6-1 庇護が無いということ
【6話】Aパート
背後からは、こちらの事情など一切顧みない、威圧感に満ちた屈強な男たちの重い足音が問答無用で追いかけてくる。
「後ろに回ったぞ!」という、夜の静寂を鋭く切り裂くような男たちの怒号が、すぐ近くで響き渡った。
街灯の光も届かない、影が濃く落ちた視界の悪い暗闇の中を、肺が焼けるような荒い呼吸を繰り返しながら、諭士、静那、真也の三人は必死に逃げ続ける。
追手の正体は判然としないが、肌を刺すような強烈な殺気から、自分たちが執拗に追われていることだけは疑いようのない事実だった。
逃げ場を塞ごうとする組織的な動きに、自分たちが明確に狙われているという恐怖が、冷たい汗となって背中を伝っていく。
東京中に点在する救急病棟に対し、「もし重体の女が運び込まれてきたら、連れてきた責任者を拘束しろ! 名前を徹底的に洗え!」という非情な指示が、すでに網の目のように回っていたのだろうか。
病院の裏口へと回り込み、複雑に入り組んだ路地へ逃げようと試みるが、訓練された男たちの脚力は凄まじく、じわじわと距離を詰められていく。
暗いアスファルトを蹴る音の感覚がどんどん狭まり、追っ手がすぐ背後まで迫っていることを予感させた。
なにせ、大人の諭士の隣には、まだ成長途中の足取りも不安定な中学生が二人連れ立っているのだ。
しかし、静那は恐怖に立ちすくむことなく、気丈な面持ちで諭士よりも一歩先を、風を切るような速度で駆け抜けていた。
その逃げ足は中学生という年齢を考慮しても驚くほど速く、しなやかな身のこなしを見せている。
彼女の父・ミシェルの故郷は、険しくも広大な鉱山が連なる盆地だったと諭士はかつての会話を思い出した。
幼い頃からあの大地を、土の匂いを感じながら毎日力強く駆け抜けていた経験が、今彼女の足を動かしているのだろう。
迷いのない走り慣れている様子からして、よっぽど狡猾な裏をかかれない限り、彼女が容易に捕まることはないだろうという確信が持てた。
それに、今回の騒動の火種において、彼女自身には何の落ち度も罪もないのだ。
『静那っ! 捕まらない自信があるなら、まずは先に逃げてどこか安全な場所に隠れていろ!』
諭士は周囲を警戒しながら、咄嗟に彼女の母国語であるロシア語を用いて、切迫した声で静那を先に行かせた。
男たちの標的は、おそらくか弱い彼女ではない。
……やはり、男たちをなぎ倒した真也なのか、あるいは、責任者である自分という筋も十分に考えられる。
だが今は犯人探しをしている余裕はなく、いかにしてこの包囲網を逃げ切るかが最優先の課題だった。
一瞬だけ首を後ろに回し、背後の気配を探ると、暗がりに十人ほどの影がひしめいているのが見えた。
諭士よりも一回りほど体格の大きな男たちが、獲物を追い詰める獣のような勢いで向かってくる。
ここは町の外れとはいえ、都内の閑静な住宅街だ。
さすがに衆人環視の可能性を恐れてか、拳銃などの火器を使用する気配はないようだが、立ちはだかる連中はどいつもこいつも屈強な肉体を持っている。
もし捕まり、あの大きな手で上から押さえ込まれてしまえば、そこですべてが終わってしまうだろう。
普段からデスクワークや事務作業に追われている諭士は、上がった息を鎮めることもできず、ついに最悪の事態を覚悟するようになった。
全力で疾走していても、もはやスタミナの限界は近く、あと一分ほどしか足が持たないことを自覚していた。
そんな諭士の喉を鳴らすような苦しげな呼吸の乱れを敏感に察知してか、隣を走る真也が鋭い視線を向けた。
「諭士さん。僕があいつらを食い止めて、足止めをする! だから今のうちに逃げて!」
真也は走りながら決然とした口調で、しかし静那には聞こえないよう声を潜めて続けた。
「でも……静那には絶対に、僕が囮になったなんて言わないで! 約束してっ!」
真也のその必死な訴えの意図を、諭士はすぐに理解した。
かつて静那が経験した悲劇――誰かが自分を庇い、代わりに傷つくという残酷な記憶を、二度と呼び覚まさせたくないという深い慈しみゆえの言葉だろう。
自分自身の命も危ういこんな極限の状態にあっても、なお彼女の心の傷を気遣える彼の精神的な余裕は、一体どこから湧いてくるのか……
「しかし! 真也一人だけで、この人数を相手にするのは無茶だ! かっ、数があまりにも多すぎる、それに……っ」
諭士は激しく肩を揺らし、熱い息を切らしながら反対の言葉を返した。
しかし真也は、一歩も引かない頑なな眼差しで諭士を見据えたまま譲らない。
「あいつらに捕まったら、それこそ取り返しのつかないことになるんでしょ。だったら、捕まらないようにうまくやるから僕を信じて!
もう、迷っている時間はないよ」
確かに、背後に迫る足音を聞けば、これ以上立ち止まって議論を交わしている猶予など一秒もなかった。
後でどれほど激しい後悔に苛まれるか分からないが、諭士は苦渋の決断を下し、意を決した。
「っ……分かった、絶対だぞ。何があっても生きて戻って、静那を悲しませるな! 約束しろ!」
諭士は喉の奥を震わせて叫ぶと、真也を信じてその背中を任せた。
まだ中学生……法律上は子どもでしかない相手に、自分はなんて非情な判断を下してしまったんだ、と胸が締め付けられる。
大人が生き延びる時間を稼ぐために、まだ幼い子どもを身代わりとして戦場に残していくなんて……
今回の不可解な事件の全貌を整理する暇もなく、見えない恐怖から逃亡している今の状況。
結果として、かけがえのない子どもたちをこの危険な渦中に巻き込まざるを得なくなったことへの、やりきれない後悔が津波のように募る。
このまま無事に明日まで逃げ延び、遠い熊本の地まで帰り着くことができるのだろうか。
そもそも、平和を享受しているはずの日本という場所でさえ、これほど凄惨な事件に巻き込まれるとは夢にも思っていなかった。
祈るような切実な思いを胸に、必死に足を動かし続けた諭士は、ようやく人通りもまばらな静かな住宅街の奥深くまで辿り着いた。
街灯のぼんやりとした明かりの下に辿り着くと、彼は両膝に手を突き、肩でハアハアと苦しげな息をついていたが、呼吸の乱れを必死に整えるために一旦ゆっくりと歩きだした。
静那はおそらく、指示通りに先に逃げながら、物陰から自分の現在位置を注意深く確認しているはずだろう。
「本当に安全になったと判断したら、自分から手を挙げるポーズをとって合図する。それまでは、たとえ近くに自分が見えたとしても、決して出てきては駄目だ」と厳しく伝えていた。
慎重な彼女のことだ、きっと大丈夫だろう。
しかし、追っ手の前に一人残った真也の方は一体どうなってしまったのだろうか。
あれほど騒がしかった背後から、追手がやってくる気配はもう全く感じられない。
だが、約束の場所へ真也がやってくる様子も一向になかった。
もしかしたら真也は、あの集団に……
諭士は最悪の光景を想像してしまいそうになり、慌てて頭を振って、自分の中でその疑念を全否定した。
彼は中学生にしては人並み外れた身体能力がある……のかもしれない、と自分に言い聞かせる。
毎日泥だらけになって鍛えていることは知っていたが、その実力が大人数を相手に通用するほどなのかは一度も見たことがないのだ。
それに、どれほど強かろうと彼はまだ中学生に過ぎない。
中学生という名で守られるべき、まだ幼い子どもなのだ。
体格だって大人に比べればまだ小さく、大柄な男たちに囲まれて力ずくで取り押さえられたら、圧倒的に不利な状況になるのは明白だ。
そんな募る心配をよそに、しばらく待っていると、真也が暗闇の奥から何事もなかったかのようにひょっこりと姿を現した。
月明かりの下で確認する限り、目立った外傷や流血などは無さそうだ。
「真也! お前、本当に大丈夫だったのか?」
駆け寄ろうとする諭士に対し、近づいてくる真也は人差し指を口元に当て、少し声を抑えるようにと静かにサインを出した。
「まだ、周囲に大きな声を出しても大丈夫かどうか判別がつかないから。しばらくは慎重に、静かに移動しましょう。諭士さん」
子どもである真也からの冷静な提案に、諭士は己の焦りを恥じるように頷いた。
「そう……だな。うん。まずは静かにな」
諭士が周囲を見回して合図を出すと、どこかの物陰に潜んでいた静那も、音もなくスッと現れた。
どうやら追手は無事に巻くことができたようで、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
諭士は隣を歩く真也に、聞こえるか聞こえないかほどの小声で話しかけた。
「……約束、守ってくれたんだな。無事でいてくれて、本当に嬉しいよ」
真也は少し照れたように視線を泳がせ、不器用な表情で答える。
「そりゃあ、あんな場面で“約束して”だなんて、自分でも柄にない啖呵を切ったような言い方をしたんだし……それに守らないと、後で静那に何を言われるか分かったもんじゃないでしょ」
静那は二人の間で交わされる「約束がどうとか」という密やかな会話を聞きつけ、大きな瞳を不思議そうに瞬かせた。
でもそこは、諭士たちが「男同士の脱走作戦についての反省会だよ」と口を揃えて、なんとかその場をごまかし通した。
* * * * *
そこから三十分ほど、足音に気を配りながら静かに歩き続けた後、ようやく眠らない繁華街の入り口へと出た。
まだ真夜中というには早い時間帯だったこともあり、住宅街を抜けた先にある飲み屋が軒を連ねる繁華街は、人工的な光で眩しいほどに明るかった。
やっと人目に紛れられる安全な場所に出たと実感し、諭士の険しかった表情も、ようやくわずかに緩んだ。
「この辺りなら派手に絡まれることもないだろう。よし! 今日はもう、体を休めるためにあそこで寝よう」
諭士は、夜の闇の中でやたらと煌びやかにライトアップされた、まるでお城のような奇抜な外観の建物を指差した。
「あそこ? って、あの大きな建物?
なんだかお城みたいな不思議な造りの建物だね。それにライトがすごくキレイ。
このお城、東京の何かの有名な観光地かな?」
静那が純粋な好奇心で尋ねる一方で、真也は少し戸惑った様子で聞いた。
「諭士さん、あそこって本当に僕たちが泊まってもいいホテルなんですか?」
「ああ、そうだぞ。自分も実際に利用するのは初めてのタイプなのだが、伝え聞くところによれば、部屋も広々としていてなかなか良いらしいぞ」
死の淵から脱出し、やっと極限の緊張感から解放された三人。
彼らはそのまま、吸い寄せられるようにその“お城のようなホテル”の自動ドアへと足を踏み入れていった。
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