『可哀想』って言うのは、自分か。
「……」
ぱらり、と彼女は頁をめくる。描かれている文章から情緒を汲み取り、それらの内約を書き記していく。時折辞書を開きわからない所を補填し、自分なりの形に作り上げる。
日課…と呼べるほどではないが、昨今の成績不振を覚えていた彼女は古文の教科書とノートの傍らに、とミルクティーと食べかけのサンドイッチを置き、午前中の授業の復習とこれからの予習を進めていた。
「あ、守凪さん」
そこへ、後頭部から名前を呼ばれ視線をそちらへ移す。見れば、どことなく困った様子のクラスメートの女子たちが傍らに立っていた。
「その、今大丈夫?」
「? はい、平気ですけど」
よかった、と漏らす。その中のひとりの赤毛の女子は、頭を90度下げて物申す。
「その、よければ宿題見せてくれない?」
手と手を合わせて、さながら神頼みのような仕草を見せる。それを受けて、琥珀は咳払いをひとつ挟んでから返答する。
「駄目。そういうのは自分でやらなきゃ、身に付かないよ」
「…うっ、耳が痛い」
向けられたおねだりは、正論で圧し切られた。がっくしといった様子で沈む。が、「けれど」という付け加える形で続ける。
「でも、やり方を教える、でいいなら。喜んで」
「ホント? ありがとうっ」
手を握って、感謝の意をこれでもかと伝えてくる。琥珀はやや困惑しながら、おほん、と咳払いして空気を切り替える。
「…で、どこがわからないので?」
「…えっと、こっから先の、応用問題」
「ああ、この問題なら、……前の問題とやり方は同じですよ。ここの部分を代入して──」
琥珀はそうして、一問一問を丁寧に説明を述べていく。一問解ける度、嬉しそうに反応されるとこそばゆいものを覚えつつ、宿題の解説を完遂する。
「ふう、終わったぁ。やっぱ教えるの上手いよね」
「そう、かな? 最近はあんまり調子よくないから、役に立ってよかった」
「そんな謙遜しなくていいよ。普通にデキてるじゃん。マジメ過ぎだって」
「守凪さん、成績いいけど、あんまり偉ぶってないし。何より、ちょっと頼りになる雰囲気があるし」
──その評価を聞くと、ふと目線を彼女等から自身の足下へ逸らす。
「…そんなんじゃないんだけど」
「? 守凪さん、何か言った?」
床に向けて放った呟きに反応し、首をかしげる。それに「なんでもない」と笑って返し話題を流す。
(あの子たち、いい人なのは、わかってるけれど)
胸の奥からチクチクとしたものを覚えながらも、顔には決して出さず、トークを溶け込んでいく。
「あー、しかし今日ちょっと暑いよね?」
「言えてる。」
「守凪さん、よくベストとか着れてるよね。冷え性?」
「…うん。そんなとこ。クーラー下げすぎると、ちょっとしんどいんですよね」
そう言いつつ、無意識のうちに半袖の先の二の腕をさする琥珀。
「でも、いい加減夏休み近いっしょ? どっか行きたいよねぇ」
「わかる。山いこ山」
「え、あんた山派だったの?」
「…あ、私も山派」
「守凪さんも? ひょっとして海派わたしだけ?」
「海って人多すぎてヤダ。プールのほうがいいや」
そんななか、既に零時から一時に切り替わったばかりの時計を眺めていると、思い出したかのように声を出す。
「あー、プールで思い出したけど、次五限目体育だっけ」
「悲しいかな、プールはまだなんだよねぇ。あーあ、やだやだ」
昼休みの腹が満たされた事により蔓延する緩い空気は、時計の時刻とやがて訪れる予鈴によって払拭され、皆々いそいそと動き始める。
「…そういえば、琥珀さん今日も見学?」
「うん。調子よくなくて」
「大丈夫? 無理に宿題付き合わせてゴメンね?」
「平気、平気。ああ、私、保健室行ってきますね」
半ば逃げるように教室を後にする琥珀。背中に受ける視線に振り向くと、彼女が予想していた目がそこにあった。
(…やっぱり、ね)
その目を見ると、決まって守凪琥珀はこう思うのだ。
「──やっぱり、私は『可哀想』なんだ」
「…あっ」
「…おう」
保健室を訪れた琥珀を、意外な人物が出迎えた。弱冷房のかかった風が、色素の薄い髪をそよぐ。
「座りなよ」
そう言う彼…青柳九龍は、ここがまるで自宅であるかのような足取りで、近場の椅子に腰かけると、同じように椅子を引き出して促す。
「…先輩、どうしてここに?」
腰掛けつつ琥珀が訪ねると、九龍は肩を落としながら答える。
「今日は委員会の当番でな。面倒なことに、先生がいないから留守番を強いられてる」
「…知らなかった。会うことなかったもの」
「それはどうも、間が悪かったみたいだ」
ふたりは腰を下ろして向かい合う。知り合って日は浅くはないが、二人きりとなると思春期らしく、やはり自然と両者の間に緊張感が湧いてくるのが常である。
「そういえば、二人で話すのは割りと久しぶりか?」
「…そうですね。なんか、時が経つのが早い気がしますね」
それを感じさせないのは、ひとえに九龍と琥珀の人柄のおかげである。
「さっき、教室で話題になったんですけど。夏は何派ですか? 山とか、海とかのアレです」
「家派」
即答。そして解答欄を完全に無視した返答を受け、思わず椅子からずっこけかける。
「あのバ…もといミシェルも同じこと言うかもな」
「バカって言いかけたのはスルーするとして、どうしてです?」
「どうしたもかかしもなく、これが原因だな」
そう言って、彼は色素の薄い自分の身体を指す。
「陽射しに弱いんだ、俺。下手すると病気になるからな」
「…あ、すっ、すみませんっ。不謹慎で」
琥珀は口許に手を当て、その顔色もみるみるうちに青ざめていく。不用意に、明け透けに逆鱗に触れたと感じ、それを恥じ入る気持ちを反映するように目も自然と濁っていく。
ひどく動揺する彼女に、九龍はむしろ驚きを隠せなかった。が、彼は手を振って軽い調子で返す。
「なに、そんなに気に病む必要はない」
「…でも、」
「十七年は付き合ってきた自分の身体だ。今更可哀想とは思わないさ」
可哀想じゃない。その言葉を耳にしたとき、琥珀は反射的に自らの耳に触れる。自分の聴覚を異常を訴えたのか、と本気で考えたからだ。
「本当に、そう思ってますか?」
「…?? 当然だろ。こんなのでいちいち誰かや人を恨んだり、心を砕くのもアホらしいだろ」
でも、とあくまで否定ぎみに挟もうとする琥珀に、きっぱりとした口調を崩さずに言い放つ。
「だいたい、『可哀想』って誰が言うんだよ。一番そう言ってるのは、たぶん自分だぜ?」
──まるで天啓でも受けたかのように、琥珀の脳裏に電流が駆け巡る。目をぱちくりとさせて、九龍の顔をじっと見つめる。
「な、なんだ? 急に顔を見て…」
「…先輩って、凄い人だったんですね」
「? ど、どういう意味だ?」
「それがわからないから、凄いんだと思います」
なんのこっちゃ、と肩をすくめる九龍。一方で、瞳の奥がどこか愁いを秘め、発した言葉が心からの称賛というであるとも、それとなく理解していた。
とりとめのない会話を繰り広げていると、ふと九龍は琥珀が脇に抱えている袋に気がつく。そして右腕の時計へ視線を落とすと、徐に席を立つ。
「…もうそろそろ着替えか? 外に出とく」
これまた慣れた雰囲気で、一時保健室から退室しようとする九龍。その流れるような動きに、琥珀はつい次の言葉を紡ぐことを一瞬忘れてしまった。
「え、どうして…?」
「ここにはそういうヤツがたまに来るんで」
「サボりとかです? 先輩みたいな?」
可愛らしく小首を傾げながらも、さらりと毒を織り混ぜる琥珀のスタンスに、聞いていた九龍は思わず吹き出すものを覚える。
「はは、安心してください。ノゾキなんてしないッスよ」
冗談めかした微笑を浮かべつつ、扉の戸に指をかける。その時、琥珀は彼の後ろ姿をそれとなく眺めると、宣言通りの行動を為していることを見届け、ワックスのかけられたばかりの床に面顔を向ける。
「…見ても面白くないと思うけど」
…その呟きが耳に届けられた時、九龍はほんの一瞬硬直する。「えっ」というリアクションや、振り向いて「どうして」という疑問を投げ掛けようとする。
──九龍の所感において、守凪琥珀という少女は十二分に『美少女』というカテゴリに入る存在だった。顔立ちもさることながら、スタイルも豊満でセンシュアルさを秘めている。有り体に言えばタイプの女性だった。
それゆえに、先程の呟きに今一つ腑に落ちないものを覚えていた。琥珀と自信のない性格の女性という観念は彼にとって結びつけにくく、その意図もまた気にかかっていた。
が、彼はそれらすべての疑問を呑み込む。その声色が、あまりに沈んだものだったからだ。自信がない、という生易しい理由では片付かない何かを見た。
それゆえ、深入りすれば相手を傷つける結果になるのではないかと懸念し、自らの面持ちを切り替えながら扉を開けて、そそくさと退室する。
「終わったら言ってくれや…ふふふ」
──九龍は聞かなかったことにした。わざとらしくにやけ面を張り付けてカモフラージュしながら、扉に鍵をかけて背にする。
人の気配が一枚の壁で阻まれたことを確かめると、琥珀は袋を開けて、中の体操着を取り出し着替え始める。
ベストを脱ぎ、ワイシャツのボタンを外す。胸腔への圧迫が微かに緩和され、絹すれの音が静寂の支配する保険室に唯一響いていた。
「…『可哀想』って言うのは、自分か」
誰に対して言い聞かせる訳でもなく、先程の言葉を反芻する。そして彼女は徐に肩から鎖骨、心臓までを指でなぞっていく。




