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同、時刻。
「姫さま、お足元に気をつけて」
──ルドに連れ出されたリシアは、暗い使用人通路を進んでいた。今は使われていないというその通路は、人ひとりがやっと通れるかというほどの狭さで、しかも灯りはなく、どこまでも続くかのような深淵に、リシアの息は詰まりそうになっていた。
前を行くルドが、励ますように言う。
「もうすぐ出口です。ご辛抱ください」
「……ええ」
カビの匂いが漂う古びた通路を、リシアは、ルドの気配を縋るようにして進んだ。壁についた手のひらから冷気が伝わり、芯から冷えていくようだった。
『逃げましょう。姫さま』
片目を腫らしたルドからそう言われたのは、つい先刻のこと。
──カイドとの仲違いの末、私室へ戻らされたリシアは、「夕食はこちらに運ばせます」と言い置いた彼が去ったあと、ひとり、これからのことを考えていた。
レイルの説得はどんな風に進めていけばいいのだろう。
ともかく会って話を、と思い至ったのも束の間。それからすぐ、護衛交代です、と、ミリーとカスパルが部屋を訪れた。──ふたりはカイドから、リシアが内情を知ってしまったことを聞いたのだろう。いつになく警戒した視線を向けられた。
──しかし。リシアがほんとうに驚かされたのは、そこから先のことだった。
『姫さま』
いつから潜んでいたのか。窓際。ビロードの花模様の刺繍がうつくしいカーテンの影から、ルドが躍り出たのだ。
『……ルド⁉︎ よかった! 無事だったのね』
安堵し、リシアが駆け寄ろうとしたその瞬間。
『動くな』
カスパルの銃弾が、感情も躊躇もなく間に割って入った。リシアは、目の前を過ぎた鉄の弾に息を止めた。それは威嚇であり命令。硬直したリシアが錆びたからくり人形のような動きでカスパルを見やれば、その銃口は既に、次の獲物をルドと定めていた。
『っ! 危ない!』
──驚愕は、さらに上回る。
リシアがルドの前に飛び出したと同時、ミリーがカスパルを蹴り飛ばしたのだ。
『……っ』
ミリーの膝が、目にも止まらぬ速さ、重量でカスパルの脇腹を穿つ。みしり。鈍い、骨の軋む音がしてカスパルが体勢をくずし、銃剣を取りこぼす──それは、毛長絨毯の上にどっと落ちた。そのそば、両膝をついたカスパルが呻く間もなく、ミリーは彼の背中に膝をつけるように押さえ込み、利き腕を捻るように掴んで動きを封じた。その間、わずか数秒。
どうして。
なぜ。
目の前で起こっている事態が理解できず、かたまるリシアの手をルドが引いた。
『姫さまこちらへ。お早く』
『でも』
『ミリーさんは一時的におれたちの味方です。──今しかありません。城を出ましょう』
そこでやっとリシアは、ルドが怪我だらけだということに気が付いた。右の瞼は腫れ、瞳は満足に開いておらず、唇の片端には渇いた血がかたまっていた。ひどい暴力を受けたのだ。
『誰がこんなことを』
とたん涙ぐんだリシアを、ルドは焦れたように宥めた。
『おれは平気です。詳しい話はあとで』
今は兎角時間がないからと、ルドはカーテンの隙間にリシアを押し込んだ。そこにあるのは子供の背丈ほどしかない小さな扉で、リシアは急かされるまま扉をくぐり、部屋を飛び出した。
そうして縦に並び歩くこと数分。
ルドは、今朝から今までのことを端的に話してくれた。
「──ミリーさんに、手紙のことを問いただされました。最初はごまかそうとしたんですが、出来なくて」
「じゃあその怪我は、ミリーさんが……?」
ミリーに押さえつけられていたカスパルを思い出して、リシアは尋ねる。カスパルは無事だろうか。暗闇の中、ルドが頷く。
「すべてを打ち明けたら、姫さまを逃す手助けをしてくれると、計画を持ちかけられました」
この裏通路を教えてくれたのもミリーなのだという。
「でも。どうしてミリーさんが」
「わかりません。でも、こんな機会は二度とないと思いました」
だからミリーと手を組んだと、ルドは言った。
そうして何度か曲がり、降りを繰り返す途中。隠していたらしい真っ黒なローブをリシアは被らされた。




