エピローグ~一ヵ月後~
「叔父さまどこ行くの? 私も一緒に行く!」
出掛けようとしていたジャンの後を追いかけるようにオルガが駆け寄って来た。ジャンはオルガの頭を優しく撫でる。
「今日は宮殿の外へ行くからオルガは待っててくれ。……な?」
「いや! ついて行くの!!」
「オルガ、我が侭言わないでくれ」
「一緒に行く!」
服を掴んだまま手を離そうとしないオルガに、ジャンは困り気味だった。
母を亡くしてから、オルガは時間さえあればジャンの傍にいるようになっていた。
ジャンは、母を亡くした淋しさから自分の傍から離れないのだと思っていた。
「オルガ様、ジャン殿下が困っておいでですよ。今日は私と待っていましょうね」
ジルダがオルガを宥めようとするが、それでもオルガは聞こうとしない。
ジャンは諦めたように溜息を吐いた。
「分かったよ、一緒に行こう。……ジルダ、兄上にこのこと伝えておいてくれ」
折れたジャンにオルガは嬉しそうに笑顔を向けた。
「しかし宮殿の外へなど……」
「俺がすべての責任を持つから。よろしく頼む」
ジルダも困惑しながらも承諾するしかなかった。
ジャンは一頭の馬にオルガを前にして二人で騎乗し、出掛けて行った。
「叔父さまここどこ? 綺麗なところね」
「ここはモンシェルジュリーの森といってな、アンジェリーヌが……お前の母がとても愛した場所だよ。俺と出逢ったのもこの場所だったんだ」
「じゃあ叔父さまにとっても大切な場所なのね?」
「そうだよ」
ジャンは馬から先に降り、オルガを抱き馬から降ろした。そして湖のほとりへ近寄ると、懐から包み紙を取り出し大事にそれを広げる。
包まれていたのはアンジェリーヌの髪。バラバラにならないよう紐で縛ってあった。
彼女の魂が眠るこの森に、彼女の一部だけでも埋めてやりたかったのだ。
オルガが不思議そうにそれを見つめていた。
「これはアンジェリーヌの髪だよ。彼女はとてもこの森を愛していたから、ここへ連れてきてあげたんだ」
ジャンはオルガにそう説明した。
「お母さまもこうしてよく宮殿から出てここへ来てたの?」
「いや。兄上と……お前の父と結婚する前までだよ。王妃となってからは宮殿から自由に出られなかったし……な。……アンジェリーヌは元々宮廷画家の娘で、ここへも絵を描きに来ていたんだ。貴族だったけど自由に行動出来る身だったから、森のこんな奥へも自由に出入りしていたんだよ」
「お母さま、この森の絵を描いたのね。……見てみたかったなあ」
オルガも絵を描くことが好きなのはジャンも知っていた。だから思った。この娘はこの森をどんな風に描くのだろうかと。
ジャンは髪を包み込むように手に取り、湖の中にその手を入れ、ゆっくりと髪から手を離した。
ジャンの胸に淋しさが込み上げる。ジャンは気持ちがまた後戻りした気がした。
アンジェリーヌを失って以来ジャンは何もする気が起きず、彼女との思い出ばかり思い浮かべては悲しみに暮れていた。
こうしてやっと森へ来る気持ちなれるまでに一ヶ月もかかってしまった。
今彼女の一部を手放したことで、また喪失感と脱力感が襲ってきたのだ。
「……オルガ、どうした?」
突然片腕を両腕で抱きつくように掴んできたオルガにジャンは戸惑う。まるで悲しみから引き戻そうとしているように思えた。
「叔父さま、淋しいの?」
心配そうに見つめてくるオルガに、ジャンは心を見透かされた気がした。
「……淋しいよ。俺にとってアンジェリーヌは掛け替えのない人だったからね」
そう答えたジャンの腕を、オルガは離すまいとするように更にぎゅっと腕に力を込める。
「淋しくないように私がついてるわ。お母さまの代わりに私が傍にいてあげる。お母さまとそう約束したんだもの」
「約束?」
「うん。お母さまと最後に会った時約束したの。お兄さまがお父さまを、私が叔父さまを支えてあげてね……って」
オルガは幼心に常に自分を気にかけてくれていたジャンに信頼感を寄せていた。
ジャンは貴族の身であった時も、時々遊び相手になっていた。そして王族に戻ってからは、母を心配するオルガにアンジェリーヌの様子や話したことなど聞かせていた。それがオルガにとって父を慕う気持ちと似た思いを抱かせていたのだった。
アンジェリーヌは最後に会った時オルガのその思いに気づき、娘とこのような約束をしたのだった。
自分の代わりにジャンの傍にいてあげてね―――と。
娘の淋しさを、ジャンの悲しみを、互いの存在が癒してくれるだろうと考えたのだった。
「アンジェリーヌ、……お前は大切なこの小さな天使を俺に預けてくれたんだな」
ジャンは目頭を押さえた。
(俺のこの悲しみを癒してくれるために……。娘の淋しさを救うために……)
ジャンはオルガに微笑んだ。
「ありがとうな、オルガ」
つられるようにオルガも笑顔を浮かべた。
―――その時。
『娘をお願いね、ジャン』
ジャンの耳にアンジェリーヌの声が聞こえた。ジャンは驚き辺りを見渡すが、彼女の姿はどこにもない。
(……空耳か?)
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
不思議な思いだった。何故かジャンにはそれが空耳ではなく、彼女の魂が伝えたものだと思えた。
ジャンは傍らにいるオルガに優しい眼差しを向ける。
(アンジェリーヌ、俺も約束するよ。オルガが誰かを愛し、その人と結ばれ離れていくまで傍で守っていくと。……お前の代わりに成長を見届けるよ)
その瞬間ジャンは生きがいを得た思いがした。アンジェリーヌを失いポッカリ空いた心の隙間を、オルガの存在が埋めてくれたのだった。
「オルガ、そろそろ宮殿に戻ろう。兄上やジルダも心配しているだろうし」
「えー、まだ居たいわ」
「また連れて来てあげるから。……そうだな、今度は俺とオルガと兄上とフレデリック、皆で来よう」
「絶対に連れて来てくれる?」
「もちろん」
「……分かったわ、叔父さま」
仕方なさそうに渋々納得してオルガは言った。
ずっと大事に二人の秘密にしてきたこの場所。アンジェリーヌを愛する者達にだけ、彼女の魂が眠るこの森を知って欲しいと思った。
「じゃあ行くぞ」
「うん」
再び馬にまたがり、二人は森を後にする。
馬を駆け出させる前、ジャンはもう一度湖を振り返った。
(また来るよ、アンジェリーヌ)
ジャンは、アンジェリーヌが湖のほとりで座り笑顔で見つめている、そんな気がしたのだった。
〈終わり〉