23-1 熊野陳平との死闘
【23話】 Aパート
生一、小谷野、兼元の三人が、あの地獄のようなトレーニングを開始してから、九日目の夜を迎えていた。
周囲を包む大気は肌を刺すように冷たく、時刻は二十二時を回った頃。
要塞バーサビアのアジト侵入を決行するまで、あと五、六時間……という、心臓の鼓動が耳元まで響くような緊張感の漂う時間帯である。
「これからお前らに最終試験を課す。俺ももちろん、一緒に参加する」
生一が、月明かりの下で研ぎ澄まされた刃のような眼光を向け、二人に言い放った。
「最終試験……?」
小谷野が、滴る汗を手の甲で乱暴に拭いながら、怪訝そうに聞き返す。
「無事、試験を終えたら、そのままのテンションで乗り込む。ええか?」
生一の言葉には、退路を断つような冷徹な響きがあった。
「何やるんだよ、生一。試験って…
夜明け前が決行時間だぜ。また限界まで筋トレしてたら、乗り込む前に体力が持たんくなるで。
それよりも、突入後の打ち合わせとかせんといかんのと違うか?」
「違う……試験って言うのは、最後に仮想となる敵と戦うのが試験やねん。もちろん勝たないかん。
アジト入ってからのシミュレーションは、お前らが生きて試験をクリア出来た後、移動しながら話す!」
生一の声には、有無を言わせぬ重みがあった。
「生一……生きてって、何なんその敵って? どこにおるん?」
小谷野が、暗い森の奥から漂う不穏な気配を感じ取り、微かに声を震わせた。
あれから、小谷野も兼元も、自分の限界という名の壁を何度も突き破り、泣き言一つ言わずにひたすら修練に没頭してきた。
ネイシャさんに対して抱く自分たちの気持ちは本気なのだということを、そのひたむきな背中で示し続けてきたのだ。
どんなに辛く、肉体が悲鳴を上げようとも、ネイシャさんの穏やかな笑顔を思い出せば、腹の底から「絶対に死んでたまるか」という凄まじい底力が湧き上がってくる。
初日から三日間ほどは、かつて経験したことのない激しい筋肉痛に襲われ、足元は常に「生まれたての小鹿」のようにプルプルと震えていた。
しかし、四、五日が経過した頃から、不思議と肉体がその過酷な負荷に適応し、意志に従って動くようになってきた。
そして一週間を過ぎた頃には、あの狂気じみたトレーニング内容さえも、日々の「普通」のカリキュラムとして淡々とこなせるようになっていた。
人間という生き物は、よく「慣れの生き物」だと言われるが、それは紛れもない真実であり、どんなに過酷な状況であっても、慣れてしまえばそれなりにクリアできてしまうものなのだ。
生一は、以前からプロレスラーが強靭な体を作り上げるための、限界を超えるトレーニングメニューを入念に調べていた。
その知識が今、この逃げ場のない極限状態において、最も効率的な肉体の練り上げ方として、これ以上ないほど役に立っている。
わずか九日間という短期間であったが、小谷野はもちろん、兼元も驚くほどに胸板周りの厚みが増していた。
鏡を見るまでもなく、自分の肉体に宿った確かな自信が、その立ち姿そのものから溢れ出している。
顔つきも、以前のひ弱な少年の面影は消え、修羅場を乗り越えてきた猛者だけが持つ、鋭く静かな威圧感を湛えていた。
コップに入った生卵を一気に飲み干した後、生一は最終試験となる課題を発表する。
「ええか!…最終試験の相手はな………熊や!」
* * * * *
一方、とある東の村では、ささやかながらも盛大な宴会が開かれていた。
焚き火で焼かれる肉の芳ばしい煙と一緒に、人々の楽しげな笑い声が、冷えた夜気の中を外まで響きわたる。
遥か東洋の「日本」という国からやってきた少年が、たった一人で、この絶望に沈んでいた村の窮地を救ってくれたからだ。
村の中には、身体に障がいを持つ人々を除けば、もはや「若者」と呼べるような活気のある人材は一人も残っていなかった。
それでも、家を追い出され、不衛生な小屋や牢屋へと無残に押し込められていた年長の子どもたちや、比較的元気な老人たちが、拠点となっていたレンガ造りの建物から、略奪されていた食材を必死に運び出してくれた。
何ヶ月ぶりだろうか、村人たちが皆、ようやく安堵の中でまともな食事にありつけるようになったのである。
真也は、あのみすぼらしい牛小屋の、湿った布団の上で具合悪そうに喘いでいた老人の姿を思い出した。
彼は今、ベッドのある清潔で暖かい部屋へと移動させ、ようやく人心地ついている。
真也は、木のスプーンで温かいスープを丁寧にすくい、老人の震える口元へと運んでやった。
老人は、枯れ果てたはずの目から大粒の涙を流しながら、温かいスープを一口ずつ、大切に口にしていた。
その横では、頬が削げるほど痩せていた子どもも、精いっぱいの弾けるような笑顔で、ごちそうを口いっぱいに詰め込んでいる。
この平穏な光景を再び目にすることができただけでも、ここへ来た意味があったと、真也は心から感じていた。
倉庫からは、あり余るほど穀物類が見つかっただけでなく、隠された大型の冷凍庫の中には、大量の肉や魚が貯蔵されているのが発見された。
それらはすべて、かつてこの村の若者たちが汗水垂らして収穫したものを、山賊たちが後から力ずくで略奪したものだった。
若者を強制的に僻地や要塞バーサビアへ連行し、老人と子どもだけになってしまった村を、剥き出しの恐怖心で押さえつけていたのだ。
そのやり方はあまりに周到で、同時に救いようのないほどに残酷なものであった。
皆で分け合いさえすれば、誰もが幸せに腹を満たせるはずのごちそうなのに。
「このお魚……出来るなら私がさばいてあげたかったのにな……」
まだ火傷の影響で体が思うように動かせない静那が、並べられた大量の魚を、どこか残念そうに見つめながら、ぽつりと呟いた。
それでもまずは、村人も静那も、そして真也も、皆寄り添いながら、目の前にある食事を貪るように口にした。
文字通り、「皆」である。
久しぶりに口にする温かいごちそう。
村の中に、凍てついていた心から湧き上がるような、本物の笑顔が戻った。
美味しい食事というものは、人と人を繋ぎ、傷を癒やすための、この上ない大切な潤滑油となる。
お腹が満たされた後、真也はもちろん静那も、村人たちと積極的にコミュニケーションを図ろうと試みた。
共通の言葉を持たない者同士であることは重々承知していたが、村人たちはこの恩人たちの申し出を、感謝と共に快く受け入れてくれた。
身振り手振りを交えた、つたないながらも温かいやり取りは、眠気が襲ってくるまで延々と続けられた。
この村を暴力で牛耳っていた屈強な山賊たち五十名余りは、ボスの男を含め、真也が全員を太い縄で縛り上げ、牛小屋に監禁してある。
意識が戻った輩も何人かいたが、完膚なきまでに叩きのめされたボスの惨めな姿を見た瞬間、誰もが戦意を喪失して黙り込んだ。
そういえば、一人だけ逃げていった部下がいたような気もしたが、村のどこを捜してもその姿は見当たらなかった。
おそらく、恐怖に駆られてこの村から逃げ出したのだろう。
何にせよ、敵の大将をもっと早く仕留めることができていれば、これほど手こずらずに解決したのかもしれないと真也は感じていた。
とりあえずは、早く警察などの公的機関に彼らを引き渡せるよう、誰かにお願いをしなければならない。
しかし、今のこの村には、近くの国家機関まで飛んで行って、輩たちを突き出せるようなバイタリティのある若者が一人もいないのだ。
「若者がいない」という空洞化した状態が、あらゆる行動を停滞させ、復興を難しくさせているという冷厳な事実に、真也は改めて気づかされた。
* * * * *
「静那っ! 大変だ。ちょっと一緒に話を聞いてくれ!」
食事を終えた二人は、あれから村人たちとなんとか具体的な意思疎通をしたいと考え、ジェスチャーを交えながら一生懸命に会話を試みていた。
ペルシャの言語は発音も独特で、日本語とはリズムも響きもまるで違う。
今から体系的に習得するのは、至難の業だと言わざるを得ない難解な言語だ。
紙にイラストを描いて見せるなどしつつ、本当に少しずつ、少しずつ、言葉を通じ合わせていくという、根気のいるやり取りだった。
その最中、真也が聞き出した情報の中に、看過できない重大な内容が含まれていたのだ。
いざ静那を呼んだものの、静那はまだ一人で体をうまく動かせない不自由な状態にある。
村にあった「火傷に効く薬」を体中に厚く塗ってもらった後、彼女は毛布にくるまり、まるでサナギのようなフォルムになっていた。
真也は、そのサナギの状態のままの静那を優しく抱え上げ、自分が話をしていた村人のすぐ傍へと座らせた。
「ちょっと気になる話を聞いたんだ。ここからは、僕と一緒に聞いてほしい」
「うん」
静那は、小さく、けれど真剣な表情で頷いた。
そこから二人は、その村人が語る情報を、一言も漏らさぬよう真剣に聞き入る。
完全に言葉を理解できているわけではないため、内容に誤差はあるかもしれないが、要約すれば以下のような内容だった。
『確か一週間ほど前、あなたと同じような肌の色の人間が七人、この村に強制的に連行されてきた。
その後、おそらくではあるが、彼らは組織の本部へと連れていかれたはずだ。
連行される際、女の人が一人、肩にひどい怪我を負っていて、とても痛そうにしていたのが印象に残っている。』
という内容だった。
その後、真也は何度もジェスチャーを繰り返し、内容の確認を行った。
この短い情報を完全に理解するまでに一時間近くもかかったのだが、ようやく確かな確証が得られた。
どうやら、先輩たちは無事だ、生きている。しかし……
「真也、急がないと……」
静那が、穏やかな口調を努めながらも、今にも泣き出しそうな震える声で話す。
真也も、もはや静那が完全に回復するまで悠長に待っている場合ではないという険しい表情を浮かべた。
「うん! すぐにでも出発しないとな!」
真也は、彼女を安心させるように、力強く言い切った。
しかし、二人が無謀に助けに行こうとしていることを表情から察した村人が、慌てて押し止めるように助言した。
村人といっても、杖をついた老人である。
『我々のような年寄りには、アジト本部の詳細な情報は無い、申し訳ない。
ただ、あのアジトは非常に危険だ、それは紛れもない真実なのだ。
どうしても行くと言うのなら、他の村を経由し、そこで情報を得てから行くこと。
これは絶対だ!』
……だそうだ。
先ほどよりも、驚くほど早く内容を理解することができた。
焦る二人の逸る気持ちを汲み取ったのか、老人は急いで自分の家まで走って戻り、アジトまでの地図を抱えて戻ってきてくれた。
その地図を囲みながら、また長い、沈黙を挟んだ対話が続く。
『ここは、アジトから見て東に位置する村だ。
この村から真っ直ぐ西に進んでいけば、いずれは本部に到着することができる。
だが、本部にいきなり正面から入るのはあまりに危険だ、それだけは絶対にやめてほしい。
本部が面している川に沿って、南の下流側には修道院があり、北の上流側には大きな村がある。
どちらの場所にも一人ずつ、アジトから命からがら逃げ延びてきた若者が、密かに潜伏しているはずだ。
どちらでもいい、まずは彼らに会い、内部の状況を聞いてほしい』
* * * * *
それは、彼ら村人が出しうる精いっぱいの、命懸けの助言だった。
とにかく他の老人からも「アジトは危険だ」という言葉を、念を押すように何度も聞かされた。
どうやらアジト内部には、乗り込んできた侵入者に対して、様々な「仕掛け」という名の残虐なトラップが施されているらしいのだ。
そのおかげで、「アジト(基地)」と「危険」という言葉を、真也は真っ先に覚えることになった。
「早く行こう!」
静那が、自分の火傷のことなど構わないから今すぐにでも村を出ようと、急かすように真也の袖を引く。
だが、真也は静かに首を横に振った。
「明日のお昼までに、村の人たちが火傷の薬をありったけ用意してくれるって約束したんだ。
僕は、喉から手が出るほどその薬が欲しかった。
だから、村の人が薬を持ってきてくれるまでは、ここでゆっくり休んで、万全の態勢を整えよう」
「そんなのはいいよ、早く出ようよ、真也!」
小さな声ではあるが、静那の顔には深い不安が刻まれている。
先輩たちの身に何かが起きているのではないかという恐怖が、彼女の心を支配しているのだろう。
あの日から、随分と時間が経ってしまった。
本部に連れていかれ、どんな非道な仕打ちを受けているのか分からない。
静那は、今にも泣き出しそうな表情で真也を見つめた。
それでも真也は、サナギのように毛布に包まれた静那の顔をしっかりと見つめ、今までになく真剣な顔で言った。
「気持ちは分かる! 僕だって一刻も早く助けたいと思ってる。
でも、静那だって、僕にとっては同じくらい大切なんだ、いいな、今日はしっかり寝よう。
そもそも静那の大好きな先輩たちが、そんなに簡単に死んだりなんかするかよ! 気をしっかり持てよ!」
* * * * *
今までの真也は、常に静那の意向を第一に考え、ただただ尊重してあげていた。
けれど、今回のように少しキツめの口調で言い聞かせたのは、初めてのことかもしれない。
目の前の感情の波に、彼女が呑み込まれてほしくなかったからだ。
その数時間前、静那の傷ついた体に火傷の薬を塗ってあげた時も、同様だった。
静那は「自分で塗れるからいいよォ」と、頑なに恥ずかしがって拒んでいたが、彼女の両腕はまだ思うように動かせない状態だ。
前側はともかく、背中側の火傷は、依然として目を覆いたくなるほど酷い状態だった。
真也は躊躇することなく、静那に後ろを向かせるよう促すと、やや強引に彼女の服をめくりあげた。
そして、背中に刻まれた大きな傷跡について、余計なことは一切口にせず、ただ無言で、丁寧に薬を塗り込み続けた。
顔を真っ赤にしてうつむく静那…でも火傷が早く治るなら…早く治って痕にならないのなら…今は静那の気持ちやそれ以外の事は関係ない。やっと念願の火傷薬が手に入ったんだ。
食事を摂ることよりも、休息をすることよりも、真也が何より一番にやり遂げたかったことだった。
これまで、静那に対してどこか一歩引いた遠慮をしていた真也だったが、本当に大切なことだと感じた場合は、自分の意志に素直に従うことに決めたのだ。
あの日の夜、静那が自分の内に秘めた感情を、真也に向かってすべてさらけ出してくれたように。
こうした経緯もあり、今までと違った強い口調で諭された静那は、ふっと力を抜いて大人しくなった。
彼女も完全に納得したわけではないだろうが、「助けたい」という情熱は、真也も自分と同じくらい強いのだということが、彼女の胸に痛いほど伝わったからだ。
* * * * *
真也は村人たちに、明日は「上流側にある村」へと向かうため、薬が届き次第、ここを発つという旨を伝えた。
バイクなどのガソリンで走る文明の乗り物は、すべて山賊たちによって破壊されてしまったそうだが、自転車なら何台か用意できるとのことだった。
既に夜も深まっていたが、子どもたちを除く老人たちは、救世主である彼の旅立ちを村全員でサポートできるよう、総出で準備を開始した。
地獄から救い出してくれた彼に対して、精いっぱいの感謝を形で示したかったのだろう。
真也は今、紛れもなくこの村の、希望という名の「救い主」だった。
その夜、二人は久しぶりに、清潔で柔らかな綿の布団の中で、深い眠りにつくことができた。
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