雷国の現状とヴァリスの思惑
宮殿の敷地の上空を飛行して、ゆっくりと眺める余裕はない中でも、なんてでかい宮殿だと類は思った。後宮へ来た時も思ったが、その時は全体像は見えなかった。
敷地の周囲をバカ高い城壁が囲んでいる。その範囲の広さを見て、宮殿の敷地だけで一つの大きな町のようだ。国を動かすのに必要な場所が全て揃っているのだから当たり前なのか。
上空は風が強い。手はしっかりと握られているが、心もとない。今手が離れたらという想像が定期的に脳裏をよぎる。
考えないようにしようと思うが、まだ出会ったばかりのヴァリスを完全に信頼しろという方が無理な話だ。
「まずは城下町に降りてみましょうか」
そう言ってヴァリスは城壁を越えた後、徐々に下降した。
建物の陰に無事降り立って、類はひとまずほっとした。落下して地面に激突するかもしれないという想像は杞憂に終わった。
周囲を見回す。何の店なのか、大きな建物の裏手の路地裏のような場所にいるので誰の姿も見えない。
「とりあえず、見るだけでいいのですか?」
「ええ、そうよ。見るだけ。あなたのその目でね」
わけがわからないながらも、命の恩人であるヴァリスの言うことを聞かない訳にはいかない。
ひとまず路地裏から出ようと思い、建物沿いに歩いた。隣の建物との間の細い道を通り、表へ出る。ヴァリスは後ろから何も言わずに付いてくる。
表通りは上空から見ていて建物が多く賑わっているのは分かっていたが、近づくとよりそう見えた。
カラフル! とまずは率直にそう思った。色とりどりの衣装を取り揃えた店には若い娘たちが和気あいあいと出入りしている。着ている衣装はどれもオシャレに見えた。
果物や野菜を店いっぱいに広げ、切り盛りしている店主の顔は生き生きしている。路地裏から見ていた大きな建物は酒場だったのかと気付いた。昼間から飲んだくれたオヤジたちが酒瓶を手に出てきたからだ。お互いの肩に腕を回し、歌を歌いながら千鳥足で去っていく。それはそれは楽しそうに。
後宮の中よりも、ヨーロッパっぽい空気が感じられる。人間界の都会のような高いビルのようなものはないが、古き良き、というような雰囲気。誰もスマホのようなものは持っていないので、そういう機械類は使わないのだろうかと思った。
人間界の自室に置いてきたスマホのことを考え、ふと自宅や家族を思い出した。
家族は心配してるだろうな。
「平和そうに見えますが」
雷帝の治める国はどんなものかと思っていたが、案外ちゃんとしているではないかと思った。国政など全く分からない類が言うのも何なのだが。見たところ、住民も生き生きと楽しそうに見えるし、特段問題ないように感じられる。
「そう? じゃあ移動しましょうか」
「え!?」
また路地裏に戻り、再び上空へ飛び立つ。少し慣れた気がするが、やはり怖い。せっかく地上に降りられたと思ったのに。これから定期的にこれを経験しなければならないのか、とげんなりした。類は高いところが得意な方ではない。
かなり高く舞い上がり、もうどうにでもなれという投げやりな気持ちになった。ここまで高ければ、もし仮に手が離れても、スカイダイビングのように地面に激突する前にパラシュートを開くが如くヴァリスにまた拾ってもらえるだろうとポジティブに考えるようにする。
豆粒のような建物の数が、ある地点を堺にみるみる減ってくる。平地が多いが、遠くには山も見える。
(星一つが全て国なんだもんね。そりゃあ広大だよね)
考えているうちに、ヴァリスが下降を始める。あの少し建物が密集している地点に降りるのだろうか。宮殿近くと比べると随分田舎っぽい。
町の中の大きな木の陰に降りた。町というより村のようだ。わりと広い範囲に建物が点々としていて、畑が多いので周囲がよく見渡せる。干し草と動物の糞が混ざったような家畜小屋の匂いが漂ってくる。
少し離れた中心地のような場所には市場や酒場らしき店が集まっていた。しかし昼間なのに人はあまりおらず、賑わってはいない。
曇っているせいなのか、何となく陰気な雰囲気に見える。近くの木の太い幹から沢山の枝分かれした枝が、亡者の手のように空へ向かって伸びていておどろおどろしい。
僅かに出歩いている人々の表情も暗く見える。
「何だか、城下町とは全然違いますね」
類が言うと、ヴァリスはコクリと頷いた。
「ええ。雷国で栄えているのは大きな町だけ。地方の町や村はこの通りなのよ」
「何ででしょう? 雷帝は天上界の支配者と言われていると聞きましたが」
「雷帝はね、不器用な方なの。複数のことに一度に目を向けるのが苦手なのよ。国政は官吏が行っていて、雷帝はほとんど口出ししていない。でも近頃相次いで事件が起きてね、官吏が何人も粛清されて、そのせいで国政が回らなくなっているのが現状よ。貧しさで住民にも不満が溜まってる、なかなかの危機的状況よ」
「粛清をしたのは雷帝なんですよね!? なんで国政に口出ししないのに粛清するんですか!?」
ヴァリスははぁとため息をつく。
「いろいろと説明不足ね。でもそれには最初にこれを言っておかないといけないわね。下々の者には話せない話だから」
そう言って、類を黒い瞳で真っ直ぐに見据えた。
「私は、あなたを雷帝の正妻に据えたいと思っているの」
類はヴァリスの放った言葉の意味をしばらく理解出来なかった。
雷帝の正妻……皇后。
確かシルヴァの話に出てきた。
この雷国には、未だかつて皇后が立ったことはないと。
今、ヴァリスは何と言ったのか。
「お、お言葉の意味が……」
「雷帝には、すばり意見する者が必要なのよ。今は雷帝を恐れるあまりその人材が少なすぎる。私は口出しするけれど、一定の距離を保たれていてそれ以上踏み込めないところがあるの。それをあなたにやって欲しいのよ、ルイ」
「そ、そんなことを言われましても……」
類は混乱する。あの時のアレを見て目をつけられたのだろうが、アレは後先考えず暴走しただけであって、ただの無鉄砲だ。それをそこまで評価されても困ってしまう。
「あなたはそこまでのことをしたつもりはないのかもしれないけど、私は衝撃を受けたわ。ここまで雷帝に正論をぶつけられる女はいないと。少なくとも、今までは現れなかった。ただ一人を除いては」
類はシルヴァの話を思い出す。その一人というのは、もしかして……
「光の女神レム様。雷帝にとって二人といない大切な人よ。その方以外では、あなたが初めてよ、ルイ」
つまり、自分はその人の代わりということか? “レム”という人の。
「レム……様は、どこにおられるのですか?」
「それに答えるには、さっきも言ったとおりいろいろと詳しい説明をしないといけないわ。皇后になる気があるなら教えてあげる。正直最初は勝手に進めようかと思っていたけど、やっぱり都合上言っておいた方がいいかと思い直したの」
うふふっと赤い口元を吊り上げて笑うヴァリスは、自信たっぷりだった。類が断ろうがなんだろうが、皇后に祭り上げられてしまいそうな感じだ。
「い、いえ、私は、申し訳ないですが皇后になる気はありません」
早めに断っておいた方がいいだろう。いろいろと進んでしまってからでは手遅れになるかもしれない。勝手に進められなくて本当に良かった。
第一、あの雷帝の妻になるなど自分には無理だ。側室になるのも嫌だと言ったのに、皇后になることを了承するとでも思ったのだろうか。何となくヴァリスに雷帝の横暴さと似通った部分を感じてしまった。
「んもう。了承してくれないと説明が出来ないじゃない。空気読めないわねー。私は諦めないわよ。ずっと探していたんだから。皇后になれる人材を」
やはり断っても諦めない。これは長い戦いになるかもしれない。
「申し訳ありません」
念を押すようにもう一度断る。
ヴァリスはふぅと息をついて、とりあえず今日は戻りましょうか、と言った。
今日連れて来られたのも、これから行う予定の仕事も、皇后にさせるための一環なのだろう。聞く前に決めてるじゃないか、と思いながら類は丸め込まれないよう気を付けようと決心した。
再び空中散歩して、いくつかの町や村を見てから後宮へ戻った。どこも城下町ほど栄えてはおらず、完全に廃れているような場所もあった。
結局ヴァリスからは中途半端に情報をもらっただけで、消化不良で気持ち悪い。
雷帝が官吏を粛清した理由、レムという人物の居場所など知りたいことが増えただけだ。
類には関係ないと言えば関係ない。ここを去るつもりなのだから、知らなくても別にいいはずだ。しかし少しだけ気になった。特に光の女神レムなる人物のことが。
おそらくこの人物が、雷帝の想い人なのだろう。
女神ということは、雷帝と同格なのか。遠い昔から、ずっと一緒にいたのだろうか。今はどこにいるのか。
あの雷帝の想い人。一途な雷帝など想像出来ない。一体どういう関係だったのか。
そしていやいや、やはり自分には関係ないと強制的に思考を停止した。
後宮の敷地内を飛行していて、大きな屋敷が見えた。側室の屋敷だろうか。
「あれは、どなたのお屋敷でしょうか?」
「……エリサベトよ。あれからずっと塞ぎ込んでるみたいね」
エリサベトの。
お目通りの際のあの姿を思い出す。今にも自ら命を断ってしまいそうな、絶望の表情。
類はふと、行かなければならないような気がして、ヴァリスの手をぐっと握った。ヴァリスは気付いたように、速度を落とした。
「寄るの?」
「良いのですか?」
「さぁ。あなた次第よ」
「……お願いします」
エリサベト邸の前には護衛がずらりと立っていた。ヴァリスの姿を見て、皆頭を下げた。そのうちの一人が屋敷へ入っていく。
そして間もなく扉の中から女官が慌てて駆け出してきた。
「これはヴァリス様! どのような御用でしょうか」
「私じゃなくて、ルイからエリサベトに用があるみたいなの」
「ルイ……様から?」
類は女官に向かって遠慮がちに話す。
「エリサベト様にお会い出来ないでしょうか。少しお話したいのですが」
女官は気まずそうな顔で類を見てから、チラリと類の隣に立つヴァリスを伺い見た。
「エリサベト様にお伺いして参ります。少々お待ちください」
そう言って屋敷へ入って行った。
やがて戻ってきた女官は、「どうぞ」と言って、類に付いてくるよう促した。
「気をつけて、行ってらっしゃい」
ヴァリスは意味深に微笑んで、類を見送った。
シルヴァ邸と違い、廊下には絵画や花はあまり飾られておらず、高級そうな壷や、パワーストーンのような不思議な色合いの大きな石が所々に飾ってあった。
「エリサベト様は、極めて不安定な状態です。くれぐれも言動には気をつけてください。何かあったら、すぐに扉の外の女官を呼んでください」
そう話す女官は何となく気疲れしているように見えた。それもそうか。あのような、いつ自死するかも分からない状態の主から片時も目を離すことが出来ないのだろう。常に誰かが神経を張り詰めて見張っていなければならない。シルヴァ邸とは、漂う緊張感が別次元だと感じた。
階段を上がり、一番奥の一際豪華な扉の部屋の前で女官は立ち止まった。
「エリサベト様。ルイを連れて参りました」
女官が言うと、しばらくして、掠れたようなか細い声が聞こえてきた。
「入れてちょうだい」
扉の両脇に立つ女官たちが扉を開ける。案内してくれた女官が、類を見て頷く。
ゴクリと唾を飲み込み、類は部屋の中へ足を踏み入れた。




