1-1 脱出
【1話】Aパート(+プロローグ)
『世界がまさに滅びんとするとき、世界各地に虹の天使が現れる。
彼らは誰の命令でもなく、自分の意志で、平和のために全力を尽くすだろう』
アメリカ先住民・ホピ族「虹の戦士」の伝説より――
* * * * * *
20××年――日本ではない、どこか。
地下施設の重い扉が開いた。
次の瞬間、白く焼けつくような光が差し込む。
長い闇に慣れた目には、それだけで痛みを感じるほどだった。
ガラガラと崩れた瓦礫を踏み越え、一人の青年が地上へ姿を現した。
年齢は二十代前後だろうか。
青年は目を細めながら、ゆっくり空を見上げる。
雲の切れ間から差し込む太陽の光。
久しぶりに見る、本物の空だった。
青年は周囲を慎重に見渡した。
崩れた建物。
ひび割れた道路。
風に舞う灰。
だが――
「……地形は大きく変わってないな。瘴気も感じない。どうやら大丈夫そうだ」
小さく息を吐き、地下へ向かって手を伸ばす。
「静那。こっちだ。出られるか?」
暗い地下通路の奥から、一人の少女が顔をのぞかせた。
白い指が青年の手をつかむ。
不安定な足場に足をかけながら、少女はゆっくりと地上へ姿を現した。
風が吹く。
淡いブロンドの髪が、太陽の光を受けて揺れた。
静那と呼ばれた少女は、まぶしそうに空を見上げる。
「久しぶりの光……太陽……」
「ああ。無事に出られたみたいだ」
青年は静那の様子を見て問いかけた。
「歩けるか?」
「うん……少し体が痛いけど、なんとか」
「無理するな」
青年はしゃがみ込む。
「ほら、乗れ。鉄道まで行けば、あとは日本へ向かえる」
静那は少し迷ったあと、小さく背中に身を預けた。
「……帰ろう。みんなの故郷へ」
その弱々しい声に、青年は笑う。
「何言ってるんだ。静那にとっても故郷だろ」
静那は目を丸くしたあと、少しだけうれしそうに微笑んだ。
青年は少女を背負ったまま、ゆっくり歩き出す。
崩壊した世界に、風だけが静かに吹いていた。
「帰ろう、日本へ」
青年は前を見据えながら言う。
「戻れば、きっと希望はある」
――あの日。
世界は、終わるはずだった。
これは、彼らが世界を巡り、
終末の崩壊を食い止めた記録である――
* * * * *
物語は、一九八九年へさかのぼる。
アジアから、ソ連南方の国『グルジア』へ向かう旅客機の中。
小型機のため機体は揺れやすく、窓の外では分厚い雲が流れていた。
その機内に、一人の日本人の少年がいた。
少年は窓側の席で、強張った顔のまま外を見つめている。
飛行機が揺れるたび、肩がびくりと震えた。
その隣では、一人の青年が穏やかな表情で座っていた。
「真也君。大丈夫だよ」
青年――諭士は、安心させるように微笑む。
「初めての飛行機だから怖いかもしれないけど、この程度の揺れで落ちたりはしない」
「……でも諭士さん、なんだか怖いよ」
「気づいた頃には空港さ。ほら、少し寝なさい」
その時、後ろから客室乗務員が毛布を差し出した。
真也は驚いたように顔を上げる。
外国人の乗務員・スチュワーデスさんだ。
真也は小さく頭を下げ、両手で毛布を受け取る。
「……ありがとうございます」
か細い声だった。
三杉真也
日本の孤児院で暮らす少年。
引っ込み思案で、人と話すのが苦手だった。
施設でもいつも一人でいることが多い。
そんな彼の隣にいる諭士は、孤児院の管理者だった。
今回、諭士は『チェチェン共和国』で依頼を受けていた。
そのため現地へ向かうことになったのだが――
せっかくなら、と諭士は真也を気分転換のために旅へ連れ出した。
長いあいだ不登校気味だった彼に、少しでも外の世界を見せたかったのだ。
飛行機の揺れが落ち着き始める。
諭士は眠そうな真也へ、静かに声をかけた。
「向こうへ行けば、きっと友達ができるよ」
真也は半分眠りながら、小さく返事をする。
「……ん」
そのまま目を閉じた。
諭士は優しく毛布をかけ直す。
「おやすみ、真也君」
* * *
翌日。
二人はグルジアの都市『クタイシ』へ到着した。
空港を出ると、冷たい風が吹きつける。
諭士は空港近くで借りた車に荷物を積み込み、そのまま北へ向かった。
真也は助手席から外の景色を見つめる。
見たことのない山々。
岩肌むき出しの大地。
遠くに見える鉱山施設。
日本とはまるで違う景色だった。
曲がりくねった山道を、車は進んでいく。
しばらくすると、硫黄のような匂いが窓の隙間から入り込んできた。
「真也君。酔ってないか?」
諭士が気遣うように尋ねる。
真也は小さく首を横に振った。
「……大丈夫です」
本当は少し気分が悪かった。
だが、自分のせいで迷惑をかけたくなかった。
「もう少し頑張ろう。あと三時間くらいだ」
「……はい」
やがて夕方。
西日が山肌を赤く染め始めた頃、小さな集落が見えてきた。
まばらに建つ家々。
静まり返った盆地。
遠くを走るトラックのエンジン音。
その中の一軒から、大柄な白人男性が姿を現した。
軍人のような体格。
男は大きく手を振る。
『こっちだ! ムトウさん!』
諭士はすぐに依頼主だと気づき、車を近くへ停めた。
『初めまして。日本から来ました、武藤諭士です』
『よく来てくれた! 私はミシェル・アゼフだ』
二人は固く握手を交わす。
その後ろで、真也は緊張した様子のまま立ち尽くしていた。
すると、ミシェルが真也の方へ視線を向ける。
「三杉真也君……だね?」
真也はびくりと肩を震わせた。
だが次の瞬間、さらに驚く。
「武藤さんから話は聞いています。これからよろしくお願いします」
日本語だった。
少したどたどしいが、はっきり通じる日本語。
真也は思わず目を見開く。
海外で、突然日本語を話しかけられるとは思っていなかったのだ。
諭士はそんな真也を見て、面白そうに笑った。
「驚いただろ?」
真也は小さくうなずく。
だが、それ以上に気になる言葉があった。
「……これから、って?」
「ああ。実はね。」
諭士は荷物を持ちながら言う。
「この家の娘さんが、これから日本の孤児院で一緒に暮らすことになるんだ」
「娘さん……?」
「名前はシーナ。真也君と同い年くらいかな」
その時。
家の奥から、小さな足音が聞こえてきた。
トタトタ、と軽い足音が近づいてくる。
真也は思わず音のした方へ顔を向けた。
そして――部屋の奥から、一人の少女が姿を現す。
白に近いブロンドの髪。
透き通るような白い肌。
大きな瞳が、不安そうに、それでいて興味津々に真也を見つめていた。
年齢は真也と同じくらいだろうか。
少女は真也の前まで来ると、ぴたりと立ち止まる。
そのまま、ぎこちない動きで一礼した。
「ワァタシの名前は……シーナ、です」
一生懸命覚えたのだろう。
たどたどしい日本語だった。
「これから……よろしく、おねがいします」
部屋の空気が静かになる。
諭士が嬉しそうに拍手した。
ミシェルも笑顔でうなずきながら拍手する。
だが――
真也だけは固まっていた。
真正面から女の子に話しかけられること自体、ほとんど経験がない。
しかも相手は、外国の少女。
さらに自分へ向けて、一生懸命日本語を話してくれている。
顔が熱い。
何を言えばいいのか分からない。
「こら、真也君」
諭士が小さく肩を叩く。
「ちゃんと挨拶しないと」
「……あ」
真也は慌てて口を開いた。
だが、シーナと目が合った瞬間、また言葉が詰まる。
満面の笑顔で見つめられていた。
その笑顔がまぶしすぎて、まともに直視できない。
「あの……み…三杉、真也です」
目をそらしたまま、小さな声で続ける。
「よろしく……お願いします」
シーナの顔がぱっと明るくなった。
「シンヤ!」
発音は少し違ったが、自分の名前だと分かる。
「シンヤー! シンヤー!」
うれしそうに何度も呼ぶ。その様子を見て、ミシェルが笑った。
『よかったな、シーナ。日本のお友達ができたじゃないか』
『うん!』
真也はどう反応していいか分からず、ただ赤くなって立ち尽くしていた。
その時、ミシェルが思い出したように声を上げる。
『そうだ。今日はもう一つ大事な話があったんだ』
『なに?』
『明日はシーナの十歳の誕生日だろう?』
シーナの目が輝く。
『だから、少し早いけど誕生日プレゼントを用意した』
『本当!?』
シーナは勢いよくミシェルの腕に抱きついた。
『ありがとう、お父さん!』
その笑顔は太陽みたいだった。
真也は、その光景を黙って見つめる。
誰かに抱きつくこと。
誕生日を祝ってもらうこと。
プレゼントをもらうこと。
自分には、ほとんど縁のなかったものだ。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
諭士はそんな真也の表情に気づき、苦笑いを浮かべる。
急にこんな明るい親子の中へ放り込まれたのだ。
戸惑うのも無理はない。
一方、シーナは待ちきれない様子だった。
『どんなプレゼント!? 早く見たいな!』
『落ち着きなさい。化粧台のところに置いてあるよ』
『見てくる!』
シーナは勢いよく隣の部屋へ駆けていった。
バタバタと騒がしい足音が遠ざかっていく。
ミシェルは苦笑しながら真也を見た。
「元気な子でしょう?」
「…はい」
「でも優しい子です。仲良くしてあげてくださいね」
真也は小さくうなずいた。
さっきより少しだけ、ちゃんとミシェルの目を見て。
その直後だった。
隣の部屋から、再び勢いよくシーナが飛び出してきた。
「シンヤ!」
耳元の髪をかき上げる。
そこには、小さな白いイヤリングが揺れていた。
雪玉のように白く、丸い飾りだった。
「ドウ、デスカ!?」
シーナは期待に満ちた顔で身を乗り出す。
距離が近い。
真也は反射的に後ろへ下がった。
「え、あ……その……」
言葉が出ない。
シーナは不安そうに首をかしげる。
「……ヘン?」
諭士が横から笑う。
「違う違う。真也君は、きれいすぎて言葉が出ないんだよ」
「!?」
真也の顔が一気に真っ赤になる。
シーナはきょとんとしたあと、うれしそうに笑った。
「キレイ?」
そう言いながら、イヤリングを大事そうに指で触れる。
ミシェルは優しく目を細めた。
『とても似合ってるよ、シーナ』
『ほんと?』
『ああ。まるでお姫様みたいだ』
シーナは照れくさそうに笑った。
その光景を見ながら、真也は不思議な感覚を覚えていた。
ここは異国だ。
言葉も文化も違う。
なのに――
なぜか少しだけ。
ほんの少しだけ、この場所が温かく感じられた。
* * * * *
その夜。
チェチェンの山間部は、春でも冷え込みが厳しかった。
家の中央では薪ストーブが赤く燃えている。
火のはぜる音だけが、静かな室内に響いていた。
夕食は簡素なものだった。
保存用のスープを湯で溶かし、固い黒パンを添える。
だが、冷え切った体には十分ありがたい。
シーナはストーブの前にしゃがみ込み、小鍋のお湯をじっと見守っていた。
時おり、耳元のイヤリングに触れる。
そのたびに、うれしそうに小さく笑った。
真也はその様子を、少し離れた席からぼんやり見つめていた。
「……」
シーナは、本当に感情が分かりやすい。
うれしい時はすぐ顔に出るし、楽しい時は全身で表現する。
真也とはまるで正反対だった。
「真也君」
諭士が小声で話しかける。
「少し緊張ほぐれたか?」
「……はい」
「よかった」
諭士は安心したように笑った。
* * * * *
その後。
食堂の下の階では、ミシェルと諭士が向かい合っていた。
部屋の空気は、先ほどまでとは違う。
静かで、張り詰めていた。
ミシェルが低い声で切り出す。
『アメリカとソ連が、今年中に冷戦終結を宣言するという話があります』
諭士は静かに耳を傾ける。
『流れは止まらないでしょう。ですが問題は、その後です』
ミシェルは机の上に広げた地図へ目を落とした。
『ソ連が弱まれば、各地で民族問題が噴き出す。紛争は必ず増えます』
『……チェチェンも、ですか』
『ええ。ここも安全ではいられない』
ストーブの火が小さく揺れる。
ミシェルは苦しそうに息を吐いた。
『だからお願いがあります』
その表情は、父親の顔だった。
『シーナを、日本へ避難させてほしい』
沈黙が落ちる。
諭士はゆっくりとうなずいた。
『……最初から、そのつもりで来ています』
ミシェルは少しだけ表情を緩める。
だが、その目には疲れがにじんでいた。
『ありがとうございます。』
『ただ……』
諭士は言葉を選ぶ。
『ミシェルさんは、こちらに残るんですね。』
ミシェルは静かに笑った。
その笑顔は、どこか寂しかった。
『私は残ります』
『理由を聞いても?』
『この土地に、守るべき人たちがいる』
短い言葉だった。
だが、それだけで十分だった。
諭士はそれ以上聞かなかった。
しばらく沈黙が続く。
やがてミシェルが再び口を開いた。
『本当は……あの子も気づいていると思います』
『シーナちゃんが?』
『ええ』
ミシェルは苦笑する。
『あの子は勘がいい。だからこそ、無理に明るく振る舞っているんでしょう』
諭士は昼間のシーナを思い出す。
笑顔。
はしゃぎ声。
無邪気な仕草。
だがその奥に、不安が隠れていたのかもしれない。
『明日、空港で話します』
ミシェルは決意したように言った。
『必ず迎えに行くと。だから待っていてくれと』
諭士は静かにうなずく。
『日本で、責任を持って預かります』
その時だった。
ギィ……
階段の方から、小さな音が聞こえる。
二人が視線を向けると、そこにはシーナが立っていた。
『……お父さん』
笑顔はなかった。
さっきまで大事そうに触っていたイヤリングを、今は不安そうに握りしめている。
ミシェルの表情が固まった。
シーナは小さな声で言う。
『……引っ越しって、やっぱり“そういうこと”なの?』
部屋の空気が凍りついた。
ミシェルは、しばらく言葉を返せなかった。
薪のはぜる音だけが静かに響く。
シーナは階段の途中で立ち尽くしていた。
小さな手で、イヤリングを強く握りしめている。
その瞳は揺れていた。
『……シーナ』
ミシェルがゆっくり立ち上がる。
だがシーナは、一歩だけ後ろへ下がった。
『私、ニホンに行くの?お父さんは……来ないの?』
諭士は黙って二人を見つめる。今ここで口を挟むべきではないと分かっていた。
ミシェルは苦しそうに目を閉じる。
隠し通せるとは思っていなかった。
だが、本当はもう少し後で伝えたかったのだ。
『……ああ』
静かな返事だった。
『しばらくの間、日本へ行ってもらう』
シーナの肩が小さく震える。
『やだ……』
消えそうな声だった。
『やだよ……』
ミシェルは娘へ近づこうとする。
だがシーナはまた一歩下がった。
『だって……!』
声が少し強くなる。
『やっと友達できたのに……!』
涙がこぼれた。
『お父さんとも離れるなんて、イヤだよ……!』
その言葉に、ミシェルは何も返せなかった。
真也は階段の陰から、そのやり取りを見ていた。
眠れずに部屋を出たところだった。
だが今は、動くこともできない。
シーナが泣いている。
昼間、あんなに明るく笑っていた少女が。
胸の奥が、妙にざわついた。
ミシェルはゆっくり娘の前へしゃがみ込んだ。
『シーナ』
震える娘の肩へ、そっと手を置いた。
『お前を危険な目に遭わせたくないんだ』
『でも……』
『聞いてくれ』
ミシェルの声は低かった。
軍人の声ではない。
父親の声だった。
『これから、この国は大きく変わる』
シーナは涙をこぼしながら父を見つめる。
『悪い人たちも増える。争いも起きるかもしれない』
「……」
『だから、お前には生きていてほしい』
その言葉に、シーナの表情が止まる。
ミシェルは娘の涙をぬぐった。
『絶対に迎えに行く』
まっすぐ言い切る。
『約束する』
シーナは唇を噛みしめた。
泣くのを我慢するみたいに。
『……ほんと?』
『ああ』
『絶対?』
『絶対だ』
シーナはしばらく黙っていた。
やがて、小さくうなずく。
『……わかった』
だが、その声はひどく弱々しかった。
ミシェルは娘を抱き寄せる。
シーナも父の服をぎゅっと掴んだ。
その姿を見ながら、真也は胸の奥が痛くなるのを感じていた。
自分には、こんなふうに抱きしめてくれる家族はいなかった。
だからなのか。
この親子を見ていると、苦しくなる。
でも同時に少しだけ、うらやましかった。
その時。
シーナがふと顔を上げた。
涙で赤くなった目が、階段の奥を見る。
真也と、目が合った。
「あ……」
真也は慌てて身を引こうとする。
だが遅かった。
シーナは涙をぬぐいながら、無理やり笑顔を作る。
『シンヤ』
泣いた直後なのに、笑おうとしていた。
『……ゴメンネ』
真也は言葉に詰まる。
何を返せばいいのか分からない。
でも――
気づけば、口が動いていた。
「……大丈夫」
シーナが目を瞬かせる。
真也は自分でも驚いていた。
こんなふうに、自分から誰かへ言葉をかけたことなんて、ほとんどなかったからだ。
「その……」
真也はぎこちなく続ける。
「日本、来たら……」
喉が詰まる。
でも、なんとか言い切った。
「ぼくが……いるから」
沈黙。
シーナはぽかんと真也を見つめる。
次の瞬間――
ふっと、小さく笑った。泣き顔のまま。
でも、さっきより少しだけ安心したように。
「……ウン」
薪ストーブの火が、静かに揺れていた。
外では冷たい風が吹いている。
だがその夜、小さな山奥の家には、確かに温かな灯りがあった。
物語のスタートになります。
こちらは物語本編の【A面】になります。【B面】から読み進んで頂いても問題ありません。、
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