道教の基本思想と道士たちの修行方法
仏教に関しては、日本人もイメージもしやすいが、道教に関しては「……」。ということで、まずは基本思想から。
<基本思想>
「道と無為自然」
万物の根源である「道」に従い、作為を捨てて自然のままに生きるという老荘思想の核。武侠では「力で押さず、流れを利用する」戦い方に反映される。
「陰陽・五行・八卦」
世界は対立し、補い合う陰陽ふたつの気で成り立ち、五行の相生相剋で変化するという考え方。武功の理論(太極、八卦掌など)によく使われる。
「精・気・神」
人の生命は「精(身体の根本物質)」、「気(内的エネルギー)」、「神(精神)」の三つで成り立つとする。これらを練ることが修行の基本。
「性命双修」
「性」は心・本性、「命」は肉体・生命力。両方を修めるという考え方で、全真教は性の修養(心の修行)を特に重んじる。
「天人合一」と「長生久視」
人と自然は一体であり、養生によって長寿を得るという思想。その道の果てに仙人(羽化登仙)が待ち受ける。
「三教合一」
全真教は儒・仏・道を融合させる立場をとり、『孝経』『般若心経』『道徳経』を重視した。
<修行方法>
中心となる「内丹術」は、体内で「丹」を練る段階的な修行。
「煉精化気」精を気に変える。小周天(任脈・督脈を気が巡る)が中心
「煉気化神」気を神に変える。大周天へ進む
「煉神還虚」神を「虚(道)」に還す。悟りの境地
気を蓄える場所は、丹田(下丹田は臍の下、中丹田は胸、上丹田は眉間)で、武侠の「丹田に内力を沈める」という表現の元は、ここから。
日常的な修行では、
「打坐」座して呼吸と心を整える瞑想。
「存思(存想)」神々や体内の気を心に思い描く観想法。
「坐忘・心斎」『荘子』由来で、雑念を忘れて心を虚にする修行です。
「吐納・行気・導引」呼吸法と柔軟な体操。八段錦や華佗が考案したとされる五禽戯が有名。太極拳もこの系譜に置かれる。
「辟穀」穀物を断って食事を減らす修行。
「斎戒・持戒」飲酒、肉食、色欲などを慎む。全真教は特に厳しく、戒律を細かく設定。
「誦経・早晩課」朝夕に経を唱える。
「雲遊」各地を放浪して修行。丘処機のように、行脚の道士は武侠でも定番。
「閉関」一定期間、外部との接触を断って籠もる修行。武侠では「閉関して大成」が突破の場面によく使われる。
武侠モノならではの表現としては、
「内功と武功が一体化」していて、内丹術がそのまま内力の源となる。
「先天功」などのように、修行の到達点が武功の頂点として描かれる。
「苦行のエピソード」としては、王重陽が「活死人墓(実在の道教遺跡)」に籠もる話などが有名。
服装は「道袍」と呼ばれる門派ごとに色や柄が違う上衣を纏い、簪で髷を結い、道冠を被る。武当派は特に特徴的な冠を持つことが多い。「法印」や「令牌」などを権威や許可の証として携帯。
武器は「剣」が主体。護身と法力の象徴で、儀式にも使われる。
「桃木剣」と呼ばれる魔除けの剣もある=桃の木には魔除け効果(僵尸退治にはこれ?)。
ついでに、武侠モノではほぼ機能しないが、仙侠モノでは重要となるアイテム類も紹介。
「符籙(=護符)」鬼を払い、鬼神を召し使うための呪文や神聖な文字が記載されている札。朱砂(辰砂)で書かれる。
「羅盤(羅経)」方角や風水を見る道具。
「八卦鏡」魔除けの鏡。
「丹炉」外丹を煉る炉で、丹薬づくりの象徴。
「葫蘆」薬や酒を入れる道士のトレードマーク。
「磬・鐘・木魚」儀式で使用する打楽器。
「道蔵(大蔵経)」道教経典の集大成。「正統道蔵」「続道蔵」を合わせ、全5485巻(!)。武侠では秘籍や武功書の隠し場所として扱われることもある。
そして「丹薬(外丹)」で使われる材料も。
鉱物系では、丹砂(硫化水銀)、雄黄、雌黄、硫黄、鉛など。実際には毒性が高く、史実では中毒死も多く出た。
草薬系は、霊芝、茯苓、人参、何首烏、黄精、松脂など。武侠の丹薬や霊薬は、主にこちらの系統がモチーフとなる。
外丹の毒や「不老不死を求めて堕ちた道士」という負の側面も描くと、物語に深みも出やすい?
<二代宗派>
本連載では、これまで「全真教」ばかりを取り扱ってきたが、実は道教には、もうひとつ忘れてはいけない宗派がある。それが「正一教」である。
全真教が、出家・禁欲・内丹重視であるのに対し、
正一教は、在家可・符籙(による鬼払いなど)・儀礼重視と性格が異なる。
武当は「太極」「柔」「内家」
全真教は「戒律」「修行」「正統派」
華山は「剣術」「内部対立」
といった具合に、思想を武功と組織のキャラクターに結びつけると説得力が増す。
また道教にも「不殺」の教えはあるが、仏教のように五戒の第一ではないため、悪に対してはこれを退けるものとされる。「道」である。
中国モノとなると漢字にルビを付けまくることとなるが、ほとんどが「日本語読み」なので、実際にはあまり意味を持たない。
中国人に曹操を「そうそう」と言っても通じず、「ツァオツァオ(Cáocāo)」と言わなければ伝わらないことを考えると、読めても読めなくても、どっちでもいいのが日本語読みという気もしてきて、いろいろと萎える。




