04 ありがとう、なんて言うのは本当に珍しいこと
彼が感情を表に出したのは初めてのこと。ルカスも驚いたようにディートリッヒを見つめている。
「父上……!」
ルカスは嬉しさのあまり、ディートリッヒに駆け寄ろうとした。ディートリッヒはサッと体を逸らし、再び書類に目を落としてしまう。
「そろそろ、執務に戻る。ルカス、下がっていいぞ」
いつもの冷たい声に戻ってしまったディートリッヒ。ルカスは少しだけ肩を落とした。喜びの余韻が残っている。
「さあ、ルカス。この朴念仁はもう少し時間をかけないと理解できないらしいって。私たちは部屋に戻りましょう」
ルカスを連れ、執務室を出た。廊下に出るとルカスは手の中にある、もう一つの紙の花を見つめる。それはルカスがくれた小さな白い花。
「フロラティア様、父上、少しは喜んでくれたかな?」
ルカスが不安そうに尋ねた。
「ええ、きっと。あの男がありがとう、なんて言うのは本当に珍しいこと。あなたは、あの氷のような男の心に針みたいな小さな穴を開けたの」
ルカスの頭を優しく撫でた。ディートリッヒの態度に変化が見られたことは小さな驚きだ。
ディートリッヒがルカスの折った花を受け取ってから数日。相変わらず彼の態度は冷たいままだったが、私の中には確かに変化の兆しを感じていた。ほんの少しだけ、彼の視線が私たちに向けられる頻度が増えたような気がする。
もちろん、気のせいかもしれない。単なる思い込みである可能性も大いにある。あの朴念仁が急に変わるわけがない。そんなある晴れた日、ルカスと庭で過ごしていた。
ルカスは最近、教えている薬草学に興味津々で。色々な植物について質問してくる。
「フロラティア様、この葉っぱは食べられるんですか?」
ルカスが指差すのは庭の隅に生えているハーブの一種。
「ええ、これはサラダに混ぜると美味しい。でも、野草の中には毒のあるものもたくさんあるから、よく分からないものは絶対に口にしちゃダメ」
ルカスは真剣な顔で頷いた。
「ピクニック、行きたいな……いいなぁ」
ルカスがぽつりと呟いた。その言葉に、ハッとなる。前世ではよく友達とピクニックに行ったものだ。青空の下で食べるお弁当は格別の味。この世界に来てから、そんなことをすっかり忘れていた。
「ピクニック? 良いわね。どこか景色が良くて、安全な場所があるかしら」
ルカスは目を輝かせた。
「城の裏手にある丘は、お花がたくさん咲いていて、とっても綺麗ですよ!」
ルカスの提案に胸を躍らせた。よし、決まりだ。夕食のときにディートリッヒに切り出した。
「明日、ルカスと城の裏手にある丘にピクニックに行く。あなたもどう?」
もちろん、彼は断るだろう。そう思っていた。
「……何?」
ディートリッヒは食事の手を止め、こちらを見た。その目はいつものように冷たい。もはや常備。
「だから、ピクニック。ぴ、く、にっ、く。あなた、子どもを連れて外で食事をしたことないでしょ? 良い機会だと思って提案したわ。もちろん、断っても結構。元々、あなたに期待などしていないのだから」
わざと挑発するように言った。するとディートリッヒは黙ってしまう。何を考えているのか、全く読めない。
「父上も、一緒に行きませんか?」
ルカスが不安そうにディートリッヒを見上げた。瞳には、期待と、諦めが入り混じる。しばらくの沈黙の後、ディートリッヒは静かに。
「……構わない」
「えっ!?」
「え」
ルカスと同時に声を上げた。まさか、彼が承諾するとは思わなかったのだ。ディートリッヒは表情一つ変えず、食事を再開。
「本当に? 父上が、一緒に行ってくれるの!?」
ルカスは嬉しそうにディートリッヒに駆け寄ろうとしたが、ルカスを止めた。あの朴念仁のことだ。あまりはしゃぐと機嫌を損ねるかもしれない。
「フン、珍しいこともあるもの。まあ、あなたがいると、何かと厄介なことになるかもしれないけれど、そこは我慢してあげる」
毒舌にもディートリッヒは反応しなかった。彼はただ、静かに食事を続ける。
翌日。ピクニックの準備を整えた。メイドたちが用意してくれたバスケットには、サンドイッチや焼き菓子、フルーツなどが詰められている。ルカスは興奮した様子で周りを飛び跳ねていた。
「フロラティア様、早く行きましょう!」
「落ち着きなさい。あなただけが先走っても仕方がないでしょ」
ディートリッヒの方を振り返った。彼はすでに支度を済ませ、城の玄関で待っていたらしい。いつものように、全く感情の見えない顔。
三人は城の裏手にある丘へと向かった。丘はルカスの言った通り、色とりどりの花が咲き乱れ、風に揺れている。鳥のさえずりが聞こえ。遠くには領地ののどかな風景が広がっている。
「うわあ、綺麗!」
目を輝かせ、花畑の中に駆け出していった。ディートリッヒはそんなルカスを無言で見ている。視線がほんの少しだけ優しく見えたのは錯覚だろうか。
一番景色の良い場所にシートを広げた。ルカスは嬉しそうにサンドイッチを頬張り、メイドたちの作ってくれた美味しい料理を堪能。ディートリッヒは相変わらず黙って食事をしている。
「ねえ、あなたも何か話したらどう? こんなに天気が良いのに置物みたい」
ディートリッヒはちらりと見た。
「……必要ない」
「必要ない? あなた本当に人生を楽しんでいない。そんなだから、ルカスにまで心配されるの」
ディートリッヒの眉がわずかに動いた。ルカスは花畑で遊んだり、虫を追いかけたりして、心から楽しんでいるようだ。見ていると心も温かくなる。
しばらくして、ルカスが花束を持って戻ってきた。色々な種類の花が、不器用ながらも綺麗にまとめられている。
「フロラティア様、父上! これ、どうぞ!」
私とディートリッヒにそれぞれ花束を差し出した。




