俺 1999
人の感情がスタジアムをウェーブするのを初めて見た。
俺はサッカーが好きだ。それだけで、俺を全てを説明できる気がする。Jリーグのチケットを取るのが容易ではない頃は、ボールさえあれば、どこでもサッカーが始まる時代だった。だから、サッカーのことで頭がいっぱいな俺は、家族ができても何も変わらない。それは言ってしまえば、今まで振り返ればいた母さんや父さんやばあちゃんにふたりほど人数が増えたってことで、新入りのカンガルー革のスパイクくらい大切な存在ではある。サッカーの同心円の中に家族があって、これからもずっと、申し訳ないけど(申し訳ないも実際感じてないのが更に申し訳ないのだが)俺はサッカーのことしか考えない男なんだと思う。ただ、高校時代に律がいてくれたように、試合でパスがつながったように、同じ熱を持ってサッカーを見てるソイツが隣にいることは、なんの迷いもなく俺をサッカー漬けにしてくれた。結婚した時も、「ちょっと、駒場行って写真撮って来る」と言って家を出て、帰った時に「結婚したわ」と家族にソイツを紹介した。「サッカー以外、何も目に入らないと思ってたわ」と母さんは笑った。父さんも「サポーターが増えたな」と笑って言ってから(あー)という顔をしてきっと心の中で(サッカー知らない子では、こいつとは結婚できないか)と気がついたらしい。とりあえず、俺たちは俺の実家の近くにアパートを借りて、あとは何も変わらない生活だった。サッカーだけを考えて、そこにいていいんだと許してもらえる場所だった。
でも、俺がサッカーをする場所は、ちょっと違った。好きすぎておかしくなってるやつらから、さらに選ばれたやつだけが続けられる場所だった。クラブには、うまいやつしかいない。当たり前だけど、それが心地よかった。今まで通用してたことが、全部、通用しない世界だ。
「おもしれーじゃん」
止める。
蹴る。
運ぶ。
一瞬、判断が遅れ、奪われる。アドレナリンが吹き出す。誰かに怒られるわけじゃない。でも、それが重なれば試合で使われない。
それが一番効く。
練習の最後、紅白戦に入れない日があった。「自分ができること」を探しながら見ていた。自然と体がピクつく。体はピッチの中にいた。
でも、ピッチの中は、それ以上に速かった。
判断も、
動きも、
全部。
(ああ、ここなんだ)って、俺の居場所はここなんだって思った。ここに残りたい、さらに上に行きたと思った。クラブには、上に行くやつと、残るやつと、そして去るやつがいる。俺は、上に行きたい。青いこと言うようだが、サッカー人口の中のほんの一雫しか抽出されない「日本代表のFW」になって、身体中が震えるようなゴールを決めたい。世界中のDFを置き去りにして、スローモーションに見えるGKの指先をすり抜け、ネットがボールに持ってかれる瞬間を、最上級のピッチで、最上級の選手とスタジアムを振り動かす声と感情の響きを感じたい。(あー気持ちいいんだろうなぁ)俺さえ、ちゃんとサッカーに向き合ってたら、ずっと、そこにいられるって信じてた。
でも、
あの年の最終戦後は、少しだけ、空気が違った。
ロッカールームの会話がない。
笑う選手がいない。勝ったのに。
結果は、分かっていた。
でも、受け止める準備はできていなかった。
試合が終わるたびに、何かが少しずつ、こぼれていく感じがした。
勝てば、繋がると思っていた。それはどこのチームも同じだ。
でも、繋がらないチームが降格する。
ピッチの中で起きていることは、全部見えていた。どこが足りないかも、どうすればいいかも、分かる瞬間があった。でも、そこに、俺はいなかった。ベンチにも入れず、スタンドからそれを見ていた。同じチームが、必死に戦いもがく姿を何もできずにいた。同じチームなのに、関係ない場所にいるみたいだった。
最終戦の日、空がやけに高かった。
試合途中、サポーターのザワメキがウェーブのようにスタジアムをゆっくりと重く蠢いた。
他会場の結果が出たんだ。
それでもサポーターのチャントは続く。選手は勝ち点を取りに行く。「キセキ」って、結果が出ているものに願うんじゃなくて、これから起こることに願うものだろうが、どうにかこうにか訳のわからない理由でもいいから「キセキ」が起きないものかと何万人もが願った。
最終戦は、勝っても、負けることがある。打ちのめされた。
試合が終わって、
しばらく、
誰も動かなかった。
声も出なかった。
何か言えば、全部崩れそうだった。
そのまま、終わった。
「落ちた」
その言葉は、
あとからついてきた。
その場は、ただの「今シーズンの終わり」だった。
帰り道、ひとりで歩いた。何もしていないのに、体が重かった。悔しいのか、分からなかった。でも、何もできなかったことだけは、はっきりしていた。もし、あのピッチに立っていたら、何か変えられたか。いや、何もできはしなかった。もっと前から、チームの主力になってトップ選手を脅かす存在だったら。そんな実力を持ってもっと早くピッチにいたら。
それもできずにいる自分が何もできるはずがない。
きっと、ソイツも同じ思いで、どこかの帰り道を歩いているのだろう。
あの年、赤は降格した。
明日につづく




