第304話 誰を信じればいいのか
ロベルト・ウィスラーナがシエラに話しかけている。
目の前にいた騎士たちの半分以上を、一撃で瀕死の状態に追いやったのに、まるで何事もなかったかのような調子で、他愛のないことだ。とにかく自分は悪くないという話。この状況で自分が悪くないと言い切れる彼の神経はすごい。独善なんてものじゃないが――、しかしこれまで彼が受け、そして抱えて来た心の苦しみは、彼にとってこれと同等の苦痛であったことは想像できる。彼にとっては。少なくとも、僕にはその心情が理解できた。同じ心の傷がある僕には……。
そしてシエラにお兄様が悪ではないことを言い聞かせている。あれは夢だったんだよと。お兄様の暴虐を目の当たりにして呆然自失のシエラを、言いくるめているようだ。
あの魔法を放って以降、まるでたまっていた鬱憤を吐き出したかのように彼は途端に平静さを取り戻し、連続してこちらを襲って来る気配はなかった。まさに目障りな害虫を単にはたき落したとでもいうように。
だが僕らが受けた被害は大きかった。目の前にいるのが只の痩せた男ではない、魔法の実力者と理解した僕らは全員が恐怖を植えつけられて竦み上がった。特にハリエットが意趣返しじゃないが、咄嗟に侯爵に向けて放った火炎魔法の燃え盛る炎が、彼の腕のひと払いによって掻き消されてしまってからは余計にそうだった。魔法効果の無効化は、両者の実力に開きがなければ成し得ない。ハリエットは唖然とし、ロベルト侯にこう警告される。
「二度目はないよ。たとえおまえのような幼い子供相手でも」
そして……、左肩を押さえたオニールが地面に倒れている。オニールだけじゃない、負傷者の多くがもはや自分の身体を支え切れずに、地べたに横たわるしかなかったのだ。ある者は地面を掴んで呻き声を上げ、ある者は聞いたこともないような泣き声を上げていた。地獄に響き渡るような阿鼻叫喚の叫び声だ。そして地面に広がった血とバラバラになった四肢。そして次々意識を消失しつつあるようだった。手足の切断による出血多量と痛みのショックのためらしい。中には激痛のショックで死んだ者もいるだろうとカイトが冷静に言った。
僕は肘を擦り剥いただけで痛かったが、オニールは当初、なんと腕を斬られてなお立ち上がろうともがいていた。地面に右手と膝をついて脂汗を流し、手を貸そうとするカイトを払い除けては姿勢を崩す。いつもは洒落た格好でいい気になっている浮ついた者が、そのときは歯を食い縛り、自らの身なりなどお構いなしの形相だった。が、それはそんなに上手くいかなかった。切断された左上腕から血液がみるみる滴り落ち、衣服に染み渡って衣装を血だらけにしただけでは飽き足らず、地面に血だまりができるほどだった。やがてオニールは崩れ落ち、悪態をつく間もなくいきなり地面に倒れたのだった。
僕はびくっとした。
「えっ、死んだのか……!?」
オニールが顎から地面に激突し、そのまま動かなくなったからだ。
驚いてカイトを見ると、彼は首を横に振って応じる。
「気絶です。顔色もなかったですし、この出血量だと、もうそろそろやばかった。止血しようとしても、興奮して俺を振り払うから。失血死しないといいんですがね」
赤い街灯の光の下、その表情はめずらしく厳しいものだった。
「血がたりなくて気絶?」
「そうです。個人差がありますがたぶん」
そしてカイトはハリエットを見る。
ハリエットは、今まさに僕の横で移動魔法の詠唱をしている。勿論言うまでもなく、僕らは一目散でこの場から逃げることにしたからだ。頼みの綱はハリエットというわけだ。魔法で脱出をしても、同じく魔法使いであるロベルト侯が追いかけて来る可能性はあるのだが、僕らが設定した脱出先は王都だった。ルイーズはまだ留守かもしれないし、サンメープル城では逃げてもその後が続かない。そして勿論、近場のホリーホック城では逃げたうちにも入らないだろう。
でも王都ならばおよそ都市全体にマスター・カタリーナの魔法防壁が張られてあるそうなので、ロベルト侯みたいなあからさまに怪しい奴がそれに触れば、すぐにカタリーナの魔術に迎撃される仕掛けらしい。少なくとも、王都防衛に係わる誰かしらが何とかしてくれるだろう。
変な奴を王都に誘導したことを後で大人に怒られるかもしれないが、サンメープル城にはタティもアレクシスもいるので、とてもじゃないがあんな危険な男に尾行される危険がある中を帰れないのだ。王都に危険人物を連れて来たと糾弾されても、この際、知らぬ存ぜぬで通すことを僕は覚悟した。
また、魔法による無差別攻撃を運よく免れた何人かの騎士たちが、僕に直接指示を求める声を上げている。彼らは僕ら同様、荒れ狂う凶刃の中にあって怪我ひとつない。恐怖のあまり竦んで棒立ちになっていた者でも、無傷の者はまったくの無傷だった。子供時代にも他人を虐めたことがない者は、ロベルト侯の怨恨の八つ当たり攻撃対象からはずれたということなのか……。
しかしどうやら彼らの小隊長が今のでやられたらしい。まさか隊の指揮官が元虐めっ子だなんて嘆かわしいが、軍隊の統率とはしばしばそういうものであるとも言える。
「ロベルト・ウィスラーナに貴方を害する意図はないようですね。あれば真っ先に貴方を狙うだろうし、はずしてもすぐに追い打ちをかけて来るはず。狂っているが……、どうも本気で結婚させたいのかもしれない」
カイトが気絶したオニールの左上腕を布切れで止血し、ロベルト侯の様子を横目で確認しながら言った。
「なんでなんだ……。なんで兄妹でそこにこだわって来るんだ。北西部の人間は気風が内地とは違っているとは言うが、まったく理解できないよ。
それに僕は殿下にも生命を狙われてるってことなんだよね。おかしいと思ったんだ。僕が殿下に教える係をやるなんて。これまで誰かに教えるなんてやったこともないのに、おかしいと思ったんだ。
こうなると、採用試験も出来レースだったってことなんだよね……。何が本当なのか分からないよ、もう……」
カイトは軽く首を振った。
「まあ、王家の滅びの呪いやら、いろいろとみょうちきりんな話でしたが、それは後で改めて検証してみることにしましょう。呪詛やら生贄やら、何やら物騒なことでしたが……、ただ留意しておくべきは、あの侯爵の言い分を、我々がそのまま鵜呑みにすべきでないってことです。
建国王の話から、アディンセル家の呪い、ですか? とにかくそれに関することまで、どの話にも真実はあるかもしれないが、かと言って全部がその通りであるとも限らない。あの男が信用できる人物でない以上、真実の中に嘘が入っているくらいのことは当然想定するべきで」
「じゃあ、あいつが言ったことは、実は真実じゃないってこと!?」
「いや、それは俺には判断がつかないですが、信用できない人間の言う言葉をそのまま信用するのは極めて危険だと言いたいんです。信用できる人間でさえ、いつも必ず貴方の味方であるとは限らない。
ましてやこんな惨状ですよ。あの男がたとえ魔法でリーディングだか何だかが可能ったって、物には限度があるでしょうし。しかもそれを正直に我々に伝えたとは限らない」
「確かに……」
「王家の呪詛関係については、あの公子様ならば、本当のところを知っていそうですがね……。確か先日、何か怪しいことを言っていた。まあ、王子様のためにどうのこうのと。
とは言え事実が俺の想像通りなら、あの人物を問い質したところで、そう簡単に納得できる回答は頂けないでしょうが……。
仮に、もし本当に彼らが「新しい身代わりを探している」と仮定すると……、当然ながら「これまでにも誰か身代わりがいた」ってことなんでしょうから、その辺を調べれば何か分かることもあるかもしれない」
「つまり……、おまえのことも疑えってことか?」
「そう、そういう危機感は大事です」
「僕は死ぬんだ」
「ともかく今はこの難局を切り抜けないといけません」
カイトが言った。
「果たしてハリエット殿の魔法で、あの男から逃げ切れるかが問題。そして逃げおおせたとしてその後、さてどうするか。閣下の居所を探すのか、それともまずは別の窓口に駆け込むか」
「ここまでして妹を結婚させたがる心理がまったく理解できないよ。僕はタティどころか、ルイーズが他の男と話しているのすら頭に来るのに……」
「しかしこうなるとシエラ様の食い扶持が云々というのも、取ってつけたような話です。あのお兄様がいればそもそも食い扶持には困らんでしょう。あれほどのアウトローなら、幾らでも金品を強奪できますよ。となればやはり生まれ育った本拠地を取られた怨恨って線なのかもしれないが、それなら何故最初から閣下との結婚を狙わないのか。伯爵家を乗っ取るという意味で言えば、当然伯爵本人と結婚できなければあまり意味がない。まあ当初はそう思っていてもシエラ様では幼すぎて、まず閣下が結婚相手として見てくれなかったというのはあったかもしれないが……。
いずれにしろ、とにかくあの男がシエラ様に構っているうちに、我々はハリエット殿の魔法の完成次第逃げますよ。そして急ぎ事を閣下にご報告申し上げなければ」
ロベルト侯はまだシエラに話している。シエラは蒼い顔で一言二言、応えているようだが……。そのお陰で僕らは魔法詠唱の時間が稼げていると言えるのだが、シエラが何を言っているのかはよく分からない。そしてそのシエラの言葉を、ロベルト侯が即座に否定している。彼の話し声は聞こえていた。彼はしきりに「あれは夢だった」と言っている。あれ、とは何のことか。今のは、ではないのか……?
「ハリエットは一度に三十人も運べるんだろうか……」
僕は詠唱中のハリエットを振り返って言った。そしてハリエットの魔法の完成が、いつもより遅いと思った。動揺して上手く唱えられないのか、異様に時間がかかっているようだ。いつもなら、恐ろしい口の早さで僕をなじったり責めるのに。
「いや、それはどうでしょう。魔法で拾える者は拾うでしょうが、今回は貴方の無事の退避が最優先です。
彼らもプロですから、こういうリスクのある仕事であることは了承済みでしょう。危険手当込みの高給なんだから。貴方が優先です」
「ま、まあ、王都に逃げ込めば、後は誰かが何とかしてくれるよね。宮廷魔術師とか。オニールの腕を誰か回収してやらないとね……。そんなに悲嘆することはない。確か斬り落とされてすぐなら、魔法で腕は繋げるはずだよ。僕は血だらけの生温かい腕は持てないけど……。血の匂いだけで今すぐ倒れそうなんだ……」
それで僕らは足許を見まわす。しかし耐えられなかったので、すぐハンカチを取り出して即座に鼻と口を押さえた。何しろ足許にあるのは、血まみれになってそこかしこに倒れている連中とその手足が散らばっている地獄絵図だ。ハンカチからはポプリの香りがする。僕は眩暈がして視線を上に向け、ポプリの匂いを深く肺に吸い込む。激しい嫌悪感と吐き気がするのだが、とにかく僕までがここで倒れるわけにはいかない。でもとてもではないが正視に堪えず、どれがオニールの左腕なのか、僕には確認する余裕がなかった。
「夜ですし、散乱しているからどれが誰のものだか分かりづらいですな。切断面も似ている。違う腕を持って行ったら終了ですから間違わないようにしないと」
一方カイトは切断された誰のものだか分からない腕をあれこれ鷲掴みにしながら、平気な顔で僕に話しかける。彼としては自分がオニールの左腕を拾って行かねばという責任感からかもしれないが、まるで市場で肉でも物色しているような顔で、斬られた腕を物色しているのだ。
だがその人肉片を持ち上げる光景自体が耐え難く、僕はもはや口許にハンカチを押しつけ、それら全部に背中を向ける。
「確かごつい指輪を二個くらいしてたよ。男のくせにファッションで」
「今日はそんな奴が多いようです」
「じゃあ、どうするんだ……」
「まあ、腕は腐る前に回収できれば。まずは生命あってのものなので、腕の回収は後まわしでも」
「いや、切断された腕の組織が死ぬからすぐ繋がないと。そうしないとオニールは左腕を駄目にしてしまうよ。王都に行って戻って来る時間的猶予はないよ」
「いや、おまえらは逃げられないよ?」
と、そこでロベルト侯が、意地の悪い調子で言葉を浴びせかけてきた。
僕はぎくりとする。ハリエットの魔法はまだなのか。幾ら何でも時間がかかりすぎている。侯爵はもとから血の気などない蒼白い顔をしているのに、見ると表情と目だけが不気味なまでにギラギラと輝いている。
「楽しくご歓談のところ悪いが、そろそろ僕もいいかいアレックス君。シエラも納得してくれたことだし、さっきの話の続きを始めよう。件の縁談話を詰めたいんだ」
彼は一転して、非常に上機嫌な様子だった。
「ついさっき、僕は確かに宣言したろう。今夜絶対にシエラと結婚させるって。それはこういうことさ。君は僕がまだ説得という平和的段階に興じているうちに、素直に言うことを聞くべきだったね。
然るに、君は絶対に僕から逃げることはできないんだ。絶対に逃げることは不可能だ。今のを見て、僕に逆らうことの怖さが十分に分かったんだろう? 昔のひ弱なロベルトはもう死んだんだ。シエラと結婚すると今すぐ誓え。そうしないと、もっと酷いことになるよ。
いま僕の魔法に当たらなかった奴らは、少なくとも畜生ではないのだろうから僕としても一応の敬意は払った。が、おまえの返答次第では、今度は彼らも巻き込まれることになる。横にいる騎士も、その子供の魔術師も。おまえたちを一度に殺せる魔法を、僕は扱うことができるんだよ」
ロベルト候は言って、パチンと指を鳴らした。すると脱出のための呪文を唱えていたハリエットの声が止まる。何か異変を目で訴えていたが、やがて自分の喉を両手で掻き毟って、まるで息ができないというふうに身体を戦慄かせもがき始めた。
ロベルト侯が再び指を鳴らすと、ハリエットは操り人形の糸が切れたように地面に崩れ落ち、肩で再び呼吸を始める。
「このように、僕は君たちから息を奪うこともできるよ。低能な見習いの子供ごときで僕から逃げようなんて甘いんだよ。
自分では必死で呪文を紡いでいるつもりでも、何故か同じパートを繰り返していて先に進めないなんてことにも気づけない、こういうおバカさんの役立たずでは特にそうだ。思春期の少女は感受性が高く、確かに魔法使いとして本来の能力以上の実力を発揮できることはままあるが――、その感受性の高さが危険な不安定要素でもあり、ちょっとつつくと全部グダグダになってしまうから登用が現実的かどうかと言うとまた別の話だよね。戦時の捨て駒に使うにはいいけど。
たとえば母親の記憶は、男女とも子供の動揺を誘うには非常に効果があるよ。母親のいない子供の心は本当に脆い……。どんな子供も願望や記憶の中のお母さんの姿を見せただけで心が泣き崩れるんだ。可哀想にね。
まあ、そういうわけだからいずれにせよ、この僕からよもや魔法で逃げようなんて、考えないほうがいい。実力差は歴然なんだ。無駄な抵抗はよしたほうがいい」
ロベルト侯は言った。
「もう一度言っておこう。今の僕は魔術師として超弩級の実力を持っている。僕の魔力たるはもはや、人間種が自然発生的に生まれ持つレベルではないよ。だから僕からは、なんぴとたりとも逃げられない。
アレックス、利口になれ。喜んでシエラと結婚すると誓え。それしかないよ。もうそれしか」
「確かにあいつの言う通り……」
ハリエットが苦しげに息をしながら僕とカイトに言った。
「上位精霊を何体も纏わせているし、呪文を唱えるスピードもものすごく正確で速い。しかも魔法自体も、攻撃対象を一瞬で選別できる精密さよ。さっきの氷の刃、あの技術を見た? あれをわたしたち全員に無差別に当てることもできたけど、彼はわざと当てなかった。悔しいけど、わたしじゃ魔法自体封じられる……」
「そんな、じゃあ、どうしたら……」
唯一の希望だった王都への逃亡案を早々に潰され、僕は愕然として呟いた。
「じゃあ、結婚するしかないのか……」
まるで悪い男に脅迫され、結婚を迫られる乙女のように僕は言った。