08 朴念仁も案外悪くないところがあるもの
特にディートリッヒがルカスを見る目が、少しだけ変わった気がする。冷たさの中に時折、暖かい色が混じるようになったのだ。
「フロラティア様、城下町に行きたいです!」
ある日の午後。ルカスがキラキラした目で私に訴えた。
「良いわね。私も久しぶりに城下町を散策したいと思っていたところ」
ルカスの願いを快諾。城下町は活気にあふれていた。市場には新鮮な野菜や果物が並び、職人の店からは賑やかな音が聞こえる。ルカスは目を輝かせ、あちこちの店を覗き込んだ。
「フロラティア様、見てください!このパン、すごく大きいです!」
「ええ、この辺りの名物。後で一つ買って帰りましょ」
ルカスとは本当の親子のように楽しく城下町を歩いた。その時、ふと視線を感じて振り返る。道の向こうにディートリッヒが立っていたのだ。
(えっ?なぜ?)
彼は気づくと一瞬だけ目を細めた。
「えっと、奇遇ね。こんなところで会うなんて。あなたも町の見回りにでも来たの?」
皮肉っぽく言うとディートリッヒは何も答えない。その視線はずっと私たち。特にルカスに注がれていた。ルカスは、ディートリッヒの姿に気づくと緊張した面持ちになる。
「父上……」
ディートリッヒはゆっくりと二人の方へ歩み寄ってきた。ルカスの頭にそっと手を置いた仕草に、思わず目を見開く。ディートリッヒが自らルカスに触れるのは、初めてのことだったし。
「……楽しんでいるか、ルカス」
彼の声はいつもよりずっと優しい。ルカスは驚いたように、ディートリッヒを見上げた。満面の笑みを浮かべた。
「はい! とっても楽しいです、父上!」
ルカスの笑顔を見て、ディートリッヒの顔に笑みが浮かんだ。それは以前よりも、少しだけ長く続いたように見えた。観察する。
「それは、よかった」
ディートリッヒはルカスの頭から手を離し、また静かに私たちの隣を歩き始めた。三人で城下町を散策。ディートリッヒは相変わらず口数は少ない。
ルカスが何かを指差して話しかけると、以前よりはきちんと目を見て頷くようになった。
毒舌を飛ばしてもほとんど反応しない。もう慣れてしまったかのように。慣れるものではないのだが?
帰り道。ルカスは買ったばかりの大きなパンを抱えて、嬉しそうに歌を口ずさんでいた。
そんなルカスの隣を歩きながら、ふとディートリッヒの横顔を見る。瞳は城下町の賑やかな光景を映し出す。その視線の先には、楽しそうに歩くルカスの姿があった。
城下町から戻り、ルカスが寝入った後、自室で再びグラスを傾けていた。
琥珀色の液体が今日一日の出来事を映すように揺れる。
ディートリッヒがルカスの頭に触れたあの瞬間が何度も心によみがえった。
彼のあの優しい眼差しは、きっとルカスにとって何よりの宝物になっただろう。
「朴念仁も、案外悪くないところがあるもの」
小さく呟いた。自分の言葉に笑みがこぼれる。以前ならばそんなことを思うはずもなかったのに。この辺境の地に来て、この冷たい夫と無邪気な義理の息子と過ごすうちに、心も少しずつ変化しているのかもしれない。グラスを口に運び、ゆっくりと喉を潤す。
じんわりと広がる温かさに体が解き放たれるのを感じた。窓の外はすでに漆黒の闇に包まれている。闇の向こうにはかすかに光を放つ月が浮かんでいた。
執務室から微かな光が漏れているのが見え。まだ、ディートリッヒは仕事をしているのだろうか彼はいつもそうだ。
領地のことに真面目で、どこまでも不器用な男。背負っているものは、思っているよりもずっと重いのかもしれない。
幼い頃に母を亡くし、孤独に耐え、若くして広大な領地を背負わされた。彼の心を覆う氷はきっと彼自身を守るための鎧。
グラスに残った酒を飲み干し、立ち上がった。静かに自室の扉を開け、執務室へと続く廊下を歩き出した。彼の孤独を少しでも分かち合えたら、なんて。
そんな感傷的な考えが頭をよぎったがすぐに打ち消した。ただ、あの朴念仁がもう少しだけ人間らしくなるように、手助けしてやっているだけなのだから。
執務室の扉の前で一度立ち止まった。小さく息を吸い込み、ノック。
「……入れ」
低い声が聞こえる。ゆっくりと扉を開けた。ディートリッヒは書類の山に顔を埋めている。彼が顔を上げた時、瞳は疲労の色を帯びていた。
「何の用だ。こんな夜更けに」
彼の声はいつも通りの冷たさだったがその中にほんのわずかな驚きが、混じっているように聞こえた。
「そんなに驚かないで。ただ、あなたも少しは休んだらどうかしらと思って。こんなに遅くまで仕事をしていては、そのうち倒れる」
毒舌にディートリッヒは何も言わない。ただじっと見つめているだけ。
「……別に、あなたに心配される筋合いはない」
言いながらも目は真っ直ぐに捉えていた。
「私も好きで心配しているわけじゃない。ルカスがあなたのような無愛想な父親を慕っているのを見ていると、さすがに不憫になってくるの」
彼の机の端にそっと小皿を置いた。ルカスが昼間、城下町で選んだ焼き菓子が乗っている。ディートリッヒの視線が焼き菓子に向けられた。表情は変わらないが瞳の奥に、かすかな感情の揺れが見える。
「……いらない」
拒絶の響きはなかった。
「そう。なら、ルカスがせっかくあなたのことを思って選んだのに残念ね。明日の朝、ルカスにそう伝えてあげる」
ディートリッヒは眉を寄せた。ため息をつくようにゆっくりと焼き菓子を手に取る。
「……感謝する」
口から出た言葉にじんわりと温かいものが広がった。息子を好きになり出しているのかも。それ以上何も言わず、静かに執務室を出る。
廊下を歩きながら小さく微笑んだ。
夜の帳が降りる中。あの氷の壁にまた一つ、小さな亀裂が入った音を聞いた気がした。
明け方まで降った雨が嘘のように澄み渡る青空が広がっている。城の庭にはしっとりとした空気が漂い、草木の緑が鮮やかだ。




