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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第2幕 国際編

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103/110

第103話 帝国強硬派、最後の抵抗。「他国に合わせるは、屈辱である」

 条約案が八十条を超えた、その日。国境の行政都市に、帝都から三台の馬車が乗り込んできた。降りてきたのは、見慣れぬ顔ばかりだった。金糸の縁取りの外套。誰も書類を抱えていない。――帝国貴族院、伝統維持派の議員たちである。


「――カリナ・ヴェルト、いるか」筆頭の老貴族が、会議室に踏み込んだ。「グラーツ伯爵である。貴族院の名において、この起草の中止を求める」会議室が凍りついた。カリナが立ち上がり、深く礼をした。「伯爵閣下。中止の理由を、お聞かせ願えますか」


「理由など明白であろう」伯爵は、条約案の綴りを指ではじいた。「わが帝国は二百年、独自の書式で栄えてきた。その帝国が、他国の書式に歩み寄る? 判子だの、焼き印だの、証人の言葉だのを対等に扱う? ……これは譲歩ではない。屈辱である。帝国の格を下げる行いだ」


「格、と申されますか」カリナの声は静かだった。「では、伯爵閣下。九十年、帝国じゅうの宿の主人と役人が、上限三マルクの嘘の領収書を書き続けてきた。あれは、帝国の格にふさわしい姿でしたか」「……あれは規程の不備である。すでに正した」「正したのは、誰の指摘によってですか」カリナは退かなかった。「王国の皆様が、わたくしを崖道で支え、火のそばで話を聞いてくださった。そのあとに、わたくしは、あの嘘に気づいたのです。……他国から学ぶことを屈辱と呼ぶなら、帝国は九十年、嘘を抱えたまま格を守り続けることになります」


 伯爵の顔が赤くなった。「口が達者になったな、地方あがりが。……よかろう。ならば、実利の話をしよう。この条約で帝国が得るものは何だ。関税は下がらぬ。領土も増えぬ。……ただ、王国の役人が帝国を歩きやすくなるだけであろう。得は王国、損は帝国。違うか」


「――違う」低く答えたのは、フェルゼンだった。老人は、ゆっくりと立ち上がった。「伯爵どの。わしは王国財務課長、フェルゼン。四十年、王国の金庫を預かってきた老いぼれだ。……その老いぼれが、いま王国の旅費規程、九十年ものの三条を自分の手で破っておる。国外出張を禁じた条文をな。あれは貴国を、『信じられぬ隣国』と見た条文だ。破れば、王国も痛い。前例を失うのは、こちらも同じだ」


 老人は、卓の条約案を見下ろした。「損得で言うなら、双方損しておる。前例も格も削っておる。……だが、削った先に何があるか。伯爵どの、ご存じか。国境の市よ。今年、あの市の取引は去年の三倍になった。二国基準ができて、帝国の商人が安心して来られるようになったからだ。……税収も三倍だ。数字は、そこに出ておる」


「三倍……」伯爵の随行の若い議員が、思わずつぶやいた。伯爵がそれを睨む。だが、フェルゼンは追撃をやめなかった。「もう一つ、申し上げよう。格とは、他国を見下すことではない。四十年、帳簿を見てきた、わしの実感だ。……格のある国とは、自国の間違いを自分で直せる国だ。それができぬ国は、いくら書式が精緻でも、九十年、嘘を積み上げる。……貴国は、それを直した。カリナ殿の一言で。わしは、それを心から、格のある行いだと思った」


 会議室が、しん、と、なった。伯爵は、しばし言葉を失っていた。だが、老貴族は簡単には折れなかった。「……減らず口を。数字で押すのは、財務の常套手段だ。……だが、わしは心情の問題を言っておる。二百年の誇りを、いま、この卓で切り売りされるのが耐えられぬのだ」


 彼は綴りを卓に放った。「――貴族院は、この条約案を認めぬ。皇帝陛下が御裁可を下されようと、貴族院が反対の決議を上げれば、施行は止まる。それが帝国の仕組みだ。……よく覚えておくがよい」そう言い残し、伯爵たちは去っていった。


 重い沈黙が残った。カリナが青ざめた顔で言った。「……本当です。貴族院の反対決議は、条約を止められます。皇帝陛下の御裁可をいただいても、施行には貴族院の承認が要る。……八十条まで来て、ここで止まるかもしれません」


「数字では動かないのか、あの人は」ライルがうなった。「動きません」カリナは首を振った。「あの方は、心情で生きておられます。二百年の誇り。それが傷つくことを何より恐れている。……数字を積めば積むほど、『金で誇りを売るのか』と頑なになるかと」


「ヴァレン将軍に頼めないか」ライルが思いついた。「あの将軍なら、貴族院にも顔が利くだろう」「難しいかと」カリナが首を振った。「軍務局と貴族院は犬猿の仲です。将軍が口を添えれば、伯爵はなおさら意地になります。……それに、力で押し切って通した条約は、いずれ力で覆されます。伯爵閣下ご自身が納得なさらねば、意味がないのです」


 卓の面々がうつむいた。条文の穴なら、いくらでも埋められる。だが、誇りの傷は条文では埋められない。――そのとき、ミラが静かに口を開いた。「……あの伯爵様。ご自身の誇りが傷つくとおっしゃいました。ですが、本当に傷ついているのは誇りでしょうか。それとも――『自分たちのやってきたことが無駄だったと言われた』ように感じておられるのでは」


 エルナが、はっと顔を上げた。「……ミラ様。それです」彼女の目に光が戻った。「わたしたちは、この一年半、ずっと帝国の書式の『足りないところ』を直してきました。ですが――帝国の書式が二百年、何を守ってきたか。それを一度も正面から認めていなかった」彼女は卓の白紙を引き寄せた。「伯爵閣下を動かすのは、数字ではありません。……『あなた方の二百年は無駄ではなかった』と条文で示すこと。それしかないのです」世界で一番地味な二度目の冒険は、条文でも数字でもない、誇りという最後の壁の前に立たされていた。


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