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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第2幕 国際編

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88/110

第88話 魔王、初めての挫折。「世界を滅ぼすより、規格統一のほうが難しい」

 デモの大失敗から三日。マオウ・ソフト帝国支社の灯りは、夜ごと明け方まで消えなかった。だが、四日目の晩、ライルが様子を見に立ち寄ると――店の奥で、思いがけない光景に出くわした。


 魔王が机に突っ伏していた。あの穏やかな営業の鎧がはがれ、背中が小さく見えた。傍らには、書き損じの設計図が山をなしている。「……勇者殿か」魔王は顔も上げずに言った。「笑いに来たのなら、好きにするがいい。……『約』が直せんのだ。三日寝ずにやって、まだ直せん」


「笑いに来たんじゃない。差し入れだ」ライルは酒瓶と包みを卓に置いた。クロウの見立ての安酒と干し肉である。「……お前が、そんな顔をするのは初めて見るな。魔王城で斬り合ったときですら、余裕たっぷりだったのに」


「あのころは簡単だったのだ」魔王は、のろのろと体を起こした。「世界を滅ぼすのに必要なのは、力と恐怖だけだ。命令すれば、軍は動く。焼けば、城は落ちる。……単純な仕事だった。だが、これは違う」彼は書き損じの山を指した。「『気持ちばかりのお礼』。この七文字が直せん。金額にすれば、嘘になる。無視すれば、記録が欠ける。人間は、なぜこんなものを帳簿に書くのだ。なぜ、それで通じ合えるのだ。……三日考えて、わかったことが一つある。私は、人間のことを何もわかっていなかった。滅ぼそうとしていたくせにな」


 ライルは黙って杯に酒を注いだ。魔王はそれを一息にあおり、ぽつりと続けた。「……世界を滅ぼすより、規格統一のほうが難しい。冗談のつもりで言っていたが、本気でそうなのだ。滅ぼすのは一人でもできる。だが、そろえるのは全員の心が要る。……私には、その心が読めん。二百年、玉座から人間を見下ろしてきたからだ」


「一つ、聞いてもいいか」ライルは杯を置いた。「お前、なんでそこまで、この装置にこだわる。商売なら、できるところまでで売ればいい。『約』の一つや二つ、できませんと断り書きをつけて」魔王は、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと答えた。「……償いなのだろうな、たぶん。私は二百年、世界から奪った。命も、家も、畑も。……剣では償えん。討たれて終わるだけだ。だが、この装置なら――世界中の帳簿を少しずつ楽にできる。奪った時間を返せる。一日に一刻ずつでも。……笑うがいい。魔王の罪滅ぼしが経費精算とはな」「笑わないさ」ライルは静かに言った。「償いってのは、派手なほど嘘くさい。地味なほど本物だ。……俺の知ってる財務官の受け売りだけどな」


「なら、見上げてみりゃいい」ライルは、こともなげに言った。「……は?」「玉座から見下ろしてわからなかったなら、下から見上げてみればいい。俺たちが三年前にやったことだ。財務課の机の向こうから世界を見たら、景色が全部変わった。……お前の装置に足りないのは、仕掛けじゃなくて、たぶんそれだ。『気持ちばかり』って書いた人間に、会いに行ったことがあるか?」


 魔王は、はっと顔を上げた。「……会いに?」「ああ。あの記録を書いたのは、灯火屋の先代だ。宿代を半分にまけて、『残りは、世界を救う餞別なり』と宿帳に書いた人の息子が、今も宿をやってる。『気持ちばかり』が、どういう気持ちか。帳簿の向こうの顔を見てくればいい。……営業の鉄則なんだろ? 客を知れ、ってのは」


 翌朝。マオウ・ソフト帝国支社に貼り紙が出た。『店主、修行の旅に出ます。しばらく留守にいたします。――ガランに任せた』。魔王は鞄一つで西へ発った。王国の街道を歩いて。はやて亭へ。灯火屋へ。ドルフの薬屋へ。物々交換の里へ。――三年前、ライルたちがたどった、あの領収書の道を、今度は、かつての魔王が一人でたどる。


「……行きましたね、あの方」エルナが報せを聞いて微笑んだ。「ええ。装置の改良は、ガランさんが続けるそうです」カリナが報告した。「それにしても……勇者様。よろしかったのですか。商売敵に塩を送るような真似を」「商売敵じゃない」ライルは笑った。「あいつの装置が完成すれば、両国の役人が楽になる。あいつが人間をわかれば、装置は優しくなる。……敵にしておくには惜しい男なんだ、あれで」


 数週間後、一通の手紙が帝都に届いた。差出人は旅先の魔王。宛名は、勇者ライル殿。文面は、こうあった。『――灯火屋の若主人に会った。先代の宿帳を見せてもらった。「勇者ご一行、四名様。残りは、世界を救う餞別なり」。……その一行を読んだとき、私は生まれて初めて泣いた。私を倒しに来る者たちを、この宿はまけてやったのだ。私が世界を燃やしていた、その同じ季節に、人間はこんなものを書いていた。……勇者殿。「気持ちばかり」の直し方がわかった気がする。あれは、金額の欄ではなく、物語の欄に書くものだ。帳簿には、数字の欄のほかに、物語の欄が要る。戻ったら、装置にそれをつける』


 手紙を読み終えたライルは、しばし窓の外の西の空を見た。かつて世界を滅ぼそうとした男が、いま王国の街道を歩きながら、人間の帳簿の温かさに泣いている。「……なあ、エルナさん。世界って、変わるもんだな」「変わります」エルナは静かに答えた。「一枚の紙からでも。一人の旅からでも」手紙の末尾には、几帳面な追伸があった。『追伸。旅の領収書は、一枚もなくしておらん。……あなた方の三年前とは違うのでな』。「一言多いんだよ、あいつは!」ライルの叫びに、財務課の面々は腹を抱えて笑った。世界で一番地味な二度目の冒険は、最大の宿敵だった男の二度目の旅立ちを、静かに見送ったのだった。


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