いとしのひびよ
かつて偉大なる王と共にこの地の争いをおさめ民をまとめるべく駆け回った勇敢な仲間の一人に、異世界からやってきた青年がいたという話は、この国に住む者なら王族も貴族も商人も平民も、誰であれ枕元で一度は聞かされたものである。乳母にせがんで読み聞かせてもらった小さい頃の毎晩を今でも昨日のように覚えている。全てが昨日に遠ざかって、今日に残ったのはつまらなくて色のないおとぎ話の真実だ。
英雄の部屋。かつて建国を共にした友のために初代が作った彼のための部屋。使っていたこの場所の主は今はいない。なんて静かなんだろうと俺は思った。
艶木の机。それと壁の間を指を入れると爪になにかが当たってカサッと音をたてた。……やはりあったか。
机を動かしてみるとそこにはくしゃくしゃになった紙が落ちていた。あの日、流星群の日。アキヨシが慌てて隠した紙が一枚。
拾い上げ、机に広げると両手で丁寧にシワを伸ばす。そこにはとても綺麗な字で文が綴られていた。言わずもかなニホンゴとやらではない。キチンとした言葉でだ。
「『アベルへ』」
それは手紙だった。てっきり国の内情を暴露する内容だと思っていたのだが。宛先には俺の名前。一体何故? 少し読むのが怖くなったが、意を決して先を目で追った。
『アベルへ。こんにちは、これを報告書だと思って拾ったろう? やーい馬鹿め。誰がそんなミスをするか。これは全てが終わった後、お前ならきっと僕が流星群の日に押し込んだ紙を探すだろうと見越しての手紙だ。覚悟して読め。ここには懺悔の言葉は一言もない、あるのはお前への罵倒だけだ』
書き出しからとにかくひどかった。なんだこれは。なんで少しふざけた感じで書いてあるんだ。あやうく紙を引き裂くところだった。
『俺はお前が世界で一番嫌いだよ。誰よりも、俺達一族を虐げたり殺した奴らよりもずっと。全部が全部気に食わない。顔も声も態度も、歩き方も食事の仕方も剣の持ち方も全部。並みにできるからってすました顔でいるのはいい加減にしてほしい。
皇帝の命令があるからお前が王になるようこれから色々手を回しますけど正直キレそうです。
お前なんか身分を剥奪されて布切れ一枚纏って道に座って泣く物乞いにでもなってしまえばいい。お前には玉座より土臭い木箱の上がお似合いだ。お前は一丁前に責務を全うしようと自分の役目から決して離れようとしないけど、不釣り合いであること極まりない。あぁ、本当に。
血なんてもので決まる運命に従うなんてバカバカしい。そんなものにすがっているからお前は僕にひどいしっぺ返しを食らうことになるんだ。そんなことを続けているとお前も僕も一生幸せという言葉から縁遠くなるんだからな。それを一番体験している僕がいうのだから間違いない。
どうしてお前はそんなに馬鹿で愚かで救いようがないんだ? いくつかの理由を考えてみた。最有力説はお前を教育した周りの人間がおとぎ話を信じるようなちゃんちゃらぽんだった説だ。
いいか、他人に夢を見るな、ヘドが出る。大変不本意ながらお前は王になるのだから、お前がその調子だとすぐ国が滅ぶぞ。逃げられると思うな。一生自分の力不足を悔いて、悩んで、絶望して、人並みの自由もなく、王として不幸に死ね』
頭がいたくなるような内容だ。はぁー、とため息をついてこめかみを押さえる。散々だ。散々な文句だ。本当に散々な彼の本音だ。
小雨が頬を濡らすくらいには。
……一番愚かだったのはお前だ。
流星群の夜、お前は、俺に向かってなんと言った?
今あるものを全て投げ出して一緒に旅をしないかと言ったのは何故だ?
お前は俺が血の役目をまっとうしようとする姿が気にくわなかったのだろう?
一緒に逃げてほしかったのだろう?
このまま俺が、お前が、血の通り役目を進めばどちらも不幸になることがわかっていたから。
ならいっそ全部話してしまえば良かったのに、一人で逃げてしまえば良かったのに、それもできなかったお前は中途半端だ。中途半端な臆病者だ。
臆病者だから、その体にぎゅうぎゅうに詰まった苦悩を誰にも伝えられなかった。臆病者だから、一人で生きていくこともできなかった。
その先に破滅があることを知りながら、辛いことを共有できない相手に寄り添って生きることしかできなかった。
お前が空想で語るニホンという国は本当に平和だったな。その理想の中でお前は剣を握る必要もなく平民が学び三食を安心して食べ雨に打たれないところで寝ている。それは考えたことがなければ浮かばない夢だ。それはお前はそういう風に生きたかったと思っていたということだ。
これをこんな悪態だらけの皮肉めいた言葉でしか表現できないとは。
帝国滞在中にお前の属した密偵隊の長から、少しだけお前について聞けたことがある。俺に伝えていたことはことごとく嘘だったな。何が同い年だ、十五だったそうじゃないか。年相応の背だった、これからが伸び盛りだ。友人の一人もいなかった。愛想が悪くて、そのくせ腕っぷしだけは異様に強くて、嫌われものだった。仲間が処刑台に送られるというのに、密偵隊長は悲しみもしなかったぞ。ここではよくあることだと言っていた。むしろ最初から切り捨てるためにわざわざこうして汚い密偵隊から送り込んだのだろうと。最適の人選だったな。英雄の子孫が英雄を演じて殺されるんだ。まるでお前の存在そのものがアイロニーだ。
けれど、お前の本当の名前だけは誰も知らなかった。お前がアキヨシという役を演じていただけの別の誰かなら、俺はお前をなんと呼べばいいんだろうな?
本当は一番怖かったくせに、泣きたかったくせに、なんて愚かな英雄語り。なんて馬鹿で、許されない罪人。なんてひねくれた小さな子供。俺はお前の罪を一生許さないよ。だから。
俺もお前も。
願わくばその魂が地獄に落ちて救われませんように。
「あぁ、俺だってお前が世界で一番大大、大っ嫌いだ」
暖炉の中の燃えカスだけが、響かない嗚咽の音を黙って聞いていた。