エリサベト邸で
香の香りはしない。うっすらと、お粥のような匂いの漂う空間で、類は立ち尽くした。
部屋へ入ってすぐに、まるで怪談に出てくる夜叉のように、とかしていないのだろうところどころ解れた長い茶髪を顔にかけ、その隙間から虚ろな目を覗かせるエリサベトが、少し大きめの高級そうな椅子に腰掛けている姿が目に映ったからだ。
窓は閉ざされ、椅子の側にあるテーブルに置かれたオレンジ寄りの黄色いランプの光だけが、広い部屋の中の唯一の明かりだった。
ギィ
と、エリサベトの座る椅子が軋む音がする。
「····哀れんでいるんでしょう?」
突然声を掛けられ、類はビクッとした。その声は掠れていて、覇気がなかった。来てはみたものの、言葉が出て来ない。
髪の隙間から、蔑むように自虐的な笑みを浮かべる口元が見える。紅もさしていないようだ。それでも、色のないその顔は端正に見えた。
「愛されたくて、私だけを見て欲しくて、見向きもされなくなった私を、哀れんでいるのよね?」
エリサベトは、白いローブのような簡易に布を重ね合わせ紐状の布で縛っただけの衣装を着ていて、本当に幽霊のようだ。体は口を動かす度、フルフルと震えている。その姿からは、堪えきれない苦しみや悲しみの念がひしひしと伝わってくる。
「お前には····分からないわよ。雷帝に愛されて、幸せになって、その後どん底に突き落とされる苦しみは····。嫉妬に狂う自分を、止められないのよ。どうやっても止められないの! 雷帝の心が欲しくて欲しくてたまらないのよ!!」
震えながら突然狂ったように叫ぶ姿を見て、自分には荷が重すぎると思った。放っておけなくて勢いで来てしまったが、エリサベトの気持ちを受け止めきれない。類には分からない。理解しきれない。人を愛したことがないのだから。
そんな類がエリサベトを救おうなど自惚れだと今更ながら気付いた。
『哀れんでいる』というのは本当にそうかもしれない。
後宮へ来なければ、この女性には別の人生があったはずだ。こんな風にはならない人生が。
「貴女は悪くない」
それしか言えなかった。これは本当にそう思う。
エリサベトの動きがピタリと止まった。
「悪いのは雷帝です。愛する人が他の女の元へ通うのを嫌うのは当然のことだと思います」
それは類でも想像出来る。
「······」
背もたれにぐったりともたれ掛かっていたエリサベトの体は、再び震えながら前のめりになり、膝の上に顔をつけるようにして両手をその脇に持っていく。長いいくつかの髪の束がぱらりと床に落ちる。
「····誰も····そんなこと言ってくれなかったわ····私が悪いと。私の性格が悪いからそうなるのだと。私は····誰からも必要とされない。雷帝からも、女官からも、誰からも! ここへ入って、雷帝が来られなくなってからずっとそう思いながら生きていたの····っ」
そう言って、エリサベトは泣きじゃくった。元々プライドが高いなら尚更、耐え難い苦しみを味わってきただろうことは明白だ。ここまでの苦しみを与えた張本人は、おそらく何も感じていないのだろう。雷帝のエリサベトに対する冷たい態度を思い出す。
しばらくの間、エリサベトは泣いていた。声を上げ、時に叫ぶように。
類はその間、ずっとその場に立っていた。
やがて落ち着いたのか、エリサベトは鼻をすすりながら声を上擦らせて言った。
「何故、ここへ来たの····?」
そう言われて、類はどう答えるべきかと思った。屋敷の上空を通り、何となく放っておけない気がして勢いで来てしまったのだが。放っておくと死にそうだからなどとは言いにくい。
「私が今にも死にそうだから? 死んだら迷惑? ····っ。····お前が側室になるのを断ったことに感謝なんかしないわよ。雷帝に歯向かったことも。····っ。私のためなんて言わないでちょうだい。偽善者」
先に言われてしまった。
しかしセリフとは裏腹に、時折しゃくり上げながらのその口調には勢いがなかった。弱々しくて、何かに縋りたいと手を伸ばしている子供のようだ。
「貴女に死んでほしくありません。だから来ました。雷帝のやり方は間違ってます。貴女を始め、後宮の女性たちの待遇を何とか出来るのは雷帝しかいない。でもそこをないがしろにする雷帝に腹が立って、あの時はただ、後先考えず感情的に怒ってしまっただけです」
「私の待遇を、雷帝が何とか出来るって? どうやって? ····っ。私だけを愛してくれることを望んでいるのよ? 私だけを后にして一生私だけを見続けてくれるようになるとでも言うの!?」
「それは····雷帝以外に目を向けられるようにするしかないと思います。どう考えても、一人の夫が複数の妻を持つとなると、こういうことが起こるのは避けられません」
「私にここを出て行けって? それでどうしろと言うの!? 雷帝に焦がれたまま他の男と幸せになれると思う!?」
最初から間違っていると思った。複数の側室を迎えたこと自体が間違い。
エリサベトはただの犠牲者だ。この状況を作った雷帝が悪いに決まっている。
ヴァリスも、類の言ったことは正論だと言っていた。おそらくヴァリスもそう思っていたのだろう。でもそこに踏み込むことは出来なかった。一定の距離を保たれていて、それ以上踏み込むことは出来ないとは、そういう意味だったのだろうか。
ヴァリスは、類にそこに踏み込んで欲しいと言った。
皇后になることは出来ないが、雷帝に物申す権限を与えられるのであれば、言いたいことは山ほどある。
「何で黙ってるのよ····。ここへ来ておいて。私に死んで欲しくないなら、責任取りなさいよ。毎日ここへ来て私の話し相手になりなさい。そうでなければ、すぐにでも死んでやるから」
何という脅しだ。少し落ち着いた様子のエリサベトの眼差しは本気だった。類はコクリと頷いた。
「分かりました」
それでエリサベトの気が少しでも晴れるのなら、寂しさを紛らわせることが出来、死を考えなくなるのであればそれでいいと思った。元の世界へ帰るまでの間ということになるが。
これも、ヘルガの言う白馬の王子様体質なのだろうか。
類はエリサベト邸の廊下を歩きながらそう思った。
「まあ、結局まだ側室から外されてないし、あんたが庇ったみたいなもんだから責任取るのは当然っちゃ当然よね。ただあのテの女は優しくしたが最後なのは分かってる? まさか中途半端に手出して元の世界へ帰ろうとか思ってるんじゃないわよね?」
食堂でテーブルを隔てて向かい合ったヘルガは呆れたような顔をして言った。
「元の世界へ帰ることは諦めてないけど」
「····甘ちゃん。あんたが帰ったら怨霊と化したあの女の面倒は誰が見るのよ。迷惑千万じゃない。ということで、あんたはあの女が完全回復するまでは帰れないってことになるわね。ご愁傷さま」
ヘルガは頬杖をつきながら、ふっと口角を上げる。
エリサベトが完全回復するまでは帰れない。····それはなかなかに先が読めない。期限までの日数は確実に減っているし、その期限も確かではなく、そもそも天上界から人間界へ帰れるのかどうかすら分からない状態だ。
それを早く確かめなくては。
腹をくくってヴァリスに聞くしかない。面倒なことになったとしても、何もしないよりはマシだ。
今日はいろいろありすぎて聞くタイミングがなかったが、明日は絶対に聞こう。
「そういや、ヴァリスの仕事は何だったの?」
ヘルガはパンを千切りながら聞いてきた。
「あー····それは····」
話の内容が内容なだけに、話していいものか悩む。
ヴァリスに皇后になって欲しいと言われたと言ったら、ヘルガはどんな反応をするだろうか。
「雑用。雷帝に歯向かった罰としてこき使われたよ」
ヘルガは前に類にこの世界に残って欲しいと言っていた。皇后にさせられそうになっていることを言ったらヴァリスに協力しそうなので、ひとまず言わないことにした。
「雑用って、掃除とか? 書類整理?」
「そんな感じ」
「ふーん」
アテが外れたというように、ヘルガはつまらなさそうな顔をした。ヘルガは妙に鋭いので気をつけなければ。ちょっと目が泳いでしまった気がするが、気付かれなかったようだ。
その後黙々と食事して、部屋へ向かう。
明日はヴァリスに事情を話そうと脳内で軽くシミュレーションしながら歩いていると、ヘルガが突然こちらを向いた。
「あんたさ、もし元の世界へ帰れなかったらどうするの? その可能性の方が高くなってきたからちゃんと考えといた方がいいわよ。側室にもなれないし、ヴァリスの寵愛がずっと続くとは限らないしね」
「うん····そうだね」
本当に、もしも万策尽きて帰れなかったとしたらどうしよう。
まさか皇后になるわけにはいかないし。
「その時は、一緒に後宮を出てやってもいいわよ」
思わぬ言葉に、類はヘルガを凝視する。
「ヘルガは女官になるのが目的だったんじゃないの?」
「あんたと一緒なら出てもいいかなと思えるから。その容姿で荒稼ぎ出来そうだしね」
「え? そこ? ····ちょっと感動して損した」
「冗談よ」
ニヒッと笑って、ヘルガは類の額を人差し指で小突いた。
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「ペレさま、こんなとこに呼び出さないでくださいよ〜! 雷帝に見つかったら殺されるじゃないですかぁ!」
「大丈夫大丈夫。今ユリウスはいないはずだから。僕はここから出られないし。急用だからしょうがないじゃん?」
ペレは軽く腕を組んで、呼び出した使い魔と共に形ばかりの夜空の下にいた。
「何ですか? 急用って」
「オルムに伝言お願い。『あの娘はもうユリウスのものにはならないから、オルムに繋げちゃった魂を解放して』って。僕もそろそろバレそうだからトンズラしたいしさ。てか何で僕はこんなことさせられてるんだっけ?」
使い魔は呆れたようにペレを半目で見る。
「それはあなたがオルム様を怒らせて、お詫びとして雷帝の弱味を寄越せって言われたからでしょ?」
「そうだった」
「何で忘れてんですか」
「オルムには『別のことでお詫びするから許してよ〜』とも言っといて」
「····許してくれるとは思えませんけど」
「やっぱり? 薄情な息子だこと」
「息子だなんて全く思ってないと思いますよ? とりあえず伝言は伝えます。受け取ってもらえるかは知りませんよ」
「百倍くらい切実に訴えといて」
「····」
使い魔は長居はしたくないというように、会話が途切れると共にドロンと夜の闇に消えた。
ペレは独り言のように、闇に呟く。
「ユリウスと一番相性の良い娘だったはずなのにね。あげるのが勿体なくなっちゃった」




