6-2 庇護が無いということ
【6話】Bパート
一夜が明け、次の日。
チェックアウトを済ませてホテルを後にすると、諭士はまず、連絡手段を確保するために最寄りの公衆電話を捜し歩いた。
真也たちが昨晩泊まった“お城のようなホテル”は、フロントを通さずチェックインからチェックアウトまでをすべて無人で対応できる仕組みになっていた。
「まるでお菓子の家のように未来を先取りしたようなホテルだね」と、静那は施設内の便利さにしきりに感心していた。
対して真也は、客室の中を彩る独特なパープル色の内装や鏡張りの壁に、言葉にできない妙な雰囲気を感じ取っていたようだが、それを口に出すことはなかった。
ただ、どれほど居心地の良い“お城”から出たところで、ここはまだ東京都内のど真ん中である。
平穏な熊本の地まで戻るには、新幹線を乗り継いでもまだ果てしなく遠い。
諭士たちは依然として、見えない敵から逃走している身の上なのだ。
真也や静那には余計な心配をさせたくないという配慮から、帰りのチケットの手配や各所への電話連絡などは、諭士がすべて一人で背負って対応することにした。
これまで仕事で煩雑な手続き関係は嫌というほどこなしてきた経験があり、その手際だけは以前よりもさらに早くなっていた。
やがて肝心の公衆電話も見つかり、新幹線の切符を予約する前に、現状を報告するため熊本の寮へ連絡を入れることにした。
寮母の堅田さんへ受話器越しに、これから三人で無事に帰る旨を伝える。
しかし、電話口から返ってきた予期せぬ返答に、諭士は愕然として言葉を失った。
諭士が寮へ電話をかけるよりもわずかに早く、なんと、あの茂木議員から施設に直接電話が入っていたのだという。
堅田さんの記憶を辿った話によれば、その内容は非常に不穏なものだった。
「今回検討していた法案の議案に関してだが、一度白紙に戻させてもらえないか。」ということ。
「もし、この決定をどうしても不可解だと感じるのであれば、改めて腹を割って話をしたいので、もう一度私が指定したホテルまでご足労願えないか? 」という申し出でだった
さらに、茂木議員は最後にこう付け加えたというのだ。
「その時は、今回一緒に東京に来てくれたメンバー全員で、所定の場所まで来てほしい」と。
これは、自分たちの動向が完全に筒抜けになっており、先回りされているという事実を突きつけられたに等しい。
そして、この呼び出しはおそらく、出口のない卑劣な罠であるという予感があった。
組織のメンツをどうやら完膚なきまでに叩き潰した張本人である真也を、自分たちの前に差し出せという暗黙の要求だろう。
彼らは本気で、そんな血も涙もないことを実行しようとしているのか?
真也はまだ法的に守られるべき非力な子どもだぞ。
たとえ子ども相手だろうが、自分たちに逆らった人間は、反勢力の政治家を闇に葬るように、平気で殺してしまうつもりなのか?
あの女子高生くらいの女の子が、骨を折られ、顔を腫らして暴行されていた凄惨な傷跡を思い出し、諭士の背中に冷たい汗がじわりと滲む。
あくまで組織の忠実な手下である茂木議員を使い、自分たちを呼び出し、何らかの見せしめとしての処罰を与えるつもりなのだ。
相手はおそらく、昨日自分たちを力ずくで捕縛しようとした、あの不気味な黒いスーツの男たちの団体だ。
もし捕まった後、どんな無慈悲な目に遭わされるかは、あの女の子の痛々しい姿が何よりも雄弁に物語っている。
相手が女であろうと子どもであろうと、巨大な組織の意思に逆らう存在には、一切の容赦をしないのだろう。
そして、これほどまでに執拗に先回りされているのであれば、真也の詳しい“素性”もすでに徹底的に調べ上げられているはずだ。
「親の庇護が無い」ということは、たとえその命を奪ったとしても、国家を相手に咎める後ろ盾が存在しないということも、彼らはもちろん熟知しているはずだ……
だったら指定の場所に呼び出した後、白昼堂々と銃殺でもするつもりなのか。
馬鹿なことを、ここは法治国家である日本なのだぞ。
それに相手は、これまで信頼関係を築き、大変お世話になってきたはずの茂木さんだ。
本当に、これまで受けた恩義のすべてが罠だったというのか?
連れている二人の子どもたちは、何が何でも自分の命に代えても守り抜かなければならない。
しかし、現実として彼らは親の庇護が無い……いわゆる社会のセーフティネットからこぼれ落ちた“か弱い存在”なのだ。
この自分自身が命をかけて盾にならなければ、一体誰がこの子たちを救えるというのか。
真也がどれほど超人的な力を身につけようと、国家的な権力という巨大な暴力の前では、個人の力など何の役にも立たない。
それか、もう彼らのメンツなんて知ったことか…このまま呼び出しを無視して、なりふり構わず熊本まで逃げ帰ればいいのか…今ならまだ、引き返せる。
しかし、もしここで逃げて戻ったところで、相手は正体すら掴めない不気味な組織だ。
昨日のように、自分たちの影を追って、どこまでも、地の果てまでも追跡してくるかもしれない。
もし熊本まで追っ手が及べば、寮にいる親の居ない他の何の罪もない孤児たちまでも、危険な騒動に巻き込んでしまう可能性が十分に考えられる。
なにせ、自分が匿っている子はどの子も親の庇護が無い脆い立場の子どもばかりなのだ。
様々な最悪のシミュレーションが脳内を駆け巡り、諭士は絶望のあまり受話器の前で力なくうずくまってしまった。
ホテルを出てからまだほとんど時間も経っていないというのに、あまりの精神的な疲弊により、一行はすぐに最寄りの喫茶店で休憩を余儀なくされた。
真也も静那も、まだ多感な中学生ながら、自分たちの置かれた危機的な状況をなんとなく肌で察知していた。
もはやこのまま、何事もなかったかのようにすんなり熊本には戻れないという過酷な事実に。
真也は自分の取った行動……取り返しのつかない恐ろしい相手に手を出してしまったのだということを、静かに痛感していた。
昨日みたいに自分一人の身の振り方次第で逃げ切ることはできても、今後は自分を介して、大切な周りの人間までも巻き込んでしまう可能性がある。
そうなれば、当然静那にも……それだけは、何としてでも、絶対に避けたい事態だった。
ならば、いっそ自分一人だけが身代わりに……
考えれば考えるほど、真也の表情は石のように険しく、暗く沈んでいく。
そんな真也の苦渋に満ちた横顔を、静那は壊れ物に触れるような心配そうな眼差しで見つめていた。
「大丈夫さ。静那は何も悪いことはしていない。だから、心配することなんて何もないよ」
真也は精一杯の強がりで気丈に振る舞ってみせるが、静那には彼の心の震えが見えるようで、心配でたまらなかった。
それどころではない状況なのは重々承知していたが、今日は静那にとって大切な年に一度の誕生日だった。
彼女にとって誕生日は、高価なプレゼントなどなくても、大好きなみんながそばにいてくれれば、それだけで十分に幸せな日だった。…ただ、大好きなみんなが、明日も元気でいてくれればいい。
* * * * *
……混迷を極めた状況を整理し、自分たちの運命を左右する決断を下すべき時が来た。
二人を安全な喫茶店の中に残し、諭士は覚悟を決めて席を立つと、寮母の堅田さんから教わった茂木議員の連絡先へ、再び公衆電話からコンタクトを試みた。
諭士が硬貨を投入して公衆電話からコールを鳴らすと、茂木議員はまるで待っていたかのようにすぐに応答した。
「今回提案いただいた法案はすべて白紙になるかもしれない。だから今後の流れを含め、もう一度改めて相談させてほしい…」と。
諭士の耳には、それが何とも見え透いた、滑稽なほど薄っぺらな嘘に聞こえた。
「三人の同行は難しいので、私一人で指定の場所に向かいますが、それでも大丈夫ですか」と試しに問うてみた。
すると茂木議員は、これまた子供騙しのような分かりやすい返答をしてきた。
「連れの子二人には、昨日の件で色々と怖い思いや迷惑をかけてしまった。そのお詫びとして、美味しい食事でもご馳走したいから、ぜひ一緒に連れてきてほしい」と。
自分は、そんな甘い言葉に誘われるほど馬鹿な人間ではないということは、茂木さん自身も重々分かっているはずだ。
これまで政界の荒波の中で法案を通してもらうため、何度も何度も泥臭い交渉を重ねてきた仲なのだから。
それを百も承知の上で、これほど見え透いた嘘を平然とつくとは、信じられない思いなのも正直なところだった。
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、正直に、直球でこう問いたかった。
「あなたのバックには、一体誰が、どんな怪物がついているのか?」と。
投入していた百円玉の通話時間が終了を告げようとしていたため、すぐにかけ直す旨を伝え、諭士は一度公衆電話の受話器を置いた。
次の公衆電話を見つけるまでのわずかなインターバルの間、諭士は頭をフル回転させる。
茂木さんの要望通りに罠を承知で出向いた場合と、強行突破してこのまま熊本に帰った場合の、二つのパターンを極限まで想定する。
喫茶店でも何度も何度も吟味したことだが、もう一度だけ、自分に問い直す。
なにせ、今この瞬間の判断に、真也の尊い命がかかっているのだから。
相手はわずかな痕跡からでも先回りするような、巨大で冷酷な組織だ。
例え熊本に戻ったとしても、安住の地などどこにもないと決断した諭士は、腹を括り、茂木議員にもう一度電話を入れた。
「一つ、最終確認させてください。私たち三人にお会いするのは茂木さん、あなたお一人だけで間違いないですか? 他にも打ち合わせのために同行される方はいらっしゃいますか?」
その問いに対して、茂木議員は一切の淀みなく即答した。
「もちろん私だけですよ。いずれはこのポスト法案を通すための、将来に向けた大事な打ち合わせですから。
党内の人間にはまだ極秘で進めている段階なんです。まだ正式な推薦に回っていただけるかは、確約できませんので」
「間違い……ないですね」
「はい、間違いありません」
あまりにも滑らかに、すぐさま即答されたので、彼への不信感や疑いの気持ちが晴れたわけでは決してなかったが、指定されたホテルで落ち合うことを承諾した。
指定された場所も、決して逃げ場のない密室ではない。
これまで真也のような、社会的な立場が極めて弱い孤児たちのために、真摯に法案を通してくれた茂木議員だ。
だからこそ、その絆の最後の一糸を信用してみようと、諭士は感じたのだ。
喫茶店に戻ると、不安げに待っていた二人の前の椅子に深く座り、諭士はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
「これから、昨日お会いした議員さんに、もう一度だけ会いに行くことになった。場所はここだ。
決して密室ではなく、見晴らしの良い広間だ。話をするのは、茂木さんという議員さん一人だけという約束も取り付けた」
黙って話を聞く二人。
「二人にはまだ難しい政治的な話だと思うけれど、障害を持つ子や、真也君のような孤児を社会から守ってくれる大切なルールを通してもらうために、僕は彼を信用し、今一度決着をつけにいくつもりだ。
ついてきてくれるか?」
二人は、諭士の決意の滲む瞳を見つめ返し、黙って力強く頷いた。
「それが、諭士さんが悩み抜いて出した結論なんでしょ。だったら僕は何も不安はないよ。どこまでもついていく。な、静那。大丈夫だよ」
「うん。諭士さんが信用すると決めた大人の人なら、私も信じる」
「そうか……ありがとう。彼が“正義と保身、どちらをとるか”という賭けに、乗ってみようと思ってね……いやいや、こっちの話だ」
諭士は自分に言い聞かせるようにそう言って、三人は静かに席を立った。
* * * * *
指定されたホテルがある最寄りの駅に到着すると、駅舎を出たところで諭士は真也の横顔に視線をやった。
彼は決して怖がっているようには見えなかったが、心の奥底で「自分は消されるかもしれない」という、逃れようのない恐怖心が渦巻いていないとは言えなかった。
まず諭士は、周囲を警戒しながら静那に対してそっと耳打ちをした。
「静那。これから真也君と、生き残るための最後の作戦会議をする。その後、君にも作戦を教える。絶対に、これから僕が話す通りに動いてほしい。そうでないと……真也君が死んでしまうかもしれないから」
静那の顔が、その一言で一気に血の気が引いたようにこわばった。
しかし、彼女はすぐに真剣な眼差しを取り戻し、力強く何度も頷いた。「うんっ、わかった」
「じゃあ、まずは真也と詳細な打ち合わせをしてくる。
安全のために、あのお手洗いの中にでも隠れておきなさい。いつ、どこで、誰が僕たちを見張っているか分からないからね」
静那は一言も発さず、無言のままパウダールームの扉の向こうへと姿を消した。
彼女の背中を見送った後、諭士は厳しい視線を真也へと向けた。
諭士が口を開くよりも先に、真也の方が押し殺したような震える声で聞いてきた。
「僕……殺されるの?
昨日やっつけたあの黒いスーツ姿の男が、耳元で言ってたんだ。『もうお前に逃げ場はない、どこに逃げても必ず殺しに行く』って。僕には、いなくなっても騒ぐ親が居ないでしょ。だから、僕が死んでも誰も、殺した人を責めたりはしない。だから安心して死ねって――」
「真也。馬鹿なことを言うな! 君を死なせたりなんて絶対にしない。気をしっかり持つんだ!」
諭士は真也の肩を強く揺さぶった。
「僕は……死ぬことそのものが怖いんじゃない。ただ、その……」
「その? ……一体、何だ?」
あの日、故郷を失って以来だろうか、真也が今にも零れ落ちそうな涙を瞳に溜めながら話し出した。
「……まださ……ちゃんと静那のことを守れてもいないのに……こんなところで死ねないよ。
彼女のこと、これからは僕が命をかけて守るんだって、心に決めたのに。何も守ってあげられずに無残に死んでしまうなんて……
まだ、誕生日のお祝いだって、プレゼントだって……何も渡せていないのに……」
こんな、自分の命が風前の灯火である状況下にあっても、何よりも優先して相手の……静那の身を案じているのかと、諭士は目頭が熱くなるのを感じた。
だからこそ、この“作戦”を完遂しなければならないのだ。
「ああ、そうだ。君は静那を守るんだ。これからも、ずっとだ。
だからまだ、君を死なせたりはしない。孤児が何だ! 君の正式な保護者は、この僕だ。
余計な心配をせず、子どもは黙って保護者に守られていればいいんだ。真也、お前はこの先も彼女を……静那を幸せにすることだけを考えていろ。いいな! これから話すのは、地獄から生き残るための作戦だ。よく聞け」
ほどなくして真也との密な会話を終えた後、静那とも合流し、何やら二人だけで最終的な打ち合わせを行う諭士。
静那も黙って話を聞き終えた後、覚悟を決めたように力強く頷いた。
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