見えない部屋
二十年住み続けているこの家には、男が一度も気づかなかった空間があった。
年の瀬、男は自分の部屋を掃除していた。
家は相当に古く、剥げかかった壁は何度も塗り直されているものの、雨漏りの跡が凹凸となって目立っている。
使い古したラジオ、傾いた椅子、大量の段ボールやビニール袋が、部屋のいたるところに積み上げられていた。
いつからか、男は物を捨てられなくなっていた。
「いつか使うかもしれない」と思い、種類ごとに箱へ押し込んでいる。
ただ、生活ゴミは台所にきちんとまとめられ、毎週決まった時間に処分している。
だから部屋は散らかってはいるが、不潔というわけではなかった。
若い頃の自分なら、迷わず捨てて新しいものを買っていただろう。
男は苦笑いしながら掃除を続け、家具の埃を払った。
ふと、この家を買った時のことを思い出した。
不動産仲介業者が、どこか含みのある顔で言ったのだ。
「実はね、この家がこんなに安いのは、前の住人がここで失踪したからなんですよ」
「普通に考えれば、どこか外へ出たきり行方不明になったということでしょう?」
男は取り合わずに言った。
「もちろん、普通はそう考えます。ですが、その住人は80代の老人で、足が悪く、外出する時はいつも杖をついていました。だから近所の人たちには、彼が出かける時の音がはっきりと聞こえていたんです」
仲介業者はまず前置きをしてから、それから付け加えた。
「ある朝、近所の人がその老人が買い物から帰るのを見ました。それ以降、外に出る姿を誰も見ていない。あまりに長い間姿が見えないので、心配した隣人がドアを叩いたが返事がなく、警察を呼んだんです」
「それで?」
男も興味を惹かれ、先を促した。
「家の中は空っぽでした。どれだけ探しても見つからず、結局は失踪扱いになりました」
「結局、見つからずじまいか」
「ええ、今日に至るまで。家主も、あの老人はもう戻ってこないだろうと判断し、ここを安く手放すことにしたそうです」
もし老人が本当にこの家の中で消えたのだとしたら、一体どこへ行けるというのか。
ここはわずか20坪足らず、しかもアパートの4階だ。自分の知らない空間など存在するはずがない。
なぜ今さらそんな話を思い出したのか、男にも分からない。
疲れ切った頭が、誰にも邪魔されない場所を求めていたのかもしれない。
自嘲気味に笑い、男はクローゼットの整理を始めた。
木製のクローゼットには安物のスーツが並んでいるが、一つだけ、防塵カバーで丁寧に保護された吊るしがあった。
中に入っているのは、オーダーメイドのスーツだ。
この家に住む前に着ていた服だ。
当時の彼は大企業の部長で、高給を取り、美しい妻と元気な娘がいた。
ふとした思いつきで、男は体についた埃を払い、防塵袋からスーツを取り出して着替えてみた。
居間の姿見に映ったその姿は、あつらえたはずのスーツがどこかぶかぶかとしていた。
鏡の中の顔には、かつての自信に満ちた面影はなく、隠しきれない疲労だけが刻まれていた。
「ははっ……」
力ない失笑を漏らし、男はその場にへたり込んだ。
居間の床にはカーペットが敷かれている。これは数少ない、前の住人が残していった家具の一つだった。
「ん?」
床に触れた手に、違和感を覚えた。カーペットの下に何かがある。
めくってみると、薄灰色の床の上に、まるで子供がクレヨンで描いたような「扉」があった。
その筆跡は、たった今描かれたばかりのように鮮明だった。
「まさか」
信じられない思いでドアノブに触れる。
本来なら滑らかな床のはずなのに、硬く冷たい金属の感触が伝わる。
男はノブを握り、上へ引き上げた。
扉は開いた。
その下には、長い階段が続いている。闇に覆われ、果ては見えない。
あの老人は、ここに入って消えたのだろうか?
男はライターの火を灯し、用心深く階段に足を踏み入れた。
階段は石造りで、底冷えするような冷気が足首にまとわりつく。
闇は深く、火影が照らし出すのは、剥き出しのコンクリート壁だけだった。
一歩。
また一歩。
自分の足音だけが響く静寂の中で、それは不意に聞こえてきた。
「パパ!」
――心臓が、跳ねた。
それは二度と聞けるはずのない、愛する娘の呼ぶ声だった。
男は足を止め、信じられない思いで辺りを見回し、娘の姿を探した。
しかし、鋭いブレーキ音と衝撃音が、当時の悪夢を呼び覚ます。
男は娘の名前を叫びながら、下へと駆け下りた。
だがどれだけ探しても姿はない。
焦りのあまり足を踏み外し、男の体は階段に激しく叩きつけられた。
ライターが床に落ち、乾いた金属音を立てる。
「うっ……!」
激痛で声も出ない。汗まみれになった男は、階段に横たわったまま激しく喘いだ。
「パパが悪かった……一人で遊びに行かせるんじゃなかった……」
男は独り言を漏らし、顔を涙で濡らした。
ようやく痛みが引くと、男は這い上がり、手探りで床のライターを見つけ出した。
それをポケットに押し込み、ふらつく足取りでさらに下へと進む。
「あなた」
幼稚園で彼女がいつも歌っていた、あの童謡が聞こえてきた。
「また鍵を忘れちゃったの?」
台所で彼女が笑いながらこぼす、妻の優しい笑顔が見えたような気がした。
「もう、何度目? ほら、どうぞ」
歌声は次第にかすれ、低くなり、やがて空気に溶けて消えた。
男は再びライターを点した。小さな火影が周囲を照らし、両側の壁は滑らかに整えられていた。
階段の先は依然として底知れぬ闇だったが、空気は次第に暖かさを帯びてくる。
胸の中に確信めいた予感が湧き、男は歩を早めた。
料理のいい香りが鼻をくすぐり、聞き慣れた挨拶が耳に届く。
「どうしたの、汗びっしょりじゃない。先にお風呂に入ってきなさい」
「聞くまでもないさ。こいつ、またどこかで遊び回ってたんだろ。全くもう」
「……父さん……母さん!」
男の声が詰まった。何度願っても、もう二度と聞くことのできない声だった。
階段の先に、光が見えた。
一歩。
また一歩。
雑然とした居間には誰もいない。
めくられたカーペットの下からは、薄灰色の床が覗いている。
そこには、クレヨンで描かれた一枚の扉があった。
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