8話『二度目の誓い』
記憶に干渉する描写があります。
苦手な方はご注意ください。
都市部で生まれ育った2人には、二つの持ち家があった。
二人が両親を亡くした際に相続したその家は、それぞれの想い出が詰まった実家だ。
優輝が今回、拠点として脳裏に浮かべたのは、利便性の高さから普段過ごしていることが多かった、皐月の実家だった。
家具の配置も、飾られる雑貨の配置も、記憶と寸分違わぬ夫婦の寝室のベッドで、皐月が静かに眠っている。
ちみっこ悪魔も客室の畳部屋に敷いた布団に寝かせてあった。
皐月が眠るベッドに腰掛けた優輝は、早速魔法道具作成アプリで魔法道具の作成を行っていた。
(まさかデジタルイラストのアプリとはなぁ)
このアプリは、ふたりが大学時代に入っていたデジタルアートサークル時代から使っていたアプリでもある。
サークルは、同じ大学でも学部が全く違う2人が出会った場所であった。
同じ趣味を持つ者同士で気が合うのは必然で、その趣味は社会人になってからも続いていた。
夫婦二人で休日にお題を決めて描いて見せ合ったり、それぞれが好きな物を描いたり、2人の休日の遊びに使われていたのである。
夫婦の大切な交流の時間のひとつになっていたわけだ。
優輝と皐月の腕前は、流石にプロとまではいかないもののアマチュアとしてはそれなりに上手い。
それでもサークルでは、それほど上手い方ではなかったが、卒業後は半分近くがプロになるようなサークルだ。
そんなもんである。
ちなみにどっちがより上手かと言うと、実は優輝の方が上手かったりもする。
タッチペンでカキカキ……というより、カタカタ、スッ、スッとしていく。
絵を描くアプリが元なのだから、小難しい事は一切ない。
何せ魔法道具のイラストを描いて、どんな効果にするのかを入力すれば終わりだ。
拘れば起動の仕方をはじめ、細かい使い方を指定できるが、優輝は面倒臭いためダンジョンにお任せする。
優輝の記憶を元に素晴らしい物を作ってくれるだろう。
食事も睡眠も不要な不老不死の体は、同時に無尽蔵の体力を誇り疲労というものを知らない。
その体力によって途切れることのない集中力で絵を描き続け、ダンジョンの構築を開始し12時間が経った頃。
「ん……」
背後から聞こえた声に、優輝の意識は急速に現実へと引き戻された。
勢いよく振り返った先で、優輝の待ち望んだ眠り人が目を覚ましていた。
ぼんやりと天井を見上げて、ゆっくりと瞬いている。
寝起きで眠いだけというよりは、状況が分からずにぼんやりしているという方が近いだろうか。
「皐月!」
優輝はタブレットPCとタッチペンをテーブルの上に放り投げると、妻の顔を覗き込み、その頬を両手で覆う。
「ぅん?優……?」
皐月はそんな夫を見上げると、一度瞬き、おかしそうに笑って彼の頬をそっと撫でた。
「そんなに泣きそうな顔して、どうしたの?」
生きている。話している。
「悪い夢でも見た?」
一度はその死を目にした最愛の妻が、優輝の頬を撫で、笑いかけている。
「私も悪夢見ちゃった。夫婦揃って悪夢なんて不吉ね。それとも仲のいい証かしら?」
あれを悪夢と思っているのなら、できることならずっとそう思っていて欲しい。
あれが現実だったなんて知らなくて良い。
しかしそんなことができるはずもない。
「悪夢は……あれは、夢じゃない」
「え?」
言いたくない。
……言いたく、なかった。
「……温泉旅館に向かう途中で……衝突事故が、起きたんだろ……?」
信じられない、というように皐月の目が大きく見開かれた。
「なんで、知って………」
その瞳が混乱と動揺に揺れる。
それでも優輝は、もう一度告げる。
「夢じゃない。現実だよ」
皐月があれを夢だと思ったのは当然だった。
彼女には、契約の記憶がない。
事故の衝撃を最後に、記憶は途切れているのだろう。
その記憶も現実に起きた事と認識できていないはずだ。
あの地獄の記憶は、優輝がダンジョンに願い、“薄めさせた”。
痛みも恐怖も、死の実感も、決してトラウマにならないように。
現実に体験したという感覚を遠ざけ、悪夢か、あるいはテレビ越しの悲惨な出来事程度にしか認識できぬように、記憶に手を加えさせた。
皐月が優輝の支配下にある眷属で、かつ優輝が目覚めた時点でまだ魂が定着していなかったからこそできた処置。
既に定着している優輝には、もうできない。
だからあの日の地獄のような光景は優輝の記憶の中にだけ残り続ける。
しかし優輝はそれでいいと思っていた。
あんな苦しい記憶を覚えている必要はない。
「で、でも……」
皐月が寝室を見渡した。
皐月があれを悪夢だと判断したのは、今いる場所も理由の一つだろう。
目覚めた場所が病院でもなく、体の痛みもなくいつも通りの寝室であれば、誰だってそう思う。
「ちゃんと説明する。これを幸運と呼ぶか、それとも永遠に続く地獄と呼ぶかはわからない。でも俺たちに起きたことだ」
そう言って、ベッドの縁に座り直した優輝は話し始めた。
皐月の死を、優輝の死の直前の契約を。
今いるこの場所を。
優輝は膝に肘をつき、握り合わせた両手に力をこめる。
まるで罪を告白するような気分だった。
死後、人ではない存在になることを優輝は一人で決めた。
皐月は望まなかったかもしれない。
もしかしたら、人間であることをやめるくらいなら、そのまま死を受け入れる方を望んだかもしれない。
優輝が死を拒んだ。
皐月が居ない世界も拒んだ。
全て……
──優輝の独り善がりだ。
「勝手に決めて、ごめん……」
皐月の顔も見られず、あれほど目覚めの時を待ち望んだ妻に背を向けて、優輝は項垂れた。
勝手なことをしたと嫌われるかもしれないし、もしかしたら憎まれるかもしれない。
そう思うと、優輝は張り裂けそうなほど胸が痛く、体から力が抜けていった。
「優……」
皐月は話を聞きながら、体を起こしていた。
顔も見ずに背を向けて、俯いて話を終えた夫の後ろ姿にふっと目を伏せて、丸まった背中に手を伸ばす。
手のひらで優しく触れて、震えた大きな背中をそっと抱きしめた。
「ちゃんと私の手を離さないでいてくれてありがとう」
皐月は、それが嘘だとは思わない。
あまりにも現実味のない話だ。優輝以外が話したなら、その証拠を目にするまで、きっと信じられない。
しかし優輝がそんな嘘をついて周りを振り回すような人でも、家族にそんな嘘がつける性格でもないことを、皐月は誰よりも知っている。
皐月は夫の背中に耳をぴたりと押し付ける。
微かな震えと、とくりとくりと少し早い心臓の鼓動が聞こえた。
「寂しがり屋なあなたを一人にしなくて済んだもの。これから病気も怪我もせず、ずっと一緒に居られるなんて……」
もしかしたら、人ではなくなったという実感が沸かないから、皐月はそう思うのかもしれない。
人ではないのだと、そう実感した時にどう思うかは皐月自身にも分からなかった。
(それでも……)
皐月は優輝の心音を聞きながら、ゆっくりと目を伏せた。
皐月の夫は愛情深くて寂しがり屋だ。
天国か地獄は分からないが、もし皐月だけが死後の世界に行って、優輝はひとり皐月を失った喪失感を抱えている姿を想像するだけで、ぞっとする。
皐月には、それが何よりも恐ろしかった。
「私は幸せよ。一緒に連れてきてくれてありがとう」
皐月は膝立ちになり、背後から優輝の顔を覗き込んだ。
覗き込まれているのは気づいているはずなのに、優輝は顔を上げない。
(違う……)
──上げられないのだ。
そう気づいた皐月は、そっと頬に手を添え振り向かせる。
がくりと項垂れていた優輝は、その力に抵抗しなかった。
はらはらと静かに涙を流す優輝の目は仄暗い。
(ああ、これは……)
何か抱えているなと皐月は気が付く。
優輝が話した内容に嘘はない。しかし皐月に話していないこともあるのだろう。
何だろうかと考えて、答えへとたどり着く鍵に気がついた。
(優は私が亡くなったと言ったわ。そして優自身が契約に頷いたのは死の直前)
つまり……
(その間に起きた出来事を……優は、知っている)
皐月は目を伏せて、細く息を吐き出した。
それは、皐月の深読みなのかもしれない。
皐月の死を目覚めた後に聞いた可能性もあるし、優輝が皐月と同じ可能性もある。
しかし皐月にはそれが答えだと確信できた。
(ああ……なんてこと)
優輝はその目で皐月の死を見ている。
そして……
(──あなたには、死の記憶があるのね)
なぜ優輝がここまで皐月の反応に怯えていたのか、皐月はやっと理解した。
皐月に死の間際の記憶はない。
後ろから追突された衝撃までしか記憶がなかった。そこでぷつりと記憶が絶えている。
だから同じ境遇でありながら、皐月には死の記憶を持つ優輝の苦しみや恐ろしさを理解することができない。
彼が抱いた喪失感も、想像はできても分からない。
一度味わった喪失感を、もう一度味わうことになるかもしれないと思う恐怖も、感じたことのない皐月には分からなかった。
しかし、今の皐月が優輝のためにできることだけは分かる。
優輝の濡れた頬に頬を擦り合わせて、嘘偽りのない本音を告げる。
「優、愛しているわ」
微かに震える優輝の薄い唇に自分の唇を重ねた。
優輝の震えが強くなり、喉仏が大きく動く。
皐月にできるのは、傍を離れることも心が離れることもないと、優輝に伝えることだ。
「大好きよ」
皐月は触れるだけのキスを繰り返す。
「ありがとう」
何度も。
「ずっと一緒よ」
何度も。
「愛しているわ」
キスをして、皐月の思いを繰り返し告げる。
皐月が優輝の背後から隣へと移動し、お互いに隣り合って座れば身長差で唇には届かない。
見上げた優輝の顔は、くしゃりと歪んでいた。
まるで痛いことを堪える子供のよう。
そしてそれは、正面から向き合ったことで、優輝の堪えていた全てが崩壊した。
「っ…ぁ…う"……ぁあ"……───ッッ!!」
優輝は皐月を掻き抱いて、首元に顔を埋め、目元を濡らしながら体の奥底から抱える苦しみを絞り出すように声をあげる。
白く華奢な優しい手が、妻に縋り付くようにして泣く男の頭を、ゆっくりと撫でた。
心の傷にならないはずがないのだ。
本来なら人の人生でたった一度きりの死は、人生の終わりを意味する。
その先に続きはない。
しかし優輝はその続きを与えられてしまった。
味わうはずのない恐怖に苦しみ続けることになってしまった。
優輝がこの世界でダンジョンマスターという役目を与えられたというのなら。
皐月はきっと……
──彼の苦しみに寄り添い、癒し続けることこそが役目なのだろう。
「────俺、も………」
微かに震える声が、何かを伝えようとしている。
「うん」
皐月はただ、紡がれようとする言葉を急かさず、否定せず、遮らず相槌を打って待つ。
「俺も……───愛してる」
夫婦は再び誓い合う。お互いの愛を。
「うん、私も」
夫の愛を受け入れ、妻は強く抱きしめ返した。
「ずっと、一緒よ」
突如与えられた永遠のような長いとき。
皐月は最愛の夫を、ずっと抱きしめ続ける。
皐月がこの手を離すことは……
───決してありえない。
表面上は普通にしていても、その心には消えない傷がありました。
皐月も本来はトラウマになってもおかしくはありませんが、優輝がダンジョンにお願いして記憶や、それに伴う感覚を調整したお陰で、現実に実際に体験した記憶という感覚ではありません。
ちょっと怖い夢や、あるいはテレビで第三者として見たような他人事みたいな感覚に近いので、怖いと思う感覚はあっても、トラウマになる程ではありませんでした。
皐月の記憶を本人に同意なく勝手に弄ったことへの賛否両論はあると思いますが、皐月が無事なのは優輝の愛情のおかげとも言えます。




