07 いつか勇者みたいに強くなりたいな
その日は朝から、しとしとと雨が降っていた。城の中はいつもより静かで、こんな日は決まってルカスが図書室に籠る。もちろん、二人で。
「フロラティア様、この絵本、読んでください!」
ルカスが持ってきたのは子供向けの冒険物語。勇者と魔王の話で、前世で知っていたものと少し似ている。
「またお約束の物語ね。でも、仕方がない。さあ、膝の上にいらっしゃい」
ルカスは嬉しそうに膝に座った。ゆっくりと物語を読み始める。読み進めるうちにルカスは真剣な顔で聞き入り、時には声を上げて笑う。
「それでそれで? 勇者はどうなったんですか?」
「そんなに焦らないで。物語というのは、ゆっくりと味わうものだから」
物語が終わるとルカスは満足そうにため息をついた。
「面白かったです! 僕も、いつか勇者みたいに強くなりたいな」
「そうねぇ。でも、勇者になるには、強さだけじゃなくて、たくさんの知恵と、優しい心が必要」
「優しい心……」
ルカスは言葉を繰り返すように呟き、窓の外の雨を見つめた。その時、図書室の扉がゆっくりと開く。そこに立っていたのは、ディートリッヒ。彼はいつもの執務着のままで、手には何も持っていない。
「珍しいお客さんね。こんな雨の日にわざわざ図書室まで何の用か。まさか、本の一冊でも読みたくなった?」
毒舌にディートリッヒは眉一つ動かさない。彼の視線は二人に、特にルカスに注がれていた。熱がある。
「……何をしている」
低い声で尋ねるディートリッヒに、ルカスは少し身を強張らせた。
「父上! フロラティア様が絵本を読んでくれてたんです!」
ルカスが興奮気味に説明すると、ディートリッヒは静かにこちらへ歩み寄ってきた。読んでいた絵本をちらりと見た。
「ふむ……勇者の物語か」
「ええ、この子もあなたみたいに堅物にならないように、優しい心を持ってほしいと思って」
ディートリッヒの顔がピクリと動いた。だが、何も言い返さない。
「父上も、座りませんか?」
ルカスが遠慮がちにディートリッヒに声をかけた。ディートリッヒは少し躊躇するような素振りを見せた後。少し離れた場所に、静かに腰を下ろした。
「素直に座るなんて、明日は槍でも降るかも。あなたの椅子はそちら」
相変わらず口が悪かったがディートリッヒは気にすることなくただ、ルカスが持っていた絵本をじっと見つめている。ルカスは、そんなディートリッヒに今日の物語のあらすじを話し始めた。
身振り手振りを交え、一生懸命に説明するルカスの姿にディートリッヒは黙って耳を傾けている。時折、ルカスが言葉に詰まると彼は微かに眉をひそめ、先を促すようにルカスを見た。
「それでね、勇者は魔王の城に乗り込んで……」
ルカスの話が終わると図書室に再び静寂が訪れた。ディートリッヒは何も言わない。
「……どう? 感想くらい、あるでしょ?」
口火を切るとディートリッヒはゆっくりとルカスに視線を向けた。
「……勇者は、強かったか?」
ディートリッヒの問いにルカスは目を輝かせた。
「はい! とっても強かったです! でも、一人じゃなくて、仲間がいたからもっと強かったんだってフロラティア様が言ってました!」
ルカスは言葉を引用し、得意げに胸を張る。ディートリッヒはその言葉にほんのわずかだけ口角を上げた。それはピクニックの時よりもさらに小さくどこか寂しげな笑み。
「……そうか。仲間、か」
過去が重なった。一人で戦ってきた彼にとって仲間という存在は、どれほど遠く尊いものなのだろうか。雨音だけが響く図書室でディートリッヒとルカスを見つめた。
雨は夕方には止んだ。濡れた庭の草木が、きらきらと光る。
「フロラティア様、見てください!虹が出てます!」
ルカスの声に窓の外を見た。空には七色の大きな弧が架かっている。
「本当に。こんなに大きな虹は久しぶり」
美しい光景をしばらく眺めていた。
夕食後。珍しく、ディートリッヒが食卓に留まっていた。ルカスが今日の絵本の続きを話そうとすると静かに耳を傾ける。
「それでね、勇者様は魔王を倒すために、新しい魔法の杖を探しに旅に出るんです!」
ルカスが興奮気味に話す横で皿に焼き菓子を乗せた。
「まあなたも少しはまともな反応をしてあげたらどう? 無愛想なままだと、そのうちルカスに嫌われるかもしれないわ」
ディートリッヒはちらりと見た。
その視線は以前より少しだけ柔らかくなった気がする。多分ね。
翌朝、ルカスと城の周りを散歩していた。雨上がりの空気は澄んでいて、鳥のさえずりが心地良い。
「フロラティア様、あっちに行きましょう!」
ルカスが指差すのは少し開けた場所だった。そこへ行くとディートリッヒが一人、剣の素振りをしている。動きは無駄がなく、流れるようだった。
「父上……すごい」
ルカスが小さな声で呟いた。ディートリッヒはこちらの存在に気づくと、素振りを止める表情は、やはり無表情。
「ご苦労なこと。雨上がりなのに、汗だくじゃない。あなた、いつまでそんなふうに自分を追い詰めるの?」
いつものように毒舌を吐く。ディートリッヒは反応せず、ルカスを見た。
「ルカス、何か用か?」
彼の声は以前より少しだけ穏やかだ。
「いえ、あの、父上、剣の練習、すごいですね!」
ルカスが目を輝かせるとディートリッヒの目がほんのわずかに細められた。微かな笑みの始まりのようにも見える。
「そうか」
ディートリッヒはそれだけ言うと再び剣を構えた。ルカスはじっとディートリッヒの背中を見つめている。瞳には尊敬と少しの寂しさが混じっていた。
ルカスの手を取った。
「さあ、ルカス。あまり見つめすぎるとあの朴念仁は照れてしまうかもしれない」
ルカスは小さく笑う。しばらくの間、ディートリッヒの剣の練習を眺めていた。彼の背中は相変わらず大きく、どこか孤独に見える。孤独の中に少しずつ、ルカスという存在が入り込み始めているのだろう。
ディートリッヒの剣の素振りを見てから、数日。城は相変わらず静かだったけれど、以前とは違う空気が流れていた。




