母の愛
根源が、ルナの身体を蝕んでいく。
「この女の身体を媒体にして――完全復活する」
その瞬間。
意識が、精神世界へと沈んだ。
そこには、一つの部屋があった。
静かな部屋だった。
床は水面のように透き通り、天井の光を淡く反射している。
その中央で、ルナが静かに眠っていた。
身体の主導権を奪われ、意識だけが奥底へ沈められているのだろう。
だが、この部屋には、もう一つ異質なものがあった。
床の向こう側。
鏡写しのように、まったく同じ部屋が存在している。
家具も、壁も、眠るルナの姿すら同じ。
だが、決定的に違うものがあった。
向こう側のルナは、泣いていた。
膝を抱え、涙を零し続けている。
その周囲を、柔らかな聖光が包み込んでいた。
守るようにも閉じ込めるようにも見える。
苦しみの記憶に飲み込まれ、心が壊れてしまわぬように。
「なるほど……」
根源は笑う。
「記憶を分離したのか」
戦争の記憶、同胞の断末魔。
そのあまりにも重すぎる記憶を、
誰かがもう一人のルナへ切り離した。
だがそれは、苦しみを押しつけるためではない。
壊れてしまいそうな心を、守るためだった。
柔らかな聖光は、記憶を封じる檻であると同時に――
泣き続けるもう一人のルナの精神が、
砕け散ってしまわないよう包み込む揺り籠でもあった。
だから、表のルナは穏やかでいられた。
そして同時に、封じられた側のルナもまた、
完全には壊れずに済んでいたのだ。
だが完全に切り離せたわけではない。
封印の綻びから、苦しみだけが流れ込んでいた。
記憶が揺らぐたび、ルナが頭を押さえていた理由。
それを理解した。
「なら簡単だ」
根源は嗤う。
「封印を壊し、一つに戻せばいい」
穢れが広がる。
聖光の結界へ触れた瞬間、鏡面に亀裂が走った。
パリン――と、世界が砕ける。
泣いていたルナが、こちら側へ崩れ落ちる。
二つに分かたれていた心が、ゆっくりと溶け合っていく。
「それでいい。憎しみを思い出せ。
怨嗟となって、俺の力になれ」
完全に一つへ戻った瞬間、取り込もうと手を伸ばした。
これで終わりだ。
完全復活は目前。
――その時だった。
光の鎖が、突如空間を駆け抜けた。
「なっ……!?」
両腕、両足、首。
それぞれに巻き付き一瞬で拘束される。
そして、溢れた聖光の中から、一人の女性が姿を現した。
長い金髪。
気高く、どこまでも優しい瞳。
「そこまでです」
根源の顔が凍りつく。
「……エリス・ローティア女王陛下」
震える声だった。
エルフ最後の女王。
既に死んだはずの存在。
「どうしてあなたがここに……」
「この子が、私の娘だからです」
静かな声だった。
だが、根源の目が大きく見開かれる。
「娘……?
聞いたことがない……!」
エリスは目を伏せた。
「あの子は、生まれつき聖魔法を使えませんでした」
難産だった。
母子ともに命を落としかねないほどの。
その時、ルナは無意識に自らの聖魔力を使い果たした。
生きるため、そして母を守るため。
その結果、聖魔法を扱えない身体になった。
「王族として生きれば、必ず苦しむ。
だから隠しました」
流産したと偽り、一部の者以外には存在すら秘匿した。
何にも縛られず、自由に生きられるように。
「そして戦争が始まった」
城が陥落する直前、エリスはルナを封印した。
命を守るため。
そして、未来を生きてほしかったから。
記憶も封印した。
「……だが、聖魔法を使っていた!」
根源が叫ぶ。
何度も身体を消し飛ばされた。
あれは聖魔法そのものだった。
「あれは私の力です。
私の精神の一部と聖魔力を、この子に託しました」
危機が訪れた時、無意識に発動するように。
娘を守れるように。
封印が解かれた後も、生き延びられるように。
根源の表情が歪む。
「……ふざけるな」
憎悪が滲む。
「あんたは未来を託せたからいい!
でも僕たちはどうなる!
一族の願いは!?」
怒声が精神世界を震わせた。
水鏡の床が、大きく波打つ。
エリスは、悲しそうに目を細める。
「あなた達の苦しみを、私は忘れません。
ですが、憎しみだけでは未来には辿り着けないのです」
「黙れえええええ!!」
穢れが膨れ上がる。
鏡世界に、黒い亀裂が走った。
拘束が、少しずつ溶かされていく。
「聖魔力も限界だろ!」
見抜かれていた。
ルナを守り続け、精神世界を維持し続けた代償。
エリスの光は、既に薄れ始めている。
「あなたを浄化します!」
残された聖魔力を振り絞り、聖光が迸った。
「やめろおおおおお!!」
穢れが焼かれる。
絶叫が響く。
しかし、消滅寸前で根源はルナの身体から逃れた。
「はぁ……はぁ……!
助かった……!」
根源だけの姿となり、外へ逃れた。
根源が嗤う。
「僕はもう止められない」
その時。
エリスの精神が、ルナの身体から抜け出す。
根源を抑えつけるように。
「こんなことしたって思念には誰も干渉できない!
僕の勝ちは決定的だ!」
根源がもがきながら叫ぶ。
「――できます」
エリスが答えた。
振り返る。
そこには、ロイが立っていた。




