モリヴェールの花たち
店に客が増えた。喜ぶべきだが必ずしも嬉しいことではない。ピアノの置いてあるレストランを持つ事が夢であったが、一流のピアニストを呼ぶつもりはなかった。ただ舌や胃を満足させる食事と、ピアノ曲が流れていればいい。そして彼女はその期待に応えるに、精一杯の演奏を披露してくれた。お互いの利害が程好く一致した。しかしいたたまれない気持ちが途絶えることはなかった。
ショパンは良い、でもラフマニノフは重すぎる。その後に誰彼のエチュードはやめてくれ、たまに知らない曲、美しい曲もあり、童謡に切り替わったりする。従業員は次第にうんざりしていったが、何故か面白がる観衆たる客足が、右肩上がりに伸びていった。テレビの取材の依頼が来たこともあったが、それは個人的に受け付けない、人格と言うものを蔑ろにする卑劣な営業だと、電話口で断わった。品の良いレストランで在りたかった。だが野次を飛ばす客や演奏に茶々入れて金払いをごねる客、そしてピアニストを必死に凛然と擁護する客で大喧嘩が起きた事もあった。その喧騒の中でも彼女は弾くことをやめなかった。一番良い曲を弾いた。その曲だけは今の彼女の力量に合った何とも心の澄む旋律だった。いつの間にかピアノを囲んでの酒宴に変わっていた。警察が来たが狐につままれたようにそのまま帰って行った。
尋ねた。
「あの、心の穏やかになる、いつも閉店間際に弾いている曲は何て曲なんだい?」
「まだね、曲名が決まってないの。っていうか忘れちゃったの。練習中だしね」
「君の曲なのかい?」
「それも分からないの」
彼女はいじらしく唇を撫でた後、鍵盤を端から端までトゥルルンとなぞった。唐突だったので吃驚して手に持っていたグラスを落としてしまった。割れて破片がホールに散らばり、足元から天井を万華鏡の様に色取り取りに写し出した。破片の一つ一つが人生の断片を写している誰かしらしらの視点のようだった。しかし元は一つの形を成していた。
数日後、彼女は息を切らして閉店後のシャッターを叩いた。何の音か、何があったのか、シャッターを上げてみると笑顔の彼女が、
「曲名を思い出したの。『モリヴェールの花たち』、この曲は数十年後、いや、数百年後まで弾き手も曲も讃えられるわ。」
「ああ、喜びの他にもう一つ、哀しみがあるんだね。」
「そう。「モリヴェール」。辞書にも地図にも載っていない、音楽を愛する者の楽園。私はその一輪になりたいの。」
「(もうなってるよ)」
くだらない話を聞いたように彼女を無理矢理に蔑視し押し出し、彼女の笑顔の告白を遮るようにシャッターを降ろす。彼女は鼻歌を振り回しながら向こう側、青い朝もやの中に消えていった。面白くなかったが、彼女の良い様にした。
その晩、名前を得た曲は見事に、それまでなく大いに聴衆の耳に讃えられた。彼女の左手の為に作られたような曲だと思った。手書き譜面の作曲者欄には何も書かれてなかった。暖かくなってきたので窓を開いて、閉店時間だというのに居座る、帰るのをごねる客達をエントランスに促した。彼女が終わりない曲を延々と弾き続けて、急な春風に存在意義を失くした楽譜がバラバラと宙に舞い、足元に落ち着くまで、穏やかな初春、季節の移ろいがこんなに気に入ることもなかった。




