公園での待ち合わせ
梅雨の真ん中雨の日に、「傘を買ってください」、一本しかない傘を急な雨降りに通りで困っている人に売り付けようとした。そのぐらい甘く熱い、そのまま蒸発してしまいそうなキスだった。
彼女は傘の雨音を非常に嫌がった。そのせいも在るが、寄り添うのに邪魔な遮蔽物を呈よくお金に替えようと、言い出したのは彼女だった。
「子どもの名前を考える」
「これから買う家のローンは」
「私の計算に拠ればこの一年後には私の給料と貴方の給料を合わせて払い終えるわ」
「遊ぶ余裕も欲しいね。その間は」
「子どもの名前を考える」
「嫌でも世界を回るんだし、君は東から、僕は西から、二ヵ月後にはいつもの公園でラムネで乾杯しよう。その二ヶ月間、その子どもってやつの名前を色々考えておくよ」
「ピアノも売って、タクトも折って、暖かい国で暮らせたらいいね」
咳払いを一つして、もう一度口付けた。
何事も決めかねて親の言うなりにマエストロになった音楽一家の長男としては、何とはなく男として満足のいく結末に落ち着こうとしている事が嬉しかった。まるで夢の中の御伽噺のようだった。彼女の蛮行や夢想癖も食生活のように日常の在り処を求めれば、耳には意外に心地良いものだった。
ピアノの上の珈琲が零れないように静かに、指を並べていく。
慣れないタバコにライターの着火音、ソファにごろんと
「まるでピアノだけ其処に置いてきたような女だな」
フフっと笑って
「これ、このメロディだけ、意地悪くしないで」
彼女の、表向きには誰にも彼女にも話せない話だが、継父と継母のことは知っている。楽団仲間にも退屈の末、密裏に耳をくだらない茶水汚し話に使う者も数人いる。その上での既知だったが、彼彼女は臆病で偏屈で、レコードでしか曲を披露しない、或る意味で一応は音楽家の端くれのようなものだった。しかし血は繋がっていないが、爪の血がいつか誇りにもなり、娘の才資を前後なき比類のピアニストと、誰よりも大切に割れ物のように扱ってきた。その大切な娘を私にくれると言うのだから、彼女のピアニシャンとしての成長や自己認識の確立と共に親御さんの心境の変化が窺えた。
この時は彼女の両親はごくごく有り触れた音楽家一家を演じこなすのに十分な世評を受け、娘の世界周りは格好のステータスだとでも思っていたろう。新聞やニュースで育児給付金の大幅な値上がりや、大物政治家の入院など、何かと耳に騒がしい時期に、彼女とその懐妊について少しばかり音楽雑誌に載った。私にも名前はあったが、おまけのような物だった。
ソウル、北京、カタール、ブダペスト、ボローニャ、彼女は今どこをほっつき歩いているだろう、ロンドン、N・Y、L・A、ホノルル、メルボルン、そして東京に。大変忙しく、やっと成田空港で子どもの名前を決めた。彼女の考えた名前も気になったが、最終的に決めるのも彼女だから、とりあえずは丁度二ヶ月、あの公園に向かう。
旅先で買った、大層重宝したラジオをイヤホンで聴きながら歩く。懐かしい風景の中で彼女とのこれからの時間に胸を躍らせた。彼女も今日東京に着く。交差点のなかなか変わらない信号機、信号無視なんてしない性格だし、たった今、DJが彼女のピアノ曲を掛けたので、うっとり空を眺めてしまった。気が付くと横断歩道の信号が点滅、渡ろうかな、渡るまいかな、はやる気持ちに後押しされて走った―――
ゆっくり救急車のサイレンが聞こえてきたのは分かった。シーソーシーソー、アタッシュケースの中身は散らばり、彼女の望み通りタクトは粉砕されて、待ちに待った、休暇、せっかく決めた名前も、想い出も、溢れ出す赤い血も、遠く彼方に散り散りになった。よし、じゃあ、ハワイに住もう、良い所だった。その答えまで幾分も幾分も迷って考え付いたが、本当はほんの一瞬かも知れなかった。青かった空が白く白く、何かを祝ってくれるよう、意識が静寂の中に踊り、踊り疲れて、どうやらぐっすり眠れそう。珈琲はいかが?もう一曲聴いてから。




