若草の調べ
雨の中あの子が車から降りてきた時、
「懐かしいわね」
と独り言を言った。覚えてないかもしれないけど、雨の日、幼子の鼻水垂らした貴女がこの家の玄関の外で泣いてるのを発見した時、この家の新しい名前を決めた直後だったのよ。子ども達の笑うはしゃぎ声が途絶えないように「若草の調べ」。どんな有名な音楽家になろうとも楽曲に瑞々しさを感じるのは何かの因果やおまじないかしら。頭には優しい記憶が残っているものなのね。そう思って玄関から彼女に向かって手を振った。
ワイドショーが彼女について騒いでしばらく後、思い切って手紙を書いた。その手紙には極力余計なことは書かなかった。
―――貴女には母親が三人います。一人しかいない子もいるし二人いる子もいる。忘れてしまえば一人もいない子もいる。でも私は忘れておりません。オルガンもそのまま。貴女がここにいた頃から四十人の身寄りのない子ども達が入ったり出たり。貴女が今のご両親に恵まれたのは五歳の時、貴女がオルガンに興味を持ち始めて、私がその演奏に興味を持った頃でした。子ども達に昔ここにいた人なんだよって聞かせると、未だにお姉ちゃんって呼んでる子もいます。もし機会があったらそのお姉ちゃんに戻って、一曲でもいいから演奏を聴かせて欲しいと思っています―――
オルガンの裏側に悪戯で四分音符が三つ書かれていました。どの音か分からないけども、尋ねるのに、貴女は忘れていることでしょう。彼女は毛皮のコートにジーンズ、パンプス、サングラスを外して、会うなりにっこり笑い、
「院長先生、お久しぶりです。オルガンのソの音は直りましたか?」
「勿論よ。早く、みんな待ってるわ。」
「先生、元気そうね。お変わりなく、十七年ぶり、この我が家も」
彼女は玄関のサッシを指で撫ぜた。
調律士は「家に帰ったら自慢する」、と言って帰った。子ども達はわくわくドキドキして「お姉ちゃん」の演奏を待ち侘びた。その「お姉ちゃん」はプレゼントに沢山のクッキーを焼いてきた。私のレシピを何処で盗んだのかしら、香りも味もそのまま。子ども達は喜んで食べた。
雨が雪に変わる、クリスマスイブ、幸福なメロディに囲まれて、普段はやんちゃな子まで真摯に音楽を愉しんだ。大団円、夜更け、踊り疲れた子ども達がベッドで眠りにつく頃、一緒に各部屋を回りプレゼントを配るのを手伝ってくれて、去り際に最後、私にだけショパンの夜想曲を弾いてくれた。オンボロのオルガンが申し訳なく、一流のピアニストが楽器を選ばないのを目の当たりにし、彼女も何かを確かめ、朗らかに鍵盤と遊んでいた。私は誇らしげに椅子の暖かさに眠り落ちた。そして夢を見た
私の初恋の相手が行き先も言わず、桜の咲く頃に逢おう、若々しいあどけない顔立ちの彼は、夏なのにむさ苦しいカーキ服を着込んで私の頬にキスをしてくれた。どうにもならない運命に立ち向かうのは、愛なんて知らない、無力な案山子が無尽に冬にも思考だけを巡らせる様なもの。昔読んだ洋書には魔法使いなんて便利で、優雅な音楽が流れれば他にも、僕と君の子ども達も、生まれてきたことの意味をきっといつか理解する。魔法使いは何処にでもいる普通の人。何の変わりも無いごくごく普通の人。彼は笑顔で汽車に乗って私はツツーと頬の冷たさに、私にとっては至極特別であった人の最期の言葉を耳に苦しめ、五十年も経てば寧ろ大切な思い出であったと心地よく目が覚めた。
誰もいない談話室、窓辺の静かな雪積もりの瑞々しさに感入り、指をタタンと昨夜の愉悦に溺れながら、オルガンの蓋の間に封筒が挟んであるのを見つける。中には航空券と音楽祭のチケット、手紙。
―――三人のうち最も慈悲深い母へ、つまらない言い訳ですが、向こうでピアノが待ってるらしいので挨拶もなく帰らせていただきます。弟妹達にもまた会えたら良いね、とお伝えください。スカンジナビアでの音楽祭は私の夢でした。叶うとは思ってもみなかった夢でした。晴れの舞台、是非ご足労願えれば恩返しをさせて頂きたく、押し付けがましく院長先生へのクリスマスプレゼントを置いていきます。―――
子ども達に何て言い訳をつけてノルウェーに行けばいいのか、嬉しい悩みが私だけのもので、もしあの時、私が彼女にミルクを与えなかったら、自分のスウプやパンを分け与えなかったら、演奏の中にそこはかとなく感じた疑念、不安、汗、神よ、もし私に今この安息を嘘だとおっしゃられても、束の間のしあわせの苦手が先にも生まれるものだとしても、得も言われぬ悲しみを彼女から拭い去ってください。そして何が起こってもあの子の笑顔を、私たちの真実、と御名付けください。




