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ヤオヨロズ──中道録  作者: 隼理史幸
信頼という木と、恨みという根
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またやっちまった…!

「おや、君は──」


 くたびれたような、若々しさが失われつつある男性の声が、物陰から出た九龍の背後から浴びせられる。彼の顔は一瞬の内に硬直し、能面のような感情の汲めないものへと変貌する。


 その声に敵意はなかった。しかし、敵意の有る無しを判断するほどの余裕もまた、今の九龍にはなかった。


「……!!」


 それは、自意識など入り込む余地のない、反射的行動だった。背後を、死角を取られたという事実が、動物的な本能を起動させ、肉体はそれに従い稼働する。


 緩めていた緊張感がその気配を察知した瞬間、即座に最大限に張り詰め、身体を戦闘体制に移行する。染み付いた身体さばきが最適な体勢、力の入れ方を導き出す。そして──、


「どうしてこ──」


 無駄のない動作から、青柳九龍にとって最も速度の出る右のストレートが、機械のような精密さで、顔面を殴り抜けていた。


「ごぶれぁ!?」


 無防備な、完全に油断した体勢で受けたストレートによって、身体が一回転し、仰向けになって倒れ込む。


「……あ」


 僅か五秒にも満たないその間、九龍は自分の右拳の手応えをもって、漸くハッとした様子で倒れた人物に気が付いた。


「ちょ…大丈夫ですか!?」


 直撃によって意識が途絶えた、その男性を介抱する。今し方自分が隠れていた物陰まで抱き抱え、そこで意識の回復を試みる。


 男性の身なりはお世辞にも清潔とは言い難く、衣服は季節に見合わず黒のよれた長袖のシャツに冬物のジャケットを腰に巻き、服と同じような色の髭は延びっぱなしに、髪も脂が見てとれる程度には湯船に浸かっていない事を物語っていた。


 浮浪者、という言葉が脳裏に過りつつも、それは失礼だろうとはね除け、意識を回復させようと呼び掛け続ける。暫くすると、目蓋が微かに動き、男性の意識に光が差す。


「──はっ! 今おれはいったい!? 何故一回転を!?」


 目が覚めると、直前に降りかかった出来事を思い出し、混乱する。それに困惑しながらも、自身の腕の中で暴れる男性に言い聞かせる。


「お、落ち着いてください。俺がつい、反射的にぶん殴ってしまって…」

「へぇー、道理で逞しい腕なこと…じゃなくて!? え、おれ反射的に殴られたの? そして一回転? 嘘でしょぉ!?」


 混乱のあまりノリツッコミを自分で行いながら、男性は腕の中でミミズのようにのたうち回る。


「え、何? 何で声かけた途端意識飛ばされなきゃなの? おれそんな悪人なのぉ!?」

「お、落ち着いてください。すみませんって──」

「ちくしょう。この間なんかゴリラに襲われてプロレス技だぞ? 呪われてるよおれぇ…」


 言葉は男性に届かず、彼は頭を抱えうわ言を地面に向けぶつぶつと垂れ流し始める。額を地面に擦り付ける様を見た九龍は、ふと思い出す。


「…? 貴方、どっかで会いました? 何か最近見たような…?」


 言葉を頭の中で思い返し、それを記憶に照らし合わせる。そして、天啓のように思い浮かんだ姿を口にする。


「──あーっ、思い出した! この間学校に現れた可哀想な不審者!」


 確固たる確信をもって指差す九龍。それを受け、今まで沈んでいた男性はこうべを上げ、ショックに満ちた顔で返す。


「ふ、不審者言うな! おれには八月一日雪生(ほづみゆきお)って名前があんだよぉ!」

「知るか! つーか、あんた警察に突き出されたのに逃げ出したのかよ!?」

「えーい、その辺はどうでもいい! 今はここから逃げることが先決だろう! こんな場所にいつまでもいられるか?」


 正論をぶつけられ、押し黙る九龍。冷や水を掛けられたような顔を見れば、雪生はよしよしと洩らしながら徐に立ち上がる。


「オーケー、いい子だ。後で公園の水奢ってやる」

「…タダでしょそれ。というか、逃げられるんですね、この世界から」

「ああ。てかオタク、正規の手段で入ってきてねぇな? パス持ってねぇの?」

「パス…?」


 首を傾げる。言葉から連想されるものに思い至らない様子を鑑みて、雪生は付け加えるように言う。


「あるだろ、このクソッタレの世界に入るために必要なもんが」

「ああ、あのアプリ…<ヤオヨロズ>のことか。…やっぱり、普通じゃないんだな」

「アプリ? お前ら、そんなハイカラなもんで入ってきてるのか?」

「ハイカラって…。というか、あんた…じゃない、貴方は違うんですか?」

「たりめぇよ。おれはこいつで入ってきてるんだよ」


 ポケットから取り出したのは、折り畳み式の携帯端末であった。思わず目を九龍が見張る程にその色は褪せており、長い間使い込まれた、或いは製造から相当な時間が経った事を想起させる。


「なんすか、そのばっちい上に古い型」

「ばっちい言うな。こいつは某所に隠されてた携帯でな。訳あって手に入れて、今はこの通りクソッタレの世界を行き来する羽目だ」

「…隠されてた?」

「元の持ち主は知らんがな。携帯そのものが悪いのか、最近は調子良くなくて、たまに予定した場所からずれて現実に返される時があるのが玉に瑕だ」

「じゃあ、あの時学校にいたのは…」

「誤作動のせいだ。断じてノゾキじゃない。神に誓う」


 真剣な面持ちで語る雪生の姿に、訝しみつつも頷く九龍。同時に、頭から爪先までをまじまじと見つめられ、思わず一歩後ずさる。


「な、なんだよ。じろじろ見やがって」

「…いや、なんか、俺の知らない事を色々知ってるっぽいですけど、何者なんです? 貴方?」

「おれか? …そうだな、道に迷った可哀想なおじさん、ということで」

「はぁ? ふざけてんですか?」


 返答に不満を抱いた九龍は怪訝そうな声と顔をして、更に問い詰めようと質問を組み立てようとする。が、彼の耳に重い地鳴りが届けられれば、また足にぴりぴりとした震えが生じる。


「…もっと詳しい話を聞きたいところっスけど、そっちは出てからでお願いします。今は、生き残る事を優先したい」

「オーライ。賢い判断だ。そろそろまずい時間だしな」

「時間?」

「おいおい、知らないのか? あのバケモン共の行動が活性化するのは夜だ。出くわしたら骨までしゃぶられるぞ」


 知らなかった、という表情を露にすれば、雪生に呆れ気味の溜め息を吐かれる。そして折り畳み式の携帯を開き、端末の操作を始める。


「よし、帰還する。案内頼むぞ」

『──確認シまシた。帰還シます』


 雑音混じりのアナウンスと共に、彼らの体が光に包まれる。何度も受け、しかし慣れない浮遊感を味わった後、眩い視界が開かれた次の瞬間には、夕暮れの学校が広がっていた。

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