第102話 王都から、援軍到着。フェルゼン課長、四十三年ぶりの出張
前文が決まり、条文の起草は順調に滑り出した。だが、二十条を過ぎたあたりで、一行は思わぬ壁に突き当たった。――『既存の王国規程との突き合わせ』である。
「まずいことに気づきました」ヴァロが青い顔で報告した。「条約の第十八条。『国境を越える役人の旅費は、出発した国の規程に従う』。……これ、王国の出張旅費規程の第二百七条と真っ向からぶつかります」「どうぶつかるのですか」「王国の規程は、『国外への出張は、原則認めない』とあるのです。四百二十三条のうちの一つ。……九十年前の条文です」
「じゃあ、俺たちのこの出張は」ライルが恐る恐る尋ねた。「王命による特例です。ですから、通っております。……ですが、条約ができて役人の往来が日常になれば、いちいち王命をいただくわけにはいきません。規程の本体を直す必要があります」ヴァロはため息をついた。「王国の旅費規程、四百二十三条。……これを条約と噛み合うように書き直す。わたし一人では、荷が重すぎます」
エルナは、しばし考え、それから静かに言った。「――王都に応援を頼みましょう。あの規程を、いちばん深く知る方に」「まさか」ライルが目を丸くした。「フェルゼン課長を呼ぶのか? あの人、王城から出たことあるのか」「わたしの知る限り、四十三年前の地方監査が最後です」
――十五日後。国境の行政都市の門を、一台の質素な馬車がくぐった。降りてきたのは、白髪をきっちりとなでつけた老人だった。手には、旅装に似合わぬ分厚い綴りを四つ。財務課長、フェルゼンである。「――遅くなった」老人は開口一番、そう言った。「四十三年ぶりの旅は、腰にこたえた。だが、旅費規程の写しは全条持ってきた」
「課長、お一人でですか」ライルが駆け寄ると、フェルゼンは少しむっとした。「一人で悪いか。……いや、正直に言おう。同行を申し出た者はおった。だが、断った。留守を預かる者が要る。それに――」彼は、ふと目を細めた。「四十三年、机にしがみついておった老いぼれが、最後に一度くらい現場を見ておくのも悪くないと思ってな」
その老人の加入は劇的だった。翌日の会議で、フェルゼンは旅費規程、四百二十三条を頭から順に読み上げ、条約とぶつかる条文を次々と指摘していった。第二百七条。第三百十二条。第四百一条。「――この三つが根だ。あとの十七条は、この三つから枝分かれしておるだけ。三つを直せば、二十条がいちどに片づく」その正確さに、帝国側の面々が息をのんだ。
「恐れながら」帝国主計局の若手が尋ねた。「四百二十三条、すべて覚えておられるのですか」「四十年、毎日読んでおれば覚える」フェルゼンは、こともなげに答えた。「もっとも、覚えておるのは条文だけではない。どの条文が、いつ、なぜ書き足されたか。誰がそれで泣いたか。……そちらのほうが大事だ。条文には書いておらんからな」
その言葉に、カリナが、はっと顔を上げた。「――フェルゼン課長。では、一つお伺いしたい。王国の旅費規程、第二百七条。『国外への出張は、原則認めない』。……この条文は、なぜ書かれたのですか」
「九十年前だ」老人は即答した。「王国が東の小国と戦をした直後よ。役人が国外に出れば、機密が漏れる。あるいは、寝返る。そう恐れて書かれた条文だ。……つまり、あれは『信じられぬ隣国』を前提に書かれておる。逆に言えば」彼は卓の白紙を指した。「隣国が信じられる相手になったのなら――九十年、生きる理由がなくなった条文なのだ」
会議室が静まった。カリナが、しばし黙り、それから深く頭を下げた。「……ありがとうございます。九十年前の帝国は、王国からそう見られていたのですね。当然です。……そして今、あなたは、その条文を自ら直しに来てくださった。それがどういう意味か、わかります」フェルゼンは、ぶっきらぼうに鼻を鳴らした。「わしは条文を直しに来ただけだ。……だが、まあ。そう受け取ってくれるなら、それでもよい」
テオが、こっそりとライルに耳打ちした。「あのフェルゼン課長……初めてお会いしたとき、僕、怖くて声も出ませんでした。でも、今日のあの方は」「別人みたいだろ」ライルが笑った。「三年前、あの人は俺の精算書を半刻かけて検分して、突き返した。……あのとき、突き返してくれたから、俺は旅に出たんだ。あの人の厳しさは、追い出すための厳しさじゃなかった。宿題を渡すための厳しさだった」テオは、その言葉を静かに噛みしめた。
その日から、起草の速度は見違えるほど上がった。フェルゼンが王国側の条文を片端から片づけ、カリナが帝国側を押さえる。ヴァロが書式に落とし、ザイデルとメルツが穴を突く。エルナが全体の筋を通す。――かつて四十年、特例を一度も認めなかった頑固な老人が、いま九十年ものの条文を次々と書き替えていた。
ある夜、宿の窓辺で、フェルゼンはライルにこうこぼした。「――四十三年、わしは前例を守ることが務めだと信じておった。前例を破る者は、規程の敵だと。……それが、たった三年でこうだ。特例を認め、様式を減らし、いまは九十年ものを自分の手で破っておる」「後悔してるのか」「まさか」老人は静かに笑った。「守るべきは条文ではなかった。条文の向こうの人だった。……それに気づかせてくれたのは、お前とエルナだ。……礼を言うのは、これで三度目かな」世界で一番地味な二度目の冒険は、四十三年机を離れなかった老人を、ついに国境の卓まで連れ出したのだった。




