第四話
月曜日は朝から晴れていて、絶好のスポーツ大会日和だった。
女子のミニサッカーは、3学年で合計30チーム。最初は8つのブロックごとに闘い、各ブロックの1位が、上位トーナメント戦に進出できる。
ブロック戦が2試合終わった時点で、わたしたち2年1組チームBは、1勝1分け。最後の対戦相手は3年生のチームだった。向こうは2勝0敗。わたしたちがリーグを勝ち抜くには、絶対に勝つしかない。
「去年優勝した梶先輩がいるチームだよ~」
三木さんの言葉に、みんなが震えあがる。今のところ、わたしは特に目立ったミスも、目立った貢献もしていなかった。でもこの試合は、それじゃ駄目だ。
「みんな頑張ろうね!」
円陣を組んで気合を入れたあと、わたしはジャージの袖を少しまくった。頼りない手首が露わになった。右手で左手首をそっと握る。
コートの外を見ると、試合がないクラスメイトたちが応援に集まって来ていた。男子のグループのなかには、鍵谷君と池部君もいる。鍵谷君と目があった。反射的にそらしてしまう前に、小さく頷いた。鍵谷君はちょっと驚いた顔をしてから、うっすらと笑ってくれた。
深呼吸する。暴れそうな心臓を押さえて、自分に言い聞かせる。だいじょうぶ、だいじょうぶ。
見られることは怖い。とても怖い。
だけど、見られることが勇気に繋がる相手もいるんだ。
「2年1組、ガンバレー!!」
「ゴール前、もっと下がって!」
「三木りんナイスパス!!」
怒号や悲鳴のような声が、コート上を交差し合う。
前半を0-0で折り返し、後半残り5分になっても、勝負はついていなかった。じりじりと時間と汗ばかりが流れる。パスを回そうとしても、強固なディフェンスに阻まれてしまう。根比べと化したゲームは、確実に体力と集中力を奪いつつあった。
センターサークル付近で、ボールの獲り合いが起きた。少し下がったところで推移を見守っていたが、相手チームに奪われてしまった。味方ゴールへ戻ろうと、走り出す。だが、どよめきが起きた。相手チームのパスを、三木さんがカットして、つよく蹴り返したのだ。
ボールは加速度を増しながら、大きく大きく空高く飛んだ。わたしのいる場所の、さらに先のほうへ。つまり、相手のゴール近くへ――。
「高宮、走れ!!」
敵味方入り乱れる喧騒のなかで、鍵谷君の声は、どんなボールよりもまっすぐな弾道で耳の奥まで飛び込んでできた。
わたしは走る。背筋を伸ばして、胸を張って、まっすぐ前を見て。ゴール前を守っていた敵チームの選手もダッシュしている。向こうのほうが、距離的には近い。間に合うだろうか。しんどくて辛くて気持ち悪い。でも絶対に足を止めたくない。
ボールは目の前で、サイドラインの真上へ飛んでいく。キャパシティ以上に足を動かしたせいで、今にも足がもつれて倒れ込みそうだった。間に合わない、と思った。足を伸ばしても、わずかに届かない距離。さすがに、どうしようもない……。
でも、それじゃ、わたしはいつまでもボールと対峙できない。
次の瞬間、わたしの身体は思いきり宙を飛んでいた。
髪が舞い上がる。世界が横倒しになる。空が青かった。ボールは文字通り、目の前にあった。
ドンッという激しい衝撃が脳天を直撃した。わたしの額で弾かれたボールが、ツイストを効かせながら、コートの内側へ戻っていく。
それだけ確認したら、もうわたしの身体は地面に投げ出されていた。受け身を取るどころじゃなくて、乱暴な姿勢でどしんと落ちた。痛みよりも衝撃のほうが強かった。額があまりにも熱くて、油田みたいに血が噴き出るんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。いろんな感覚がごちゃ混ぜになるなかで、視覚だけが生きていた。ボールの行方を目で追いかける。ボールは思ったよりも遠くに飛んでいた。手前に出てきていたゴールキーパーが戻るより先に、河野さんがゴールにシュートを打ち込んだ。ネットが大きく揺れた。
歓声が巻き起こる。味方のみんなが、こっちに向かって走ってくる。
全身がものすごく痛いのに、わたしは嬉しくて仕方なかった。
2年1組チームBは1-0で逃げ切って、決勝ブロックへの進出を決めた。
ただし、次の試合は3-0であっけなく完敗してしまったので、最終的にベスト8という結果でスポーツ大会は幕を閉じた。
「高宮さんの顔面アタック、マジで凄かった。感動したよ」
「めっちゃ見たかったー! ベスト8おめでとう」
「頭突きでロングパス出したんだって? 普段おとなしいのに、意外と高宮すげーのな」
大会が終わって制服に着替えた後も、いろんな人が入れ替わり立ち替わり声をかけてきた。今日1日で、4月から昨日までの会話量を軽く超えた気がする。そのたびにわたしは挙動不審になりながら、「とんでもないです」「たまたまです」などと対応していた。
「たまたまじゃないよー。高宮さんが突進する姿、サイコーだった」
帰り支度を終えた三木さんと女の子数人が駆け寄ってきた。
「この後、有志で集まって打ち上げやるんだ。高宮さんも行こうよ」
「えっ!? わたしですか」
「そうだよ。MVPのひとりだもん! 他の子も高宮さん来てほしいって言ってるよ。あ、池部ー! 男子は何人来れそう?」
三木さんがわたしの後方に向かって、元気に叫ぶ。
「とりあえず8人は行けるって。あ、高宮も来んの?」
固まった身体を、なんとか頭部だけ動かした。おそるおそる見上げた先に、池部君が立っていた。まともに顔を見たのは、およそ6年ぶりだった。
少年っぽさを残した顔立ちは、小学生の頃からずっと変わっていない。
「高宮と喋んの、めっちゃ久しぶりだから楽しみだわー」
池部君は屈託なく笑った。
その言葉に、たぶん嘘はなかった。爪先から力が抜けていくようだった。とりあえず何度も頷いた。むしろ、それしかできなかった。
「じゃあ決まりね。行く人ー、移動するよ!」
三木さんに腕を引っ張られて、教室を出る。左足首に痛みが走った。思わず顔をしかめたが、気づかれた様子はない。
「とりあえず一次会は駅裏のファミレスね。ほんとはカフェがよかったんだけど、男子がいるからさー」
「女ってほんとカフェ好きだよな。量足りなくね?」
「あんたたちが食べすぎなんだよ! カフェは今度女子会で行こっ」
クラブハウス横の通学路を並んで歩く。誰かと一緒に下校するなんて、ずっと忘れていた経験だった。男の子も女の子もくだけて喋っている。熱に浮かされたような気分だった。自分がそこにいることが現実じゃないみたいで、口元に笑みを作って、ふらふらついて行くので精いっぱいだった。
道に段差や凹凸があると、左足首の痛みがズキズキと響いた。でも左足をかばっていると歩くのが遅れてしまう。わたしは奥歯を噛みしめて、打ち上げが終わるまでは我慢しようと決める。
ふいに、シャツの肘の部分、余っている生地を掴まれた。
「高宮」
その声はいつも後ろから聞こえる。
わたしは何故だか、それだけで胸がいっぱいになる。
「足、痛めてるだろ」
鍵谷君だった。彼はわたしの足もとに視線を動かす。気づかれていたのだ。
「えー、高宮さん、大丈夫」
「もしかして転んだときに痛めたんじゃない?」
女の子たちが心配そうな声を出した。
全然平気です、と言おうとしたけど、額の脂汗を鍵谷君は見逃してくれなかった。
「手当していくわ。遅れて行く」
幹事の三木さんに告げると、有無を言わさずわたしの荷物を取った。そして、右腕を差し出した。
「掴まれる?」
掴まれませんなどと言えるわけなかった。そっと手を伸ばす。恥ずかしくてうつむいた。男の子の腕が、こんなに頑丈なんてわたしは知らない。
「保健室もう閉まってるし、ひとまず応急処置な」
連れて行かれたサッカー部のクラブハウスは、もちろんはじめて入る場所だった。しんと人気がなくて、褪せたような、独特の匂いがした。背の高いロッカーにシューズがぎゅっと詰め込まれ、はみ出しそうになっている。奥には冷蔵庫があった。備品の棚の引き出しには、「プロテイン」とシールが貼ってある。
「そこ座って」
「あ、はい」
きょろきょろと室内を見回していたわたしは、慌てて指差されたパイプ椅子に座った。鍵谷君は救急箱を取り出してくると、迷うことなくわたしの足もとにひざまずいた。
「だ、駄目、自分でやります!!」
立ち上がりかけたら、足首に激痛が走った。声にならないうめきを洩らすわたしを、呆れた顔で鍵谷君がみつめる。
「部活柄、足の怪我には慣れてるから。いいから座って」
もう怪我どころじゃなくて、緊張して内股が震えた。こんなにドキドキしてたら、身体に悪影響を与えるんじゃないかというくらい。
「靴下脱いで」
「ええっ!?」
わたしの悲鳴はもはや裏返っていた。
「じゃなきゃ、処置できないじゃん」
「臭いです。汚いです。無理です」
「はやく」
必死に訴えてるつもりなのに、鍵谷君の前だと、自分でも子どもが駄々をこねているみたいに聞こえてしまう。わたしは観念して、そっと靴下をかかとのところまでずらした。絆創膏がステッカーみたいに貼りついた足が剥き出しになる。見ていられなくて、目をそむけた。
「まあ、捻挫だろうな」
鍵谷君は冷蔵庫から氷嚢を取り出してくると、「いくよ」と言って、患部に当てた。
キンとくる冷たさに声が出そうになったけど、だんだんと麻痺してくる。
「こんなに腫れてるのに、よく我慢してたね」
「気のせいかと思ったし、大したことなかったら……恥ずかしいなって」
最後まで言うのが恥ずかしくて、次第に声が小さくなった。
「怪我っていうのは、すぐ処置しないと駄目なんだよ」
鍵谷君が下からわたしを見上げる。気づけば、わたしと彼は昨日と反対の姿勢になっていた。
「放っとくと、どんどん治りにくくなるから」
それはきっと、わたしの性格、人生そのものだった。ずっと治療を放棄して生きてきていた。
鍵谷君は氷嚢を除けて、包帯を手に取る。足首を見ていた視線がゆっくりとあがっていき、ついにわたしの目に辿りついた。
「……さわってもいい?」
魔法にかかったみたいに、わたしは頷いた。
ゆっくりと鍵谷君の手がわたしの足首に触れる。調度品を扱うように指を動かす。丁寧な手つきで包帯を巻いていく。
わたしは眉間にぎゅっと皺を寄せて、息をとめて、彼の姿を凝視していた。眉の横に小さなほくろがあることや、意外とひげが濃いことをはじめて知った。
静かだった。外の通学路を歩く誰かの声だけが、ときどき聞こえていた。
「できた」
「あ……ありがとうございます」
我に返って、こっそり息を吐いた。顔をあげた鍵谷君が、膝の絆創膏に目を止める。
「こないだの怪我? 貼りっぱなし?」
わたしは頷く。
「こっちも貼り替えようか」
「無理です!」
背筋が凍った。取り乱して否定する。
「血、ほんとうに汚いので! たぶん傷口真っ黒です。恥ずかしいです」
「だって、擦り傷でしょ。もう治ってるかもしれないし、ずっと絆創膏貼っとくほうがよくないと思うけど」
「でも……」
目をそらそうとした。けど、できなかった。
片膝をついて、わたしを見上げる鍵谷君の目はやさしかった。
わたしは震える手を膝に伸ばす。絆創膏の端を指先でつまんで、おそるおそる引っ張り上げる。皮膚色のテープがぴりぴりと離れていく。
あとわずかで、傷口が露わになる。黒くて粘っこい恐怖が、それを阻止しようと、心臓に染みを広げていた。そう、わたしの重油。
力を入れて、一気に引き剥がした。
「ほら」
鍵谷君の声がした。
「大丈夫だよ」
傷はほとんどふさがっていた。かさぶたの覆っていない部分からは、ピンクがかった薄い皮膚が覗いていた。
こみあげてくるものがこぼれないように、力を入れて唇を結んだけど無駄だった。溢れ出る透明な液体が睫毛を濡らして、次々と頬を伝った。濁ってもいなければ、油臭くもなかった。ちゃんとしょっぱかった。
下校時刻を告げるチャイムの音が遠くから聞こえた。
わたしと鍵谷君は黙ったまま、鳴り終わるまでずっと聞いていた。
お読みいただきありがとうございます。
友人たちと文学フリマに出展するにあたり、自分たちがいちばん小説に書きたいことで、なおかつ他の人も読みたくなるようなテーマを設定しよう、という話になりました。
そこで出てきたのが「自意識過剰少女」というキーワードです。
ぶっちゃけ、自分の人生を振り返ると、8歳くらいからずっと自意識過剰でした! もちろん今も! 良い悪い関係なく、いろんな行動に自意識過剰が影響していると思います。我ながら深い業です。
ただ今回は、青春モノに設定することで、恥ずかしくも甘酸っぱい、通過儀礼的なお話にしたいなと思いました。
裏テーマが「君に届け」だったので・・・(読んだことないんですけど)
あえて王道の青春ストーリーになるよう、胸キュン要素をぶちこみまくってみました。結果、鍵谷は女子の妄想でしょ、という感じのヒーローになってしまいましたが、ある程度は主人公補正が入っているということでご了承いただければ幸いです。
「重油少女」の原型自体は少し前からあって、タイトルの響きを気に入って思いつきました。
ヒロインの造型は、昔、花とゆめに掲載されていた望月花梨の『笑えない理由』『スイッチ』あたりをなんとなく意識しています。
お読みいただきありがとうございました。
ご意見・ご感想などお待ちしております。




