェでも出してたんじゃねぇ?」

 「お前やめろよ、それで断られて傷ついて自殺したじゃん、しかも未遂ってさぁ。ウケるわ。」

 「何それ初耳だけどウケる。」


 まるで不協和音のような笑い声が、胸の痛みをさらに抑えづらくなる。血管の中を無数の羽虫が這い回るような、居ても立ってもいられない不快な熱。私とは関係あるかどうかはまだわからないが、今はただその笑い声に怒りを感じるしかない。喉から湧き出そうな醜悪な何かが、やがて行動に変えていた。

 「黙れ、お前らには、『ほずみ』の名前を言う資格なんてない!黙れ、おい、黙って!」

 予想通り、拳は透けていてノーダメージ。前の席のあいつらは何事もないようにゲラゲラと笑い続けている。けど私は戸惑って、行き場のない拳は目標を無くしたかのように脱力した。

 そうだ。

 どうして、私は「ほずみ」という名前に、こんな感情が湧いてくるの。

 他人事なのに、まるで自分の事のように怒って、悲しくなって、大切な宝物が壊れたかのような怒りが、心の底から無限に湧き出した。


 ふっと我に返って、私は初めて自分に恐怖を感じてしまった。

 それは、今の私にとって全然知らない、傷つけられて我を失った凶暴な猛獣のような私。情緒的で短気な私、大嫌いな暴力で怒りを発散しようとした私。

 拳を振り上げた瞬間、確かに視界がちかちかと点滅してるように感じた。それは、かつて私を何度も殴り飛ばした、あの忌々しい瞳の奥にある色と同じだった。あの人をあんなに軽蔑していたのに、結局、私の血の中にも同じ猛獣が飼われていたんだ。記憶を失くしても、死んでしまっても、私はあの忌々しい呪縛から逃げられないのかと、吐き気がした。


 視界の点滅が収まると、そこには相変わらず、私の不在を気にも留めない退屈な日常が広がっていた。いくら暴れても、私の怒りはきっともう誰にも届かないだろう。……ただ、自分の喉の奥に、飲み込めないままの熱い塊が、苦い後味と共に残っているだけ。

 私は、自分の記憶のどこを探しても見つからない「あの子」のために、死んでなお猛獣になろうとしている。その矛盾が、何よりも気味が悪かった。

 ——そういえば、ほずみってどうやって書くのだろう。

 穂積、保住……いや、よく覚えてないが、きっともっと特別で、唯一無二な存在なんだろう。


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