第一部『ハイウェイ・トゥ・フォール』
高速道路は、目的地へ向かうための道である。
街を離れ、
料金所を越え、
白線に沿って走り続ければ、
人はどこかへ着くことができる。
少なくとも、これまではそうだった。
夜の道路は、余計なものから順に背後へ流していく。
店の灯り。
閉まった工場。
眠らない街の輪郭。
戻る理由になりそうなものは、
バックミラーの中で小さく潰れていく。
サービスエリアの看板だけが、
暗い山の縁で小さな星のように光っていた。
ラジオは、さっきから空の話ばかりしている。
星が減ったとか。
観測が途切れたとか。
どこかの誰かが、随分と困っているらしいとか。
けれど、その声はエンジン音とタイヤの水音に削られて、
運転席まで届く頃には、
煙草の火よりも頼りないものになっていた。
正しい情報が欲しかった訳ではない。
ただ、
窓の外に細かな雪が当たり、
時折、軽い雹がフロントガラスを叩き、
車内だけがまだ人間の温度を保っている。
それだけでよかった。
ETCはいつも通りに鳴った。
料金表示はいつも通りに光った。
白線はいつも通りに前へ続いていた。
なら、走れる。
降りる場所が残っているか分からなくても。
辿り着く先が、まだ地図の上にあるか分からなくても。
少なくとも、
この車が前へ進む間だけは、
終わりを置き去りにできるような顔をしていられる。
そして、世界が終わったというアナウンスがまもなく到着した。
KP「という訳で、今回もやっていきましょう。」
補足「今回のPLはチサト。普段は『へっぽこ丸』とかいうIDで色々している元同僚。恋人ではないが仲は良い。なお、どのTRPGにもいる。皆勤賞というより出席簿側。」
補足「今回のシナリオは、会社が潰れて未払い給料を回収し、ついでに追加で取れた分を握って旅行し、高速道路に乗っていた時に思いついた。労働基準法から生まれたドライブホラーである。」
KP「高速道路というものは、目的地へ向かうための道である。街を離れ、料金所を越え、白線に沿って進めば、どこかには着く。少なくとも、これまではそうだった。けれど夜の道路を一人で走っていると、時々分からなくなる。これは本当に何かへ向かう道なのか、それとも何かから離れるためだけに伸びている道なのか。背後の街灯は流れ、サービスエリアの看板は暗い道路の上で星のように浮かび、車だけが人間の事情を知らない顔で前へ進んでいく。」
KP「ラジオは、さっきから同じ話題へ戻っていた。空に見えるはずの光が減っているらしい。雲の話なのか、観測所の話なのか、どこかの停電なのか、運転席に届く説明はノイズとエンジン音に削られていく。けれど料金所は閉じていなかった。ETCはいつも通りに鳴り、料金表示はいつも通りに光り、白線はいつも通りに前へ続いていた。」
KP「なら、走れる。少なくとも、車が前へ進む間だけは。」
KP「クトゥルフ神話TRPG。《偽りの星》。始めます。」
KP「そして、世界が終わったというアナウンスがまもなく到着した。」
ラジオ「繰り返します。現在発生している観測異常について、今後の回復は見込まれていません。気温の低下は継続し、数十時間以内には人間の生存が困難な状態へ移行すると予測されています。」
KP「声は落ち着いていた。交通情報や天気予報を読み上げる時と同じ抑揚で、今後は朝が来ないことを告げている。聞き間違いを疑う余地を潰すように、同じ内容がもう一度読み上げられた。」
ラジオ「避難先についての案内はありません。通信および交通網の維持も保証されません。残された時間を、どうか安全にお過ごしください。」
KP「そこで短い音楽が流れた。深夜放送の区切りに使われるような、明るくも暗くもない曲だった。主人公は片手を伸ばして音量を下げたが、電源までは切らなかった。」
KP「アクセルを踏み込む。エンジン音が低く伸び、速度計の針が法定速度を越えていく。前方には車の尾灯も、追越車線へ割り込む影もない。道路を塞ぐ事故車もなく、ただ白線だけがヘッドライトの中へ現れては、車体の下へ次々と吸い込まれていった。」
KP「ハンドルを握る指には、いつの間にか強く力が入っていた。世界が終わることより、終わると決められた後まで平静な声で注意事項を並べられたことの方が腹立たしい。速度を上げても行き先は変わらない。分かっていても、足を戻す理由がなかった。」
主人公「最後まで安全運転しろってか。随分と客を馬鹿にした放送だな。」
KP「声を向ける相手はいない。助手席には荷物が置かれ、後部座席にも人影はない。それでも言葉にすると、胸の中で余っていたものが少しだけ減った。」
KP「緩いカーブを抜けた先に、路肩の設備が見えた。速度違反自動取締装置。主人公は反射的に速度計を見た。言い逃れの余地がない数字が表示されている。」
KP「そのまま通過する。」
KP「光らない。」
KP「バックミラーにも、撮影を知らせる閃光は映らなかった。見落としたのかと思い、もう一度鏡へ視線を向ける。遠ざかる装置は暗い道路脇に立ったまま、主人公を記録した様子も、咎める様子もなかった。」
主人公「仕事しろよ。こっちはわざわざ捕まりに行ってるんだぞ。」
KP「返事の代わりに、軽い雹がフロントガラスを叩いた。粒はまだ小さい。ワイパーを一度動かすと、薄く付着した雪と水滴が左右へ押し退けられ、黒い道路が再び正面へ現れる。」
KP「さらに速度を上げる。風切り音が車内へ入り、タイヤが濡れた舗装を削る音と重なった。継ぎ目を越えるたび車体が小さく跳ね、その振動が座席から背骨へ伝わってくる。人間の決めた終わりなど知らないとでも言うように、車はアクセルへ応じて前へ出た。」
主人公「そうだ、そのまま行け。止まるのは俺が決める。」
KP「燃料計へ目を落とす。走り続けるには足りないが、次のサービスエリアまでは問題ない。道路標識にも、数キロ先に休憩施設があると表示されている。電光掲示板には《凍結注意》の四文字が残り、世界の終わりを聞いた直後だというのに、道路は普段と変わらない危険だけを律儀に警告していた。」
KP「やがて、暗い山の間に白い光が見えた。サービスエリアの看板である。照明は点いており、入口を示す矢印も消えていない。主人公は追越車線から左へ寄り、減速車線へ入った。」
KP「速度を落とすと、急に車内が静かになった。先ほどまで押し流していたはずのラジオの音が、再び耳へ入ってくる。放送は終わっていた。代わりに、受信状態の悪いノイズだけが、一定の間隔で小さく鳴っている。」
KP「駐車場へ入る。大型車用の区画にも、普通車用の区画にも、動いている車は見当たらない。建物の照明は点いている。自動販売機も明るい。入口上部の時計も動いている。それなのに、人の姿だけがなかった。」
KP「主人公は建物から少し離れた位置に車を止めた。エンジンを切る直前、ハンドルを指先で二度叩く。」
主人公「よく走った。少し休んだら、また付き合え。」
KP「キーを回すと、エンジンの振動が消えた。残ったのは、屋根を叩く雹の音と、誰も歩いていないサービスエリアを照らし続ける、白い照明だけだった。」
KP「世界が終わったと告げられても、空腹まで終わる訳ではない。」
KP「主人公は減速車線へ入り、御在所サービスエリアの案内に従ってハンドルを左へ切った。先ほどまで法定速度を置き去りにしていた車体は、駐車場へ入る頃には何事もなかったように大人しくなり、白線の内側へ綺麗に収まった。」
主人公「世界が終わる前に飯にするか。」
KP「車から降りる。冷えた風が上着の隙間へ入り、長時間ハンドルを握っていた肩と腰が、一斉に自分の存在を主張し始めた。主人公は軽く背を反らしてから建物を見上げる。世界の終わりを告げる放送を聞いた直後だというのに、入口は明るく、看板は料理の写真を並べ、自動扉は来客を拒まず開いた。」
KP「今回のルールを説明します。世界が終末へ向かうにあたり、神話生物や狂信者達は一斉に暴走しています。その一方で、人々を保護しようと動き出した者もいます。」
KP「もっとも、彼等の考える保護が、人間の考える救済と同じとは限りません。サービスエリアには、助けようとして殺したもの、救おうとして別の生物へ変えたもの、逃がそうとして二度と動けなくしたものが残されています。死体なのか、生存者なのか、既にその区別すら意味を持たない残骸もあります。」
KP「通常であれば、どれも発狂して不思議ではない光景です。しかし今回は、世界の終末を前にして発狂は起こりません。理解できないものが増え過ぎた結果、感覚は麻痺し、目の前の異常も『そういうこともある』で済むようになっています。」
KP「そして何より、サービスエリアの飯がタダで食える。その事実が、不思議と心を落ち着かせます。」
KP「しかし、世界の終末を前に発狂は不思議と起こりません。理解できないものが増え過ぎたことで感覚は麻痺し、救済から程遠い殺害や変異の痕跡を目にしても、今更ひとつずつ恐れてはいられない。そして何より、サービスエリアの飯がタダで食える。その事実が、不思議と心を落ち着かせます。」
補足「会社は給料を払わなかったが、世界は飯代を請求しなかった。帳尻の合わせ方が雑過ぎる。」
KP「御在所サービスエリアの自動扉を抜けると、暖房の残り香と、止まってから間もない厨房の熱が頬へ触れた。入口脇のベンチには、避難者だったものが半透明の膜に包まれている。身体を寒さから守ろうとしたのだろう。膜の内側では指も瞼も動かず、呼吸のために開けられた穴だけが、鼻や口とは無関係な位置に幾つも穿たれていた。」
KP「フードコートには他にも、二人分の上半身を背中合わせに繋げられたもの、両腕を翼のように広げたまま天井から吊られているもの、硬質化した皮膚を椅子へ縫い付けられたものが残っている。どれも逃がさないためではなく、守るために施された痕跡だった。少なくとも、施した側はそう考えていたのだろう。」
KP「今回、この光景にSANチェックはありません。代わりに、食欲が失われたかだけを決めてください。」
PL「無料なら残ってる。」
KP「では、御在所サービスエリアグルメリポートを始めます。」
KP「最初に目へ入ったのは、四日市名物のとんてきであった。厨房の鉄板にはまだ余熱があり、厚く切られた豚肉と、皮を剥かれていない大粒のニンニクが残っている。特製ソースの容器も無事だ。主人公は死人の財布には触れなかったが、厨房の肉には迷わず触れた。」
PL「食中毒で世界より先に終わるのは嫌だから、火だけは真面目に通す。」
KP「鉄板へ肉を置くと、静まり返っていた施設へ脂の弾ける音が響いた。焼き目が付いたところでソースを流し込めば、甘辛い香りとニンニクの刺激が湯気に混ざり、それまで漂っていた薬品と血の臭いを力尽くで押し退ける。皿には千切りキャベツを山盛りにし、その横へ米を添えた。」
PL「では、いただきます。肉が厚いのに妙に柔らかい。ソースは色の割に辛くなくて、甘さと酸味の後からニンニクが来る。キャベツへソースを吸わせると飯と同じ速度で消えるな。世界最後の食事としては、随分と白米へ責任を負わせる料理だ。」
KP「噛むたびに豚の脂が広がり、濃いソースを米が受け止める。食欲が戻ったのではない。世界が終わると聞かされた頭へ、肉と米がもっと単純な命令を出している。噛め。飲み込め。次を食え。それだけであった。」
KP「続いて主人公が手を伸ばしたのは、名古屋コーチンの親子丼である。保冷庫に残された鶏肉を小さく切り、出汁と割下で火を通す。肉が締まり始めたところへ溶き卵を二度に分けて流し、完全に固まる直前で火を止めた。」
PL「鶏がしっかりしてるな。柔らかさだけで誤魔化さず、噛むと肉の味が残る。卵は出汁を吸って甘いが、鶏が負けてない。親子丼って名前の割に、親が最後まで子供へ主導権を渡してない。」
KP「丼の底へ近付くほど米へ染みた出汁が濃くなり、卵の甘味と鶏肉の歯応えが交互に訪れる。背後では、神話生物に頭部を鳥へ変えられた人間が、床へ嘴を突き立てた姿勢で死んでいる。」
PL「随分と食育に厳しい席だな。」
KP「視線を少し横へずらし、主人公は親子丼を完食した。」
KP「ここで汁物として、味噌煮込みうどんへ移ります。赤味噌と白味噌を合わせた濃い出汁を土鍋へ張り、硬さを残した麺を沈める。蓋の隙間から蒸気が吹き出し、卵の白身が縁から固まっていく。」
PL「蓋を皿にする文化、世界が終わっても合理的だな。」
KP「麺は一般的なうどんより硬く、歯を立てると小麦の密度がそのまま返ってくる。味噌の塩気と出汁の香りは強いが、煮込んでも麺が崩れない。半熟の卵を割れば黄身が汁へ溶け、角の立っていた味が一段だけ丸くなる。」
PL「寒い日に食う理由が分かる。舌より先に腹が温まるし、味が濃いから外の冷気に負けない。問題は世界が凍るまで食べ続けても、多分この土鍋の方が長生きすることだな。」
KP「主人公は残った汁へ米を入れるか数秒だけ迷い、既に二食を終えた腹と相談した結果、入れました。」
KP「主食を三つ終えたところで、主人公は甘味へ向かいます。全国でここにしかないという大判焼きの店には、小倉あん、白あん、カスタード、チョコが残っている。焼き型へ生地を流し、小倉あんを遠慮なく詰め、上から更に生地を重ねる。」
PL「店員がいないから規定量を守る必要がない。これは大判焼きではなく、あんこを生地で密輸する料理になった。」
KP「焼き上がった表面は薄く香ばしく、中のあんは舌を火傷させる程度に熱い。生地は柔らかく、端だけが僅かに乾いて歯へ当たる。甘さは強いが、味噌とニンニクを通過した後の舌には、これくらいで丁度よかった。」
PL「甘い。熱い。旨い。世界最後の食事に相応しいかは知らんが、少なくとも会社の送別会で出た弁当よりは人間を惜しんでる味がする。」
KP「最後に主人公はジェリコを作った。コーヒージェリーを大きめに崩してカップへ入れ、冷たいコーヒーを注ぎ、上へホイップを高く盛る。料金も追加料金も存在しないため、トッピングは重力が許すところまで積み上げられた。」
PL「飲み物に咀嚼を要求してくる。コーヒーは苦いが、ホイップを混ぜると一気に甘くなる。ジェリーだけ吸うと喉へ突っ込んでくるので、世界最後の敵はストローの直径かもしれない。」
KP「ホイップが沈むにつれて色は薄くなり、苦味と甘味の境目も消えていく。主人公は窓際の席へ座り、誰も走っていない高速道路を眺めながら、最後の一口まで時間を掛けて飲み干した。」
KP「フードコートには、助けられなかった人々と、助けたつもりで壊された人々が残っている。外では雪が強まり、駐車場の白線が少しずつ埋まり始めていた。それでも腹は満たされ、手には温かい紙カップがある。」
PL「よし。食ったし、もう少し走るか。」
KP「発狂はしない。救済も求めない。ただ、タダ飯を食べ終えた人間は、世界の終わりへ向かうにしては随分と落ち着いた足取りで、愛車の待つ駐車場へ戻っていった。」
PL「あ、トイレ行こうぜ。」
KP「やめろ多目的トイレに連れてこうとするなお前女俺男。」
KP「食事を終えた主人公は、そのままトイレへ寄りました。入口を抜けたところで、照明は問題なく点いており、洗面台からは細い水音が続いています。清掃中の札も、使用禁止を示す張り紙もありません。ただ、奥へ視線を向ければ、見ての通り死体が並んでいました。」
KP「壁際に背を預けたもの。個室の扉へ身体を挟んだもの。洗面台へ腕を伸ばしたまま、床へ伏しているもの。どれも呼吸はなく、指先ひとつ動かしません。先ほどフードコートで見た残骸と同じように、既に助かる見込みはないと理解できます。」
KP「しかし、残骸と呼ぶには違和感がありました。死んで止まっているはずの身体が、今も崩れ続けています。皮膚は熱を受けた蝋のようにただれ、肉は形を保てず、衣服の隙間から粘ついた液となって床へ漏れ出していました。それは血の色ではありません。透明に近いもの、白く濁ったもの、薄く黄ばんだものが混ざり合い、身体の下へゆっくりと広がっています。」
KP「液体は途切れません。すべて流れ出せば終わるはずなのに、身体の厚みはほとんど変わらないまま、ただれた箇所から次々と新しい液が滲み出していました。腐敗臭は弱く、代わりに湿った薬品と、古い排水管を開けた時のような臭いが鼻へ残ります。」
PL「食後に見るもんじゃないな。食前でも嫌だけど。」
KP「発狂はありません。今更、死体が溶けている程度で世界の終わりが近付く訳でもありません。ただし、床へ広がった液体を踏まずに奥へ進むなら、足場を選ぶ必要があります。」
KP「しばらく走ったところで、燃料計の針が残量を主張し始めました。世界の終わりより先に車が止まるのは困る。主人公は次の給油所へ入り、屋根の下へ車を寄せます。」
KP「照明は点いていました。給油機の画面も消えてはいません。しかし、操作を進めても認証の先へ進まず、事務所の端末には管理者用のロック画面が表示されたままです。従業員がいなければ解除できず、緊急時の手動操作も見つかりませんでした。」
主人公「世界は終わっても、パスワードの有効期限だけは守るらしい。」
KP「地下タンクに燃料が残っているかどうかも分かりません。残っていたとしても、給油機がそれを汲み上げる許可を出さない。主人公は機械を壊して取り出す方法も考えましたが、火花を出して車ごと終わるのは趣味ではありませんでした。」
KP「高速道路上で探し続けても同じことになると判断し、主人公は次の出口から下道へ降ります。料金所のゲートは上がったままで、一般道へ続く交差点にも動いている車はありません。信号だけが、誰もいない道路へ赤と青を順番に出し続けていました。」
KP「ガソリンスタンドを探して何本か通りを曲がるうち、道路脇に整備ショップを見つけます。シャッターは半分ほど開き、店内の照明は一部だけ残っていました。作業台には工具が並び、棚にはエンジンオイル、洗浄剤、ホース、布、テープ、予備のバッテリー、携行缶などが残されています。」
主人公「店主には悪いが、今から会計しても入金を確認する人間がいない。」
KP「主人公は車へ積める範囲で道具と材料を回収しました。燃料を直接取り出すために使えそうなホースと容器、簡単な修理に必要な工具、車体を固定するためのロープ。終末を走り切るには、食料より先に車を生かす必要がありました。」
KP「積み込みの途中、主人公は一度だけ店内の床へ目を向けます。灰色の床面に、入口から作業場の奥へ向かって斜めの線が一本入っているように見えました。傷にしては長く、塗装の継ぎ目にしては妙な角度です。」
KP「主人公は数秒だけ視線を止めましたが、床材の柄か、タイヤや工具を引きずった跡だろうと考えました。油と埃の染みが多い場所です。ひとつひとつ気にしていても仕方がありません。」
KP「携行缶を荷室へ押し込み、工具箱が動かないよう固定すると、主人公は再び運転席へ戻りました。整備ショップの照明は、車が道路へ出た後も点いたままでした。」
KP「床に入った斜めの線も、そのまま残されました。」
KP「再び高速道路へ戻って暫く走ると、前方の路肩に一台のトラックが止まっていました。運転席から荷台にかけて炎が回り、風に煽られた黒煙が車線へ流れ込んでいます。何を積んでいたのかは分かりませんが、熱で荷台の外板が歪み、時折、内部から金属の弾ける音が聞こえました。」
PL「普通に危ないな。爆発物でも燃料でも嫌だし、近付かず一気に抜ける。」
KP「主人公は反対側の車線へ寄り、アクセルを踏み込みました。横を通過した瞬間、荷台の内側から何かが強く押し返し、焼けた外板が大きく膨らみます。その直後、荷台が内側から破裂しました。」
KP「炎と鉄片に混じって、何本もの触手が道路へ投げ出されます。表面は焼け焦げ、途中から裂け、先端の幾つかは吸盤とも指ともつかない形を残していました。胴体に当たる部分も荷台の床へ叩き付けられましたが、主人公の車は既に数十メートル先へ進んでいます。」
KP「バックミラーへ目を向けても、触手が車を追う様子はありません。炎の中で形が崩れただけで、起き上がることも、こちらへ伸びることもありませんでした。」
PL「生きてはいなさそうだな。ただ、積荷が勝手に燃えて爆発したにしては出方がおかしい。」
KP「主人公は少し先で速度を落としました。戻る必要はありません。危険を避けるなら、そのまま走り続けるべきです。しかし、トラックの荷台に神話生物が積まれていたのか、それともあの場で仕留められたのか。その違いだけは気になりました。」
PL「戻る。生きてないなら、今のうちに見た方がいい。」
KP「十分に距離を取りながら引き返し、炎の弱い側からトラックへ近付きます。荷台の周囲には焼けた肉片と金属片が散らばっていました。怪物の胴体は荷台の中央に残り、幾本もの触手が外へ垂れ下がっています。」
KP「近くで見ると、触手は自由に動ける状態ではありませんでした。太い金属製のワイヤーが何重にも巻き付けられ、荷台の固定具へ通されています。一本は根元から強く締め上げられ、別の一本は途中で折り畳まれたまま、滑車を使って床へ押さえ付けられていました。」
KP「怪物の周囲には、火災で偶然付いたとは思えない焦げ跡が残っています。胴体の下へ火を回すように燃料が撒かれ、荷台の扉には外側から閉じた痕跡がある。爆発も、怪物が暴れて起こしたものではありません。逃げられないよう固定した上で、人の手によって燃やされています。」
PL「狂信者と怪物が一枚岩って訳じゃないな。少なくとも、こいつを殺した人間がいる。人間同士なのか、信じてるもの同士なのかは分からないが、何らかの対立が起きてる。」
KP「それは主人公の推測に過ぎません。怪物を殺した人間が生きているのか、そもそも人間だったのかも分かりません。ただ、ここには逃げようとした怪物と、それを逃がさず殺した何者かがいました。」
KP「主人公はワイヤーの締め方と、荷台へ残された工具の跡だけを記憶し、再び車へ戻ります。燃え続けるトラックの向こうで、触手の残骸は最後まで動きませんでした。」
KP「燃え続けるトラックを離れ、主人公は再び高速道路を走り始めました。橋の崩落、料金所へ絡み付く黒い縄、人間の手で焼き殺された触手の怪物。止まるたびに奇妙なものが増えていくなら、次は一人で調べる場所ではなく、人が集まる場所へ向かった方がいい。生き残っている者がいれば情報を得られますし、何かに襲われても、少なくとも自分だけが最初の犠牲になる可能性は下がります。」
KP「主人公はカーナビを操作し、現在地と周辺施設を確認しようとしました。しかし人工衛星からの位置情報は届かず、画面上の車両マークは古い位置へ貼り付いたまま動きません。道路情報も更新されず、目的地を入力しても経路の検索は終わらないままでした。」
PL「お前の車カーナビ置いてねぇじゃん。」
PL「文明の終わり際に装備を増やすな。」
KP「訂正します。主人公はスマートフォンの地図を開きましたが、人工衛星からの位置情報は届かず、現在地を示す印は高速道路の外へ飛び出したまま動きません。通信も不安定で、周辺施設の情報を開こうとしても、読み込みを示す円だけが回り続けています。」
KP「それでも、今まで走ってきた道と標識の位置は覚えています。人が残っていそうで、食料も多く、道路情報や避難者の話を集められる場所。主人公が思い浮かべたのは刈谷でした。」
PL「刈谷なら施設が大きい。食い物もあるし、人が集まるなら高速道路を走ってきた奴もいる。今起きてることを知ってる人間が一人くらい残ってるかもしれない。」
KP「怪物の種類を調べるためではありません。誰が何と争っているのか、この異常がどこまで続いているのか、そもそも人間がまだ集団として残っているのか。それを知るには、走り続けて景色を眺めるだけでは足りません。」
KP「主人公は案内標識を頼りに進路を決めました。スマートフォンの地図は役に立たず、道路情報板も正常な表示を失っています。それでも、刈谷へ向かう道そのものが消えた訳ではありません。」
KP「食料がある。人もいるかもしれない。事情を知る者が残っていれば、次にどこへ行くべきかも決められる。」
KP「少なくとも、また無料で飯が食える。」
PL「最後の理由だけで十分じゃないか?」
KP「主人公は否定せず、アクセルを踏み込みました。刈谷へ向かう標識は、雪と雹の向こうでまだ辛うじて読めました。」
KP「刈谷へ近付くにつれ、空の一部が橙色に染まっているのが見えました。建物が燃えているにしては炎の位置が低く、煙も一箇所へ集まっています。事故車や店舗火災ではありません。駐車場の中央で木材や荷物を積み上げ、火を焚いた跡に見えました。」
PL「キャンプファイヤーか?」
KP「そう呼ぶのが一番近いでしょう。人が暖を取るために囲んだのか、目印として燃やしたのか、それとも燃やす以外にすることがなくなったのかまでは分かりません。ただ、炎の周囲から叫び声は聞こえませんでした。」
KP「主人公が駐車場へ入っても、こちらへ駆け寄ってくる者はいません。火を囲むように座った人影は幾つもありますが、誰も炎へ薪を加えず、顔を上げようともしません。何人かは椅子へ座ったまま頭を垂れ、別の者は車体へ背を預け、眠っているような姿勢で動きを止めています。」
KP「エンジンを切ると、炎の弾ける音だけが残りました。世界が終わるというニュースは、とうに切ってあります。避難先も、残された時間も、もう聞く必要はないと思っていました。」
KP「それでも、ここへ来て初めて、主人公はこの先に起こることを身体で理解し始めます。」
KP「車から降りた直後、息が浅くなりました。走ってもいないのに胸が詰まり、肺へ空気を入れても、吸ったという感覚が残りません。深く息を吸おうとするほど眩暈が強まり、指先から力が抜けていきます。」
PL「寒さだけじゃないな。酸欠か?」
KP「周囲に倒れている者にも、首を絞められた痕や毒を受けた様子はありません。逃げようとして倒れた者もいれば、食事の途中で机へ伏した者もいる。誰も争っておらず、誰も発狂していません。ただ、呼吸が足りなくなった順に意識を失ったように見えました。」
KP「火もまた、先ほど見た時より弱くなっています。燃料は残っているのに炎が育たず、薪の表面を赤く舐めるだけで、高く上がろうとしません。」
KP「植物が酸素を作ることは、もうないのでしょう。草木は雪の下で黒ずみ、植え込みの葉は凍結する前に張りを失っています。人間が吸い、火が燃やし、機械が消費するたびに、残された酸素だけが少しずつ減っている。」
PL「地球全体が、ゆっくり息を止めてるのか。」
KP「主人公は車体へ手を付きました。立ったままではいられず、その場へ膝を着きます。耳の奥で心臓の音だけが大きくなり、炎も、建物も、倒れた人々も、輪郭から順に滲んでいきました。」
KP「顔を上げると、夜空の見え方まで変わり始めています。」
KP「星が増えたようにも見えました。雲が消えたからではありません。空を覆っていた何かが薄くなり、今まで届かなかった光まで剥き出しになっている。青とも紫ともつかない薄い帯が夜空の端へ滲み、遠い星の光は、不自然なほど鋭く地上へ突き刺さっています。」
KP「オゾン層がほどけているのか。大気そのものが失われ始めているのか。主人公には判断できません。ただ、夜空は綺麗になるほど人間の住める場所から遠ざかっていました。」
PL「最後に見る星空としては、随分とサービスがいいな。」
KP「声に出したつもりでしたが、自分の耳へ届いた音は掠れていました。身体を起こそうとしても腕へ力が入らず、視界の端から黒いものが広がっていきます。」
KP「炎を囲んでいた人々も、刈谷へ辿り着けば何か分かると思ったのでしょう。食料があり、人が集まり、設備も揃っている。ここなら助かるかもしれないと考えた者もいたはずです。」
KP「けれど、食料があっても、建物が残っていても、金も電気もまだ使えたとしても、呼吸だけは代わりがありませんでした。」
KP「主人公は車の鍵を握ったまま、冷たい駐車場へ倒れます。最後に見えたのは、消えかけたキャンプファイヤーと、その向こうで少しずつ姿を変えていく夜空でした。」
KP「しかし、刈谷に残っていたのは、生き残った人間ではありませんでした。」
KP「駐車場にも、建物の入口にも、高架下へ続く通路にも、死体ばかりが積み重なっています。誰かが運んで集めたものではありません。暖房の残る場所へ向かい、食料のある建物へ入り、人の姿を見つけるたびに集まった結果、その場で折り重なるように倒れたのでしょう。」
KP「下になった者の顔は見えず、上へ倒れた者の腕だけが雪の外へ伸びています。指先にはまだ色が残っていましたが、肩から先は降り積もった雪へ埋まり、既に地面と同じ白さへ固められ始めていました。」
KP「腐敗するよりも、雪の方が早かった。」
KP「身体から熱が失われ、肉が崩れる前に凍り付き、次に倒れた者がその上へ重なり、さらに雪が隙間を塞いでいく。人間の形をしたものが墓へ入ることもなく、その場で地層の一部へ変わろうとしていました。」
KP「主人公は、そこでようやく理解します。」
KP「世界は終わりかけているのではありません。助かる場所がまだ見つかっていないのでもありません。高速道路の先に避難所があり、誰かが状況を説明し、朝になれば救助が来る。そのような続きは、もう残されていませんでした。」
KP「世界は、確かに終わっていました。」
KP「主人公は車へ戻り、荷物の中から花と酒を取り出しました。どちらも旅の途中で買ったものです。墓参りへ行く時と同じように、いつも通り選んだ花と、いつも通り持ってきた酒でした。」
KP「誰の墓へ供えるはずだったのか。今日そこへ辿り着けるのか。もう確かめる必要もありませんでした。」
KP「主人公は、高架の下を見下ろせる道端へ花を置きます。雪へ直接触れないよう包装の底を折り、倒れないよう壁際へ寄せ、その横へ未開封の酒を立てました。」
KP「眼下には、動かない車列と、雪に埋まり始めた道路が続いています。遠くの炎は既に小さく、空の色だけが、先ほどまで見ていた夜とは違うものへ変わり続けていました。」
KP「主人公は手を合わせます。」
KP「長い祈りではありません。名前を知っている者も、顔を覚えている者も、ここにはいませんでした。それでも、何もしないまま立ち去ることだけは出来ませんでした。」
PL「この酒が、歩いてここまで来た誰かに届けばいいな。」
KP「死者へ飲ませるためではありません。」
KP「この先で車を失い、足だけで進み、寒さに耐えながら刈谷まで辿り着く者がいるかもしれない。喉を潤すものにはならなくても、一口飲んで身体を温め、もう少し歩く理由にはなるかもしれない。」
KP「救える人数を数えるには、残された時間も、酒の量も足りません。」
KP「それでも主人公は、花の隣へ酒を置きました。」
KP「死んだ者へ向けた供え物であり、まだ歩いているかもしれない者へ残した荷物でもありました。」
KP「祈りを終えると、主人公は手袋についた雪を払い、もう一度だけ高架の下を見下ろします。」
KP「誰かが来る保証はありません。」
KP「酒が凍る方が先かもしれません。」
KP「それでも、何も残さず走り去るよりはよかった。」
KP「主人公は花と酒を道端へ残し、愛車の待つ駐車場へ戻りました。」
KP「主人公は刈谷ハイウェイオアシスへ降りました。遠くから見えていた炎は、近付いても建物火災には見えません。駐車場の一角へ木材や荷物を集め、誰かが火を焚いた跡です。しかし炎を囲む人々は既に倒れ、火へ薪を足す者も、主人公の車へ助けを求める者もいませんでした。」
KP「車から降りて数歩進んだところで、視界の外側が暗くなります。胸を広げて空気を吸っても、肺へ入った感覚がほとんどありません。足元が揺れ、身体を支えるため車体へ手を伸ばしましたが、指先にも力が入りませんでした。」
PL「さっきより早い。ここに留まるのは無理だな。」
KP「地表に近いほど空気が薄い。通常であれば有り得ない状態ですが、現在は重力も、大気を地上へ留めていた層も、以前と同じ働きをしていないのでしょう。酸素は失われるというより、地面から徐々に離れているように見えます。」
KP「主人公はそれ以上の調査を諦め、運転席へ戻ります。扉を閉め、残っていた車内の空気を吸い込むと、霞んでいた視界が僅かに戻りました。この車も密閉された空間ではありません。長く留まれば、いずれ車内の酸素も外へ抜けます。」
PL「ここで倒れたら、あの連中の上に一人追加されるだけだ。先へ行く。」
KP「エンジンを掛けようとしたところで、先ほど花と酒を置いた場所が視界へ入りました。どうせ出るなら、あそこをもう一度だけ見ておく。誰かが酒を持っていったなら、少なくとも生きて歩いている人間がいることになります。」
KP「主人公は車を高架下へ回します。花は置いた時のままです。酒も倒れてはいません。しかし、そのすぐ近くに、小さな人影が座り込んでいました。」
KP「子供です。雪へ埋もれないよう壁際へ身体を寄せ、両膝を抱えていました。顔色は悪く、呼吸も浅い。視線は花の横に置かれた酒へ向いています。」
PL「それは飲むな。喉が渇いていても、今飲んだら余計に苦しくなる。」
KP「主人公は車を子供のすぐ近くへ寄せ、助手席側の扉を開きました。声を掛けようとしても、肺へ入る空気が少なく、一度では大きな声が出ません。主人公は口元を手で覆い、短く息を整えてから、もう一度呼び掛けます。」
主人公「酒には触るな。こっちへ来い。中の方がまだ息ができる。」
KP「子供は酒から手を離しました。しかし、すぐには立ち上がりません。主人公が車を指差すと、ようやく壁へ手を付き、何度か足を滑らせながら立ち上がりました。」
KP「主人公は子供の腕を掴み、広い車内へ引き入れます。後部座席を空け、毛布と荷物を端へ寄せ、身体を横にできるだけの場所を作りました。扉を閉めると、子供は喉を鳴らして何度も息を吸います。」
主人公「ゆっくり吸え。一度に吸おうとすると余計に苦しくなる。名前は言えるか?」
子供「言える。でも、お父さんとお母さんを待たないといけない。」
KP「子供は窓の外へ顔を向けました。高架の下には雪へ埋まり始めた死体が並んでいますが、どれを見ているのかまでは分かりません。」
主人公「二人はどこにいる?」
子供「急に倒れた。お父さんが、お母さんを起こそうとしたけど、お父さんも座ったまま動かなくなった。それで、あの梯子を上って逃げなさいって言われた。」
KP「子供が指差した先には、管理用の梯子がありました。地面から高い位置へ続き、高架の側面にある狭い足場へ上がれるようになっています。」
主人公「一人で上ったのか?」
子供「上で待っていれば、後から来るって言ったから。ちゃんと言うことを聞いた。だから、まだ会える。」
KP「子供は泣いていません。信じているから泣かないのか、酸素が足りず、泣くための呼吸すら残っていないのかは分かりませんでした。」
KP「主人公は、両親がもう来ないとは言いませんでした。この場でそれを告げても、子供の呼吸をさらに乱すだけです。」
主人公「分かった。なら二人を探す間も、お前が倒れない場所へ移る。車からは勝手に降りるな。酒にも触るな。喉が渇いたら、後ろに水がある。」
子供「遠くへ行くの?」
主人公「息ができる場所までだ。お父さんとお母さんを探すにも、先に生きてないと話にならない。」
KP「子供は少し迷った後、毛布を胸元へ引き寄せて頷きました。」
KP「主人公は窓を閉め、空調を内気循環へ切り替えます。車内に残された酸素がどこまで持つかは分かりません。それでも、地表へ立ち続けるよりは長く呼吸できます。」
KP「高架下に残した花と酒が、バックミラーの中へ小さく映っています。」
KP「酒は歩いて辿り着いた人間へ渡りませんでした。」
KP「代わりに、その隣で待っていた子供が一人、車へ乗りました。」
KP「主人公は、御在所サービスエリアから持ち出していた弁当を後部座席へ並べました。揚げ物の入ったもの、焼き魚の入ったもの、米の上へ肉が敷き詰められたもの。冷えてはいますが、包装は破れておらず、臭いにも異常はありません。」
主人公「一気に食うと吐くぞ。最初は半分だけにして、水も少しずつ飲め。」
KP「子供は素直に頷きました。しかし、蓋を開けて箸を渡すと、最初の一口を飲み込むより先に次を掴みました。噛んではいるものの、味を確かめる余裕はありません。米を頬張り、肉を押し込み、途中で水を飲んでは、また弁当へ箸を戻します。」
主人公「だから急ぐな。誰も取らないし、まだある。」
子供「だって、なくなるかもしれないから。」
KP「主人公は止めようと伸ばした手を引きました。弁当を奪えば、この子にはまた食べ物が消えたようにしか見えない。喉を詰まらせないよう水だけを近くへ置き、次の弁当の蓋を開けてやりました。」
KP「子供は二つ目にも手を伸ばしました。空腹だったのでしょう。両親が倒れてから、どれほど長く梯子の上で待っていたのか本人にも分かっていません。食べる速度は最後まで落ちませんでしたが、腹へ物が入るにつれて、肩の震えだけが少しずつ収まっていきました。」
KP「主人公は自分の分へ手を付けず、その様子を見ていました。御在所では料理を選び、味を比べ、タダ飯を喜んでいましたが、今は冷えた弁当を子供が次々と空にしていくだけで満足していました。」
子供「まだ食べてもいい?」
主人公「吐かないならな。苦しくなったら絶対に言え。」
KP「三つ目の弁当を開けたところで、子供はようやく箸を止めました。満腹になったのではなく、何かを思い出したように、窓の外へ視線を向けています。」
主人公「どうした?」
子供「お父さんとお母さんが倒れる前に、変な生き物がいた。」
主人公「どんな生き物だ?」
子供「大きいのと、細長いの。どっちも人じゃなかった。走ってきて、ぶつかって、ずっと押し合ってた。片方が転んだら、もう片方が上から何回も叩いてた。」
主人公「人を襲っていたのか?」
子供「分からない。みんな逃げてたけど、あれ同士で喧嘩してた。お父さんは見るなって言った。」
KP「人間を保護しようとした神話生物と、それを止めようとした別の何か。あるいは、同じ人間を奪い合っていただけかもしれません。子供が見た距離と時間では、それ以上のことは分かりませんでした。」
KP「主人公は空になった容器を袋へまとめ、子供へ毛布を掛け直しました。車内の空気が薄くなる前に、少しでも遠くへ行く必要があります。そう考えた途端、アクセルを踏む足へ余計な力が入りました。」
KP「愛車はすぐに速度を上げました。無人の車線を白線が流れ、雪の粒がフロントガラスを斜めに走ります。これまでは一人で好きに飛ばしていました。しかし今は、後部座席の軽い身体がカーブのたびに左右へ揺れています。」
子供「速い。」
主人公「怖いか?」
子供「少し。でも、綺麗。」
KP「子供は窓へ額を寄せ、夜空を見上げました。空気の層が薄くなったことで、夜の色は以前より深く、黒に近付いています。それなのに、星はほとんどありません。広く澄んだ夜空だけがあり、その奥にあるはずの光は、数えるほどしか残っていませんでした。」
子供「空って、こんなに広かったんだ。」
KP「主人公は速度を緩めました。子供は夜空を綺麗だと言いましたが、窓へ触れていた指は次第に強く丸まり、爪が掌へ食い込んでいます。」
子供「でも、何で星がないの?」
KP「主人公は答えませんでした。」
子供「お父さんとお母さんも、この空を見てる?」
KP「返事を待つ間に、子供の呼吸が乱れ始めました。最初は鼻を啜るだけでしたが、やがて毛布を顔まで引き上げ、声を押し殺すように泣き出します。両親は後から来ると信じていた。けれど、車が遠くへ進むほど、迎えに戻れない距離だけが増えていきます。」
KP「主人公はラジオへ手を伸ばしました。音楽でも流せば、少しは泣き声を隠せるかもしれません。子供の耳へ別の音を入れれば、空や両親のことを考えずに済むかもしれません。」
KP「指は電源ボタンの手前で止まりました。」
KP「最後に聞いたのは、世界が終わったというアナウンスです。電源を入れれば、また同じ声が流れるかもしれない。残り時間や、助からない理由や、誰にも向けられていない最後の挨拶を、この子まで聞くことになるかもしれません。」
KP「主人公はラジオへ触れず、手をハンドルへ戻しました。」
主人公「飛ばし過ぎた。悪かった。」
KP「子供は泣いたまま首を横へ振りました。」
主人公「戻れないところまで行くとは言ってない。まず息ができる場所を探す。お父さんとお母さんのことは、その後で考える。」
KP「会えるとは言いませんでした。死んでいるとも言いませんでした。ただ、今すぐ諦めろとは言わず、車の速度だけを落としました。」
KP「ラジオの消えた車内には、子供の泣き声と、タイヤが濡れた道路を踏む音だけが残りました。星のほとんどない夜空は、速度を落としても変わらず、車の上を静かに覆い続けていました。」
KP「主人公は、高速道路の高架から出来るだけ高い場所を探しました。地上へ降りれば酸素が薄く、長く立っていられない。ならば少しでも空気の残っている場所へ上がり、そこから先の道と、人のいる場所を探そうと考えたのです。」
KP「車を止めた先からは、町の大半を見渡せました。住宅地の間、商業施設の駐車場、遠くの河川敷。離れた場所で次々に火の手が上がっています。しかし、建物を呑み込むほど激しくはありません。悲鳴も、破裂音も、逃げ回る人影も見えず、ただ小さな炎だけが、それぞれ離れた場所で静かに燃えていました。」
KP「暖を取るために集められた火。暗闇の中で自分の居場所を知らせる火。既に動かなくなった誰かの傍らで、最後まで消さずに残された火。遠くから眺めれば、それらは暴動や火災よりも、町の至る所で黙祷が行われているように見えました。」
KP「後部座席では、子供が毛布に包まれて眠っています。食べた弁当の空容器を足元へ重ね、泣き疲れた顔を窓とは反対側へ向けていました。車を降りた時には僅かな物音にも反応していた呼吸が、今はゆっくりと一定の間隔を保っています。」
KP「主人公は音を立てないよう扉を閉め、高架の縁から夜空を見上げました。」
KP「星はほとんどありません。空気が薄れ、雲も霞も失われているなら、以前より多く見えてもいいはずでした。それなのに、そこには深く澄んだ黒だけが広がり、残された僅かな光も、遠い場所へ引き離されているように小さく見えます。」
KP「その黒い空へ、一本の線が入りました。」
KP「最初は、目の奥に残った光の筋だと思いました。炎を長く見たせいで、視界へ焼き付いたものだと。しかし瞬きをしても消えません。線は空の端から端へ伸びるのではなく、一点から少しずつ裂け、乾いた塗装へ亀裂が走るように、細い枝を増やしながら広がっていきました。」
KP「音はありませんでした。」
KP「空が割れているというのに、風も、衝撃も、地鳴りも起こりません。ただ、夜だと思っていた黒い面が裂け、その向こうから、さらに暗い何かが覗いています。」
KP「そして主人公は、月を見ました。」
KP「先ほどまで遠い夜空に浮かんでいると思っていた球体は、亀裂の向こうにあるのではありません。それは遥か目前に存在していました。星のひとつとして眺められる距離ではなく、空の奥へ貼り付いていた巨大な肉体の一部として、頭上を覆うほど近くにありました。」
KP「白く見えていた表面には、乾いた地形とは異なる皺が走っています。円形の窪みだと思っていたものは、外側から受けた衝撃の跡ではありません。内側にあったものが抜け落ち、塞がらないまま固まった穴です。」
KP「空の亀裂がさらに広がりました。」
KP「月の下端から、液体が垂れます。」
KP「最初の一滴は、球体の表面をゆっくりと伝い、途中で膨らみ、やがて重さに耐えられなくなったように剥がれ落ちました。それは雲へ隠れることも、大気の中で燃えることもなく、黒い筋を引きながら地上へ落ちていきます。」
KP「続いて二滴、三滴。亀裂が広がるほど液体は増え、月の表面から、傷口を開かれた肉のように流れ始めました。」
KP「ここで、クトゥルフ神話技能を振ってください。」
ダイス「クトゥルフ神話技能 成功。」
KP「成功したあなたは、全てに気付きます。」
KP「あれは月ではありません。」
KP「人間が月と名付け、夜の明かりとして眺め、海を動かし、暦を作り、神話や物語へ何度も使ってきた球体。その形は確かに月でした。しかし、天体として残ったものではありません。」
KP「それは、嘗て生命であったものの痕跡です。」
KP「途方もなく巨大な何かが死に、その肉体の一部だけが乾き、固まり、長い年月を掛けて球体の形を保っていた。表面の窪みも、白い粉も、内側に残った空洞も、全ては死んだ生命の組織が崩れた痕でした。」
KP「月は地球の傍にあったのではありません。」
KP「地球だと思っていた世界が、死骸の傍に残されていたのです。」
KP「そして今、その死骸を空へ留めていたものが失われ、固まっていた体液が再び流れ出している。」
KP「主人公は高架の縁へ手を付きました。理解した内容に恐怖したからではありません。足元の重力が、先ほどより僅かに弱くなったように感じたからです。」
KP「町の各所で燃えている小さな火は、変わらず静かに揺れていました。後部座席では、子供が何も知らずに眠っています。」
KP「世界は終わる。」
KP「その言葉だけなら、既にラジオで聞いていました。」
KP「しかし主人公は今、その世界が何の上に存在し、何の傍で生かされていたのかを知りました。」
KP「空から垂れ落ちる液体は、月の血ではありません。」
KP「血と呼べる生命が、もうそこには残っていないからです。」
PL「《偽りの星》なんてタイトルで、偽物の月まで出てきた。けど、これでタイトル回収は早過ぎる気がするんだよな。」
PL「偽物なのは月じゃなくて、地球の方じゃないか? 神格だけを追い出せなかったから、地球ごとどこかへ捨てた。手段はまだ分からないけど、目的として一番あり得るのはそれだと思う。」
PL「人工衛星から情報が来ない。星も見えない。重力も大気も崩れ始めている。地球が元の場所にないなら、一応は繋がる。」
PL「ただ、もう一つ考えられる。星が見えないということは、地球自体が何らかのベールに覆われているんじゃないか?」
PL「空の割れ目から月の正体が見えたなら、今まで見ていた空そのものが覆いだった可能性もある。地球ごと捨てられたのか、何かに包まれて外から隔離されているのか、それとも両方か。」
PL「まだ決められないな。少なくとも、月が偽物だったから《偽りの星》、で終わるほど単純ではないと思う。」
KP「主人公は再び車を走らせました。道路を選ぶ余地は、先ほどまでよりも明確に減っています。地上へ降りた刈谷では呼吸が続かず、高架へ戻った途端に意識が持ち直した。酸素は消えているだけではなく、地表から離れつつある。ならば、標高の低い一般道や市街地へ降りることは、もう出来ません。」
PL「高速道路から降りたら酸欠で動けなくなる。これ、完全に高速に拘束されてるな。」
KP「主人公は道路標識を確認しました。」
PL「今の無視するところか?」
KP「高速道路は山間部へ向かって伸びています。進めるうちは、この高さを失わない方がいいでしょう。燃料と道路が残っている限り、主人公は高架の上を走り続けることになります。」
KP「後部座席では、子供が毛布へ包まれたまま眠っています。起こす必要はありません。主人公は速度を抑え、路面の凍結と、前方に落ちてくるものへ注意を向けました。」
KP「月から垂れた液体は、やがて地上へ届きます。」
KP「血と呼ぶには、あまりにも質の悪いものでした。赤くもなく、水のように弾けることもありません。黒く濁り、コールタールに近い粘りを持ち、地面へ落ちた後も形を失わずに膨らんでいます。」
KP「一滴と呼ぶには巨大な塊が、遠方の町へ沈みました。屋根へ触れた部分だけが低く潰れ、残りは柔らかな山のように盛り上がります。溶岩に似ていますが、熱で周囲を焼く様子はありません。表面が膨らんではゆっくり沈み、縁が数センチずつ押し出されるだけで、ほとんど前へ進みません。」
KP「別の塊が道路の下へ落ちます。着地した瞬間にも飛沫は上がらず、柔らかい肉を高所から置いたように全体が震えました。黒い表面には、内側から空気を押し出すような泡が幾つも浮かびます。しかし泡は割れず、そのまま丸い膨らみとして残り、次の膨らみと重なっていきました。」
PL「月の血というより、死体の中に残っていたものが腐らず出てきた感じだな。」
KP「主人公にも、それが血液とは思えませんでした。流れるための性質を失い、固まることも出来ず、ただ重力に引かれた分だけ垂れ落ちている。嘗て生命の中を巡っていたとしても、今では何を運び、何を生かしていた液体なのかさえ分かりません。」
KP「黒い塊は地上へ次々と積もっていきます。街路を埋めるには遅く、人間が走れば容易に逃げ切れる速度です。しかし、酸素を失った地上には、もう逃げる人間がほとんど残っていません。」
KP「主人公は車線を保ったまま、その様子を横目で見ます。高架の高さまでは、まだ届いていません。けれど、地上へ降りられない以上、進行方向へ落ちれば迂回する道もありません。」
KP「高速道路は逃げ道であると同時に、残された唯一の足場になっていました。」
PL「このまま高速道路を走っていても、地上へ降りられなくなるだけだ。海岸まで行こう。」
KP「目的はありますか?」
PL「海底ケーブルだ。人工衛星が死んで、電波塔も制作技能で無線を使って駄目だったなら、残っている通信経路は海底ケーブルくらいしかない。生きている回線へ直接触れれば、短時間でも外部との通信を起こせるかもしれない。」
PL「海の向こうに誰かいるのか、この場所だけが切り離されているのか、それだけでも分かればいい。恐らく最後のチャンスだ。」
KP「海底ケーブルへ接続する設備が残っている保証はありません。沿岸部は現在地より標高が低く、酸素濃度もさらに下がっている可能性があります。」
PL「だから途中でダイビング装備を回収する。ボンベがあれば、海へ潜るためだけじゃなく、地上へ降りる時間も確保できる。ケーブルの陸揚げ地点か、その管理施設まで行ければ十分だ。」
KP「分かりました。主人公は長野方面へ向けていた車を、静岡側へ進めます。」
KP「道路標識に残された地名を拾いながら、高架を降りずに海岸へ近付ける経路を選びました。現在地を示していたスマートフォンは既に役に立たず、道路の分岐と、過去に通った記憶だけが頼りです。」
KP「後部座席では、子供が弁当の容器を足元へ転がしたまま眠っています。主人公は目的地を説明しませんでした。海底ケーブルへ辿り着けるかも、そこから誰かへ連絡できるかも分からない。眠っている間だけでも、両親が後から来るという考えを奪う必要はありませんでした。」
KP「地上では、月から落ちた黒い液体が町の間へ積もり続けています。流れる速度は遅いものの、落下地点は増え、道路や建物の区別を少しずつ覆っています。高速道路の高さまでは届いていませんが、前方へ落ちれば、その時点で進路を失います。」
KP「主人公は海岸へ向かう途中、道路から見える店舗や倉庫を探しました。ダイビングショップ、海洋用品店、消防設備を扱う施設。酸素ボンベと呼吸器、それを子供にも使えるよう調整するための部品が必要です。」
PL「店を見つけても、高速から降りた時点で酸欠になる。出来るだけ建物へ近い出口を探して、車を入口まで乗り付ける。長居はしない。」
KP「主人公は道路上から看板を探し、沿岸へ続く分岐の近くで、ダイビング用品を扱う店舗を見つけます。建物は低い位置にありますが、駐車場へ下りる坂は短く、入口までは車で接近出来そうです。」
KP「ここで主人公は、初めて自分から高速道路を降りる準備をしました。」
KP「降りた先では、車外へ出られる時間が限られます。必要な装備を見つけられなければ、海底ケーブルへ向かう計画そのものが成立しません。」
KP「それでも、何も分からないまま高速道路の上で呼吸が尽きるよりはよかった。」
KP「主人公は子供のシートベルトを確かめ、窓を閉め、空調を内気循環へ切り替えます。工具を助手席へ移し、店舗の入口へ車体を向けました。」
PL「海の外まで繋がっているなら、まだ完全には終わっていないかもしれない。」
KP「主人公はアクセルを緩め、高速道路の出口へ入りました。」
KP「主人公は湾岸長島パーキングエリアへ入りました。海岸へ近付きながらも、高速道路の高さを保てる場所です。周囲には階段や屋上へ続く設備があり、いざとなれば地上から離れられる。少し離れた場所にはアウトレットが広がり、食料や衣類、工具まで一通り揃う可能性がありました。」
KP「何より、ここからは周囲を見渡しやすい。湾岸沿いに並ぶ工場群、倉庫、道路、海へ延びる設備。その多くは停止していましたが、完全に死んではいませんでした。」
KP「工場の外壁には配管とケーブルが幾重にも走り、非常灯の点いている建物もあります。通信に使えるかは分かりませんが、地上の電波塔よりも、ここにはまだ繋がっている線が多い。主人公は海底ケーブルへ向かう前に、しばらく周辺を探索することにしました。」
PL「工場が多いなら、通信設備か予備電源くらいは残ってそうだな。駄目でもボンベや工具は拾える。」
KP「主人公は子供を連れ、車から近い建物から順に確認します。低い場所へ長く留まらないよう、階段や連絡通路を使い、出来るだけ高い位置を移動しました。」
KP「工場の内部には、大きな配電盤や、壁を貫いて隣の建物へ続く太いケーブルが残っています。止まった機械の間には点検用の通路があり、天井近くには見たこともない太さの配管が並んでいました。」
子供「これ、何を作るところ?」
主人公「知らん。触るなよ。動いてなくても危ないものは危ない。」
KP「子供は返事をしながら、次々に機械を覗き込みます。外ではほとんど声を出さなかったのに、工場へ入ってからは、計器の針や、床を這うケーブルや、頭上を渡る配管を見つけるたびに足を止めました。」
子供「こっちにも線がある。あっちの建物まで繋がってる。」
主人公「見える範囲だけ覚えておけ。帰り道で迷ったら、お前が案内役だ。」
KP「そう言われると、子供は少し得意そうに頷きました。主人公より先へ行こうとはしませんが、数歩遅れて付いてきながら、分岐のたびに壁や床の特徴を確かめています。」
KP「しかし、はしゃいでいられた時間は長くありませんでした。」
KP「食事をした後も、泣いた後も、眠りは足りていません。歩く速度が次第に落ち、階段を上る途中で手摺へ両手を掛けるようになります。それでも置いていかれまいとして、主人公の背中だけは見失いませんでした。」
主人公「疲れたなら車へ戻るぞ。」
子供「戻らない。でも、歩けない。」
KP「子供は主人公の服の裾を掴みました。」
子供「だっこ。」
KP「主人公はしばらく黙って見下ろします。片手には工具と懐中電灯があり、もう片方まで塞がれば、何か起きた時にすぐ動けません。」
主人公「今まで元気に走ってただろ。」
子供「眠いから、もう無理。」
KP「子供は言い終える前から目を擦っています。ここで無理に歩かせて転ばせる方が面倒でした。」
KP「主人公は工具を袋へまとめ、肩へ掛け直します。それから子供の脇へ腕を入れ、仕方なく抱き上げました。」
主人公「寝るなら暴れるな。落としても拾わないぞ。」
子供「落としたら拾って。」
主人公「注文が多いな。」
KP「子供は主人公の肩へ頭を預けました。機械を見ていた時の勢いはすぐに消え、数分もしないうちに身体から力が抜けていきます。」
KP「主人公は眠った子供を抱えたまま、工場の奥へ続くケーブルを辿りました。」
KP「外では月から落ちた黒い液体が、地上へ少しずつ積もっています。ここに残された設備も、いつまで動くかは分かりません。」
KP「それでも湾岸長島には、食料があり、高い場所があり、まだ生きている線がありました。」
KP「主人公は海へ向かう前に、その一本でも使えるものがないか確かめることにしました。」
KP「主人公は、工場から海へ向かって延びるケーブルを順に確かめます。全てが通信線ではありません。電力用、計測用、停止した機械を結ぶもの。その中に、外部との接続を示す回線が幾つか残っていました。」
KP「抱かれていた子供は、いつの間にか主人公の肩へ顔を押し付けて眠っています。主人公は片腕で身体を支えたまま、空いている手で端末と工具を扱いました。」
PL「制作技能で、残っている線から通信を拾えないか試す。」
KP「判定してください。」
ダイス「制作技能 成功。」
KP「完全な通信を復旧させることは出来ません。しかし、線の向こうに残されていたデータを、断片的に読み出すことには成功します。」
KP「その前に主人公は、工場の窓から海を見ました。」
KP「月から落ちた黒い液体は、既に沿岸へ流れ込んでいます。水面へ触れても薄まらず、油のように広がることもありません。海面の上へ重く盛り上がり、波に押されても僅かに形を変えるだけで、その場へ粘り付いていました。」
KP「波が黒い塊の下へ潜り込み、しばらくして別の場所から白く砕けます。海そのものが押し返そうとしているようにも見えましたが、黒い液体は少しずつ量を増やしています。沖から流れてきたのではなく、空から落ちたものが海岸線の至る所へ積もっているのでしょう。」
KP「主人公は端末へ視線を戻しました。」
KP「読み出せた文章は、どれも短いものでした。接続が途中で切れたためなのか、送った者に長く書く時間がなかったのかは分かりません。」
端末「こちらも星が見えない。」
端末「朝は来なかった。」
端末「子供だけ上へ逃がした。」
端末「酸素が足りない。扉を開けるな。」
端末「海が黒い。」
端末「もう返事はいらない。母さん、ごめん。」
KP「使われている言語も、送られた地点も一つではありません。読み取れる範囲では、離れた地域でも星が消え、空気が失われ、黒いものが落ちているようでした。」
PL「少なくとも、この辺りだけの現象ではないか。」
KP「その可能性は高いでしょう。ただし、現在も回線の向こうに生存者がいるかは分かりません。主人公が受け取っているのは通信ではなく、途切れる直前に残された文章です。」
KP「大半は、誰かの名前や、謝罪や、家族へ向けた短い遺言でした。」
端末「先に眠っていて。」
端末「犬を外へ出せなかった。」
端末「あなたと暮らせてよかった。」
端末「鍵はいつもの場所。」
KP「読んでも状況の分からない文章も混ざっています。」
端末「北側が先に裏切った。」
端末「黄色い服を信用するな。」
端末「橋を渡したのは誰だ。」
端末「三人目は人間ではなかった。」
端末「彼らが切った。こちらからではない。」
KP「誰と誰が争っていたのか。何を切ったのか。黄色い服が制服なのか、集団の目印なのか。それを確かめるための前後の文章は残っていません。」
PL「トラックの化け物をワイヤーで固定して殺した奴らと関係があるかもしれないけど、今の段階では何も繋がらないな。」
KP「さらに、文章として意味を取れないものもありました。」
端末「鐘は下で鳴る。」
端末「九つ目を見たら息を止めろ。」
端末「海へ名前を返した。」
端末「月の裏側に口がある。」
KP「暗号なのか、神話存在を目撃した者の言葉なのか、酸欠によって判断を失った者が書いたものなのか。その区別も出来ません。」
KP「主人公は残された断片を時刻順に並べ、同じ送信元から続けて届いた文章がないか探します。しかし、ほとんどは一度だけ送られ、その後は途絶えていました。」
KP「その中に、本文が一つの言葉だけで終わっている記録がありました。」
端末「バベルの塔。」
KP「送り主の名前は欠けています。送信地点も正確には残っておらず、時刻も他の記録と一致しません。」
PL「前後は?」
KP「ありません。その回線から拾えた文章は、それだけです。」
PL「誰かへの指示でも、場所の名前でもないのか。」
KP「判断出来ません。文末の記号すら残っていませんでした。『バベルの塔』を見たのか、向かったのか、止めようとしたのか。それとも、今起きている事態をそう呼んだだけなのか。短過ぎるため、文脈を作る材料がありません。」
KP「主人公は同じ言葉が他の記録に含まれていないか検索します。」
KP「一致するものはありませんでした。」
KP「世界の各地から届いた遺言、争った人間を示す文章、意味を失った言葉。その中で『バベルの塔』だけが、誰へ向けられたのかも分からないまま、単独で残されています。」
KP「主人公の腕の中で、子供が僅かに身動きをしました。」
子供「もう終わった?」
主人公「まだ分からないことが一つ増えた。」
子供「じゃあ、まだ終わってないね。」
KP「子供はそれだけ言うと、再び主人公の肩へ頭を預けました。」
KP「端末には『バベルの塔』という文字が残っています。」
KP「それが生存者へ繋がる手掛かりなのか、人間同士の争いに関係する言葉なのか、それとも、既に終わった何かの名前なのか。今の主人公には判別出来ませんでした。」
KP「主人公は湾岸長島で一泊することにしました。高い場所へ車を止め、子供を後部座席へ寝かせます。アウトレットから回収した毛布と衣類を重ね、食料と水を手の届く場所へ置きました。」
KP「電気の残っている設備はありましたが、照明は消しました。月から垂れたものが何に反応するのか分からず、遠くから居場所を知らせる必要もありません。」
KP「主人公は眠りへ落ちる前に、窓から地上を確認しました。」
KP「黒いものは、既に道路の低い部分を覆い始めています。夜の暗さと重なって境界は見えにくいものの、街灯の残った場所では、コールタールのような表面がゆっくりと盛り上がっていました。」
KP「流れているというより、積み重なった重さで押し出されている。道路の窪みや排水溝へ沈み、そこが満たされると、次の低い場所へ僅かずつ広がっていきます。」
KP「その中へ、赤いものが混じっていました。」
KP「月から落ちた黒い液体とは違い、赤いものは薄い膜のように地面を這っています。熱を持っているのか、光を反射しているだけなのかは分かりません。黒い塊へ触れた途端、その境目が激しく泡立ちました。」
KP「黒と赤は混ざりませんでした。」
KP「互いの内側へ入り込もうとしては押し返し、表面を膨らませ、弾けさせます。細かな飛沫が周囲へ散り、触れた舗装から白い煙が上がりました。」
KP「強酸の中へ別の液体を注いだような弾け方でした。」
KP「泡は次々に生まれます。一つが破裂すると、その下から別の膨らみが押し上がり、黒い塊の一部を千切って周囲へ飛ばします。赤い膜も同時に削られますが、途切れた場所へ後ろから新しい赤が流れ込み、再び黒へ触れました。」
PL「液体同士で喧嘩してるのか?」
KP「少なくとも、静かに混ざっているようには見えません。」
KP「黒いものは重く、その場を動きません。赤いものは薄く広がり、黒い塊の縁へ次々に回り込んでいます。囲まれた部分は内側から膨れ、やがて大きく弾けました。」
KP「破裂音が高架まで届きます。」
KP「子供が後部座席で身動きをしましたが、目を覚ますことはありませんでした。主人公は窓から離れ、念のため扉の施錠を確かめます。」
KP「翌朝と呼べる時間になっても、空は明るくなりませんでした。」
KP「地上では黒と赤がまだ争っています。夜の間に範囲は広がり、駐車場の低い場所や道路の下は、既に二つの色で埋められていました。」
KP「黒いものが赤を呑み込む箇所もあれば、赤い膜が黒の表面を削り、穴を開けている箇所もあります。どちらが勝っているのかは分かりません。」
KP「ただ、これは自然に起きた化学反応というより、互いを消そうとしているように見えました。」
KP「主人公たちが眠っている間にも、地上では別の戦いが始まっていました。」
KP「地上を覆う黒と赤は、互いに触れた場所で弾けながら、倒れた人間の死骸へ集まっていました。」
KP「黒い液体が身体を覆うと、衣服も皮膚も区別せず、粘ついた表面の下へ少しずつ引き込みます。赤いものはその縁へ薄く入り込み、黒が取り込む前の肉を奪うように広がりました。死骸の一部が両方へ引かれ、形を失って千切れるたび、境目から強酸へ金属を落としたような泡が噴き上がります。」
KP「食べているのでしょう。」
KP「ただし、空腹を満たすためだけではありません。肉を分解し、自らの中へ取り込み、残された環境へ耐えられる形へ変えようとしている。あるものは死骸を材料に身体を作り替え、あるものは失われる前の組織を保存し、別の場所へ持ち去ろうとしていました。」
KP「人間を助けようとしているわけではありません。」
KP「彼らもまた、この世界へ残された側でした。」
KP「地球が終わると知っていたのか、突然見捨てられたのかは分かりません。しかし、空気も熱も生態系も失われる中で、神話生物同士が生き残るために動き始めています。人間の死骸は弔う対象ではなく、進化に使える肉であり、保存すべき標本であり、他の生物へ渡す前に確保すべき資源でした。」
KP「黒いものが死骸を呑み込むと、その表面に人間の指に似た突起が浮かびます。しかし関節の数は合わず、何かを掴む前に溶けて沈みました。赤い膜の中では歯のような白い粒が並び、黒い塊へ噛み付くように動いた後、足りない部分を補うように数を増やします。」
KP「進化と呼ぶには無秩序で、保存と呼ぶには死骸を壊し過ぎていました。」
KP「それでも彼らは、次に残るための形を探していました。」
子供「あれ、何してるの?」
KP「子供には、地上で何が奪い合われているのか分かりません。高い場所から見えるのは、黒と赤が混ざらずに弾け、時折白い煙を上げていることだけです。死骸は液体の下へ隠れ、既に人間の形を確認出来なくなっていました。」
主人公「下を見なくていい。車へ戻るぞ。」
子供「喧嘩してるの?」
主人公「そう見えるだけだ。」
KP「主人公は子供の身体を抱き上げ、地上から顔を背けさせました。子供は眠気の残るまま主人公の肩へ頬を付け、それ以上は尋ねませんでした。」
KP「今から始まることは、既に決まっています。」
KP「人類が消えた後の土地を、見捨てられた神話生物が奪い合う。死骸を食い、保存し、自らの身体へ組み込み、終わった環境の中でも生きられるものへ変わっていく。」
KP「これは新しい世界の誕生ではありません。」
KP「滅びる世界の上で、置き去りにされたもの同士が、最後まで死なないために争い始めただけです。」
KP「夜が明けないまま、地上の争いは液体同士の反応だけでは済まなくなりました。」
KP「黒と赤は、人間の死骸を奪い合うために先行して放たれたものです。歩ける個体を送り込む前に、肉体を分解して運び、組織を保存し、現在の環境へ適応する材料を確保する。その役割だけを与えられた、臓器とも使役生物とも呼び難いものなのでしょう。」
KP「しかし、その液体すら既に地球の変化へ対応出来ていません。」
KP「黒い塊は酸素の失われた場所で表面を硬くし、内部へ取り込んだ肉を押し出します。赤い膜は急激な気圧の低下によって泡立ち、自分自身を弾き飛ばしながら広がっていました。死骸を集めるために作られたものが、回収した肉を保持することも、元の形を保つことも出来なくなっています。」
KP「それでも、彼らは止まりません。」
KP「深きものどもは、黒く濁った海面の下から沿岸へ集まり始めます。古のものは、残された設備と生体組織を回収するため、空気の薄い上空へ異様な翼を広げます。クトゥルフの落とし子は、月から落ちた液体を押し退けながら、海岸の死骸へ長い肢を伸ばします。」
KP「ショゴスは液体そのものへ混ざり、死骸を奪った相手の形まで取り込みます。グールは地下と高架の隙間から現れ、まだ凍り切っていない肉を抱えて暗所へ逃げ込みます。ミ=ゴは保存出来る脳や器官だけを選び、イス人は残された機械と記録の中から、移し替えに使えるものを探していました。」
KP「盲目のものは地中から伝わる振動を追い、クン=ヤン人は地下へ残された空間を守るため、地上から降りてくるものを排除し始めます。」
KP「どの種族も、人間を救うために集まったのではありません。」
KP「滅びる地球へ見捨てられた神話生物同士が、残された肉体、記憶、設備、土地を奪い合っています。生き延びるために自らを進化させる者。死骸を原形のまま保存しようとする者。別の肉体へ移るための器官だけを回収する者。相手が利用する前に、全てを破壊しようとする者。」
KP「彼らにとっても、これは予定されていた生存競争ではありません。」
KP「地球の変化は、神話生物の適応すら追い越していました。」
KP「最初の噴火が起きます。」
KP「遠くの山頂が光ったのではありません。地面そのものが大きく持ち上がり、湾岸に並ぶ工場の向こうで、赤い亀裂が一度に走りました。」
KP「次の瞬間、地下から溶岩が噴き上がります。」
KP「今まで地中へ押し留められていたものが、弱まり続ける重力と崩壊した地表の均衡によって、留まる場所を失ったのです。大気は霧散し、オゾン層まで解体され、地表を覆っていた圧力も失われています。地下から押し出された熱と岩石を、以前の地球と同じ形で受け止めるものは残っていませんでした。」
KP「溶岩は山の斜面を流れ下るのではなく、噴き上がった勢いのまま高く浮かびます。大きな塊は地面へ戻りますが、小さく千切れたものは緩慢な弧を描き、空中へ残りました。」
KP「赤熱した岩石が、炎を引かずに夜空を漂っています。」
PL「重力が弱いせいで、噴石が落ちてこないのか。」
KP「落ちてはいます。ただし、今までと同じ速さではありません。岩石はゆっくりと高度を失い、その間にも表面から熱を吐き出し続けます。落下地点を予測するには遅過ぎて、避けるには範囲が広過ぎました。」
KP「地上の黒い液体へ溶岩が触れます。」
KP「黒い塊は焼けるより先に膨張し、取り込んでいた死骸を一斉に吐き出しました。赤い膜は溶岩の周囲へ集まり、熱を奪おうとするようにまとわり付きます。しかし、冷やし切る前に内側から蒸気が弾け、膜ごと周囲へ飛散しました。」
KP「海では深きものどもとクトゥルフの落とし子が黒い液体の下から姿を現し、その上空では古のものとミ=ゴが交差します。工場の地下では、クン=ヤン人と地中から上がってきた盲目のものが衝突し、道路の死骸を巡ってグールとショゴスが互いの身体を食い破っています。」
KP「イス人だけは、その戦いから僅かに離れ、壊れかけた端末へ何かを入力していました。」
KP「主人公には、その全てを見分ける時間はありません。」
KP「噴火は一箇所では終わらず、地平線の別の場所でも赤い光が上がりました。地上を占めるために始まった争いへ、地球そのものの崩壊が割り込んできます。」
KP「誰が勝っても、その土地が残る保証はありません。」
KP「見捨てられた神話生物の戦争と、世界の破滅が、同時に始まりました。」
KP「争いを観察している余裕は、そこで失われました。」
KP「海面を覆っていた黒いものが大きく持ち上がります。波と呼べる形ではありません。海水、月から落ちた汚濁、神話生物が撒いた赤い液体、それらの中で千切れた肉や構造物までが一つの塊となり、湾岸へ押し寄せてきました。」
KP「海は引いてから返ってきたのではありません。沖合に溜まったものが、内側から押し出されるように次々と盛り上がっています。黒い表面が裂けるたび赤い液体が噴き、泡立った海水がその隙間へ入り込みました。どこまでが波で、どこからが生物なのか、主人公には判別出来ません。」
KP「最初の塊が岸壁へ衝突します。」
KP「工場の外壁が崩れ、配管がまとめて引き抜かれました。太いケーブルが海面へ落ち、黒いものへ触れた箇所から浮き沈みを繰り返します。続く荒波は前の波を追い越し、工場、倉庫、アウトレットの低い建物を区別せずに呑み込みました。」
PL「ここにはもう残れない。車へ戻る。」
KP「主人公は子供を抱え直し、連絡通路を走ります。子供は轟音で目を覚ましましたが、何が起きているのか確かめる前に主人公の肩へしがみ付きました。」
子供「何の音?」
主人公「海が上がってきた。車に乗るまで離すな。」
KP「高架へ戻った時には、下の道路が既に見えなくなっていました。黒と赤が混じった水面から、車両や看板の一部だけが突き出ています。主人公は子供を後部座席へ押し込み、シートベルトを締め、荷物を固定する暇もなく発進しました。」
KP「直後、高架の下から衝撃が響きます。」
KP「路面が持ち上がり、車体が大きく跳ねました。支柱へ何かが衝突するたび、舗装の継ぎ目から白い粉と破片が噴き上がります。高架全体が軋み、遠くでは道路が一度沈んでから、中央から折れるように崩れ落ちました。」
KP「海水だけの力ではありません。黒い塊が支柱へまとわり付き、その表面を赤い液体が弾きながら削っています。そこへ流された工場設備や車両が衝突し、高架を下から何度も砕いていました。」
PL「北へは戻らない。残っている南向きの道を走る。」
KP「主人公は和歌山方面へ進路を取ります。」
KP「背後では、先ほどまでいた湾岸長島の照明が一つずつ消えていきました。通信を拾った工場も、食料の残る建物も、高い場所へ続く通路も、汚濁の中へ沈んでいきます。」
KP「道路は各所でひび割れ、下り坂へ入るたび呼吸が苦しくなります。主人公は低い区間を速度で抜け、高架や山側へ上がる道路だけを選びました。行き止まりを見つければ引き返し、崩落が始まれば別の道へ移る。そのたびに、戻れる距離は短くなっていきます。」
KP「子供は後部座席から何度も振り返りました。」
子供「さっきのところへ戻るの?」
主人公「戻らない。もう道がない。」
子供「じゃあ、どこへ行くの?」
主人公「まだ地面が残っているところだ。」
KP「和歌山へ入る頃には、海岸線の形も変わっていました。黒い汚濁が湾へ入り込み、赤い液体と弾けながら陸地を削っています。遠方では噴火によって上がった溶岩が暗い空へ留まり、その一部がゆっくりと地上へ落ち続けていました。」
KP「主人公は山側へ進み、道路の先に残った建物を見つけます。」
KP「廃校でした。」
KP「校門は片側が外れ、校庭には雪と火山灰が薄く積もっています。校舎の窓は幾つか割れていましたが、建物自体は斜面の上へ残っています。体育館、校舎、給水設備。それらが使えるかは分かりません。それでも、周囲より高く、車を止められるだけの地面がありました。」
KP「主人公は校庭へ車を入れ、出来る限り校舎の近くへ寄せます。」
KP「エンジンを切った後も、北の方角から轟音が続いていました。」
KP「高い場所へ上がり、来た道を見下ろします。」
KP「道路は途中で途切れていました。遠くの高架は汚濁の中へ沈み、崩れた箇所から先は黒と赤に覆われています。別の道へ移ろうにも、低地には酸素が残っておらず、海から押し寄せたものが山の裾まで迫っていました。」
KP「これ以上、北へ戻ることは出来ません。」
KP「南へ続く土地も、遠くまで残っているようには見えません。空からは月の液体が落ち、地中からは溶岩が噴き、海は汚濁を抱えたまま陸へ上がっています。」
KP「主人公は廃校の屋上から、周囲を一望しました。」
KP「立って呼吸が出来る地面は、もうこの斜面と、校舎の周囲に残された僅かな範囲だけでした。」
KP「ここが今、主人公と子供の立てる最後の陸地です。」
KP「主人公は廃校の教室へ子供を連れていきました。窓から離れた場所へ机を寄せ、アウトレットから持ってきた毛布を重ねます。校舎は古く、外から響く轟音のたびに窓枠が震えましたが、車内よりは身体を伸ばして眠れました。」
KP「子供は弁当を少し食べ、水を飲むと、間もなく眠り始めました。疲れているはずなのに、最初は何度も目を開け、主人公がまだ教室にいることを確かめます。」
子供「どこにも行かない?」
主人公「今は行かない。寝ろ。」
KP「子供は毛布の端を握り、ようやく目を閉じました。」
KP「呼吸は浅いものの、一定でした。外では空気が失われ続け、海と汚濁が陸地を削り、北へ戻る道も既にありません。ここに残った酸素と食料がどれほど持つのか、主人公には計算する必要もないように思えました。」
KP「どうせ最後だろう。」
KP「主人公は、眠っている子供を見下ろしました。」
KP「目を覚ませば、また両親を探すでしょう。外へ出れば、地上で死骸を食い散らかすものを見るかもしれません。酸素が減れば、息を吸えないまま苦しみ、最後には意識を失う。それまでに何度泣き、何を尋ねられるのかも分かりません。」
KP「それなら、眠っているうちに終わらせた方がいい。」
KP「子供が何も知らないまま、苦しまずに済むうちに。」
KP「主人公は教室の入口を確認しました。誰もいません。廊下の向こうから聞こえるのは、建物が軋む音と、遠くで何かが崩れる音だけです。」
KP「子供の傍らへ膝を着きます。」
KP「手を伸ばしたものの、最初は毛布へ触れただけでした。首元まで掛かっていた端を少し下げると、細い喉が見えます。そこへ手を置けば、後は力を入れるだけです。」
KP「主人公は一度、手を引きました。」
KP「外へ出て、校舎を調べる理由を探しました。水が残っているかもしれない。屋上から別の道が見えるかもしれない。体育館に酸素ボンベがあるかもしれない。」
KP「けれど、それらを見つけても、世界が戻るわけではありません。」
KP「主人公は再び手を伸ばしました。」
KP「指先が子供の首へ触れます。」
KP「眠っている子供は僅かに顎を動かしましたが、目を覚ましませんでした。主人公の手はその動きに合わせて止まり、離れかけ、また戻ります。」
KP「何度も迷いました。」
KP「今なら苦しまない。今なら両親が後から来ると信じたまま終われる。目を覚ましてからでは、怖がらせる。抵抗されれば、余計に苦しませる。」
KP「そう考えるたびに手へ力を入れようとし、そのたびに指が動かなくなりました。」
KP「子供の呼吸が、掌へ小さく伝わっています。」
KP「主人公は長い間、その場を動けませんでした。」
KP「やがて、子供の首を掴みました。」
KP「主人公が子供の首を掴んでから、どれだけの時間が経ったのかは分かりません。」
KP「廃校の宿泊棟には、校外学習で使われていた布団と、古い毛布が残っていました。主人公は子供をその一つへ寝かせ、顔へ掛かった髪を払い、身体が冷えないよう毛布を重ねます。手の届く場所へ水を置き、自分は隣の床へ大の字になりました。」
KP「もう、明日に備える意味はありません。」
KP「それでも、子供を寝かしつけました。」
KP「世界が終わるという放送を聞いた後も、高速道路は続いていました。誰も走っていない車線を飛ばし、反応しないオービスを通り過ぎ、御在所では残された食事を味わった。刈谷では雪に固められていく死体を見下ろし、墓参り用の花と酒を道端へ残した。」
KP「その酒を飲もうとしていた子供を拾いました。」
KP「子供は弁当を次々に食べ、両親が後から来ると信じ、星のほとんどない夜空を綺麗だと言った後で、怖いと泣きました。主人公はラジオを点けられず、代わりに速度を落としました。」
KP「空は割れました。」
KP「月だと思っていたものは、遥か昔に死んだ生命の痕跡でした。その死骸から黒い液体が垂れ、地上へ落ち、海へ積もり、赤いものと人間の死骸を奪い合いました。」
KP「海底ケーブルには、世界各地から残された短い遺言が流れていました。謝罪、別れ、意味の失われた警告。その中に、前後も送り主も分からないまま、『バベルの塔』という言葉だけが残っていました。」
KP「やがて、深きものども、古のもの、クトゥルフの落とし子、ショゴス、グール、ミ=ゴ、イス人、盲目のもの、クン=ヤン人が、見捨てられた地球の上で生存を争い始めました。」
KP「死骸を食べ、保存し、身体へ組み込み、次の環境へ適応しようとした。けれど、その進化よりも先に大気は失われ、重力は弱まり、溶岩は地中へ留まれなくなりました。」
KP「噴火が起き、海が陸地へ上がり、黒と赤の汚濁が高架を砕きました。主人公は和歌山まで逃げ、北へ戻る道を失い、この廃校が二人の立てる最後の陸地だと知りました。」
KP「人類の終わった地上では、神話生物が次の生存を奪い合っています。」
KP「その上で、主人公と子供は眠りました。」
KP「何かを待つためではありません。」
KP「救助が来るからでも、朝になれば世界が戻るからでもありません。」
KP「子供を布団へ寝かせることも、水を置くことも、毛布を掛けることも、既に未来へ備える行為ではありませんでした。それでも主人公は、最後までそれをやめませんでした。」
KP「子供の呼吸は、薄くなった空気の中で静かに続いています。」
KP「主人公も瞼を閉じます。」
KP「遠くでは、海が道路を呑み込みました。」
KP「山は溶岩を空へ吐きました。」
KP「月だった死骸は、今も黒い液体を垂らしています。」
KP「世界の終わりには、鐘も、宣言も、最後の一人を見届ける者もありません。」
KP「ただ、もう誰にも使われない宿泊棟で、二人分の寝息だけが残りました。」
KP「世界が眠るより、ほんの少しだけ先に。」
KP「第一部終了です。」




