最悪に次ぐ最悪だ
「ふぁあああ、めんどくせーなぁ」
欠伸を交えつつ九龍は口をこぼす。この中高一貫の学校において、自動販売機は地下に設けられた食堂の近くか、中学生が使う下駄箱の脇にしか設置されていない。
そして、この保健室に近い場所は下駄箱であり、薄暗くなった階段をゆっくりと降りていく。静まり返った踊り場には足音がひとつしか存在せず、他には蝉の鳴き声が木霊するのみで、それがいっそうの静寂を際立たせていた。
「…そういや、この雰囲気、怪談とかにありそうだな」
と、誰に聞かせる訳でもなく冗談を漏らしながら、目当ての自販機の置かれた下駄箱の前に辿り着く。
そこで、九龍は咄嗟に身を隠す。やましい気持ちがあるわけではなく、反射的な、この空間においては自分の存在は不都合極まりないという結論が、一瞬の内に下された。
「……やっべえ、出歯亀だ」
物陰から様子を伺えば、男女がふたり、向かい見つめ合っている。漂う雰囲気は気楽なものとは程遠く、ただならぬものであると理解した九龍は唾を呑む。
「…おいおいおい、今テスト前だぞ。後にしろよ……」
不満を漏らしつつも、九龍自身はこの様子を盗み聞きすることにも気が引け、抜き足差し足でその場を後にしようと軽く深呼吸をして気配を消す。
そうして最初の一歩を踏み出そうと、隙を見るためにもう一度物陰から動向を探ろうと顔を出す。背丈の低い女子が、目の前にいる制服を着崩した男子に向けて、胸に抱く物を差し出していた。
すると、夕陽の向きが変わったことで緋色の光が差し、眩しさで反射的に目を閉じる。
「──!?」
まだ自分の目がおかしいのか、と目を擦る。しかし、視覚は正常に機能していると主張し、それがより一層の混乱を生む。
今し方、下駄箱前に立っていた男女が、霞のように消えてしまった。慌てて飛び出て辺りを見回すが、髪の毛や落ちた汗などの痕跡が、一切残らずに消失していた。
頭を振る。残る眠気が、今彼が目にした光景の正体、と納得させる要因と結びつけんとする。
「…寝ぼけていた、のか? 狐に化かされるなんて、このご時世じゃあり得ねぇよ…な?」
乾いた笑いが漏れる。唾を呑もうとしたが、喉が渇いて十分には行えなかった。蝉の鳴き声が、九龍にとっては一層の夏の暑さを助長しているように覚えてならない。
「…そ、そうだ、飲み物」
当初の目的を思い出すと、額に溜まった汗を拭いながらその場を通り過ぎ、目当ての自販機の前に立つと、小銭を入れて商品を吐き出させる。
「…ミシェルは緑茶で、俺は……これでいいか」
と、微糖と書かれた缶コーヒーを購入し、釣り銭を回収した後足早にその場を去る。気味の悪さに耐えかねて、少しでも留まることを嫌った。
「…見間違え、だよな。そう、だよな?」
他人ではなく、青柳九龍という個人に向け、暗示のようにひたすら言い聞かせ続ける。
「…まさか、あのアプリと関係が──」
自分が経験した、異常な光景を思い浮かべるが、すぐに頭を横に振って否定する。
「…それこそあり得ねぇ。ここは現実だぞ」
一人でいると、悪い考えが止まることを知らない。そう感じた九龍は冷たい飲み物を抱え、足早にその場を後にしようと踵を返す。
「…っべ」
無意識の内に、九龍の手が震えていた。手から滑り落ちた缶コーヒーを拾い上げると、屈んだ姿勢からふいに視界に入り込んだものに目を奪われる。
「落書き…?」
自動販売機の脇に、水性ペンで書かれたような、見たことのない紋様が残っていた。時間が経ってうっすらとしたそれを見て、顔をしかめる九龍。
「──ったく、ひでーことするな」
質の悪いいたずら、とそれを拭き取ろうと何の気なしに、その紋様に触れる。
「──っ!」
触れたとたん、電流のようなものが発し、咄嗟に手を引く。微かな痺れが指先に残り、それを和らげようと冷たい缶に触れる。
「…ってぇ。夏場なのに静電気かよ。珍し──」
痛む指を擦っていると、九龍は息を呑んでいた。自分の行動に気が付くまでに数秒を要した。下駄箱から僅かに見えていた夕焼け空が、その照らし方を変えていることに気が付く。
「…まさか?」
そんな筈はない。ゆっくりと辺りを確認する。今年になって整備された下駄箱は、彼の目にはまるで永い時を経たように朽ちて見えた。
「──嘘だろ」
空へと目を向ける。夕焼けとは似ても似つかない、最早見慣れた、胸焼けすら覚えるおぞましい赤色の空。
「──最悪だ。最悪に次ぐ最悪だ」
出来ることならば関り合いになりたくない。そう思っていた光景を再び目にし、九龍は大きく肩を落としていた。
そのまま、右手はポケットのあるズボンへと降りていく。そして、またひとつ冷や汗が滴り落ちる。
「…しまった、携帯置いてきて──」
落ちた汗が爪先に落ちた瞬間、身震いするほどの衝撃が九龍に伝わる。自分の身体が震えているのではなく、自分が立っている外から発されていたことを理解すると、またひとつ冷や汗が流れる。
「…い、今の、後ろから…?」
彼から見て角に当たる場所から発せられたそれに言い知れぬ危機感を覚え、物陰に隠れる。慎重に様子を覗けば、漂う臭いに違和感を覚える。
「──!」
息を呑んだ。言葉を発することさえ、本能が拒んだ。ピチャリ、ピチャリ、と落ちる水滴が水溜まりを形成し、その上を異形の存在がゆっくりと歩いていた。
上半身が異常に筋肉が隆起し、それに対比するように下半身は肉食獣を彷彿とさせるしなやかな姿が、アンバランスな体躯を強調している。その口からは、唾液と呼ぶにはあまりに赤黒く、粘り気のない液体が垂れていた。
異形の怪物の口から、何かがこぼれ落ちる。まるで食べかすのように転がるそれは、臭いの元とされる水溜まりから発せられるものと同様の、噎せ返る程の鉄の臭いに満ち満ちていた。
「──っ!!?」
九龍の脳内は混乱の極みにあった。自分が今どうしてこのような状況にあるのか、目の前を通り過ぎようとする怪物はなんなのか、といういくつもの問題が錯綜するが、彼の取る行動はひとつだけだった。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け──!)
呼吸を整え、しかし小さくか細く、自分は今地べたを這いずり回る虫のように気配を断ち、その場にいないものと見なされる為に、際限なく湧き上がる恐怖に耐えながら、必死に忍んでいた。
その祈るような思いが通じたか、怪物は彼の方へ見向きもせず、廃墟と化した空間の奥へと進んでいった。
「──行った、か?」
完全に視認できなくなる程の距離が空いた段階で、九龍は胸を撫で下ろしていた。それは完全に驚異が去ったという、九死に一生を得た心からの安堵の吐息であった。
普段ならば絶対に他人に見せないだろう、笑顔とも涙目とも言える崩れきった表情を露にするほどに、今の生に感謝していた。
──それ故に、徐に背後から近付いてくるもうひとつの影に、意識が向かうことはなかった。




