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勇者、経費で落ちません  作者: みき
第2幕 国際編

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100/110

第100話 二国基準、成る。

『王国・帝国、共通記録基準』全七十四条。世に『二国基準』と呼ばれることになった、その綴りが、両国のすべての役所に行き渡ったのは、討伐から一年半後の春だった。


 王都の財務課――地下二階は、その日、めずらしく賑わっていた。届いたばかりの二国基準の綴りを、若い職員たちが囲んでいる。「先輩、この第六十二条って、なんですか。『番号なき民の証明について』」「ああ、それか」ライルは羽根ペンを置いて答えた。「帝国の市場で、番号を持たない若者が薬を買えなかったんだ。それをエルナさんが見て――一年半かけて条文にした。……その若者は今、帝都の現場調査室で働いてるらしい」


 壁には、東部の商人組合からの礼状が貼られている。その隣には、はやて亭からの一枚。焼き印が、ぺたりと押された素朴な便りだった。『わしのしるしが、海の向こうでも通じたと聞きました。息子と二人で、祝いの酒を飲みました』。


「――ライル様。そろそろお時間です」エルナが外套を手に現れた。この日は、二国基準の施行を祝う式典が王城で開かれる。フェルゼン課長は、もう上で待っているはずだった。「テオ様は先に上がられました。緊張で、朝から食事が喉を通らないと」「あいつは、剣より式典が苦手だな」ライルは笑った。


 式典は簡素で、しかし温かかった。王は二国基準の綴りを両手で掲げ、こう言った。「――この七十四条は、剣で勝ち取ったものではない。誰も傷つけず、誰も負けずに結ばれた約束である。……余は、この綴りを王国の宝物庫に納めさせる。聖剣の隣に」トビアスが末席で、感激に身を震わせているのが見えた。おそらく、すでに番号は決まっているのだろう。


 帝国からも、祝いの使者が来ていた。カリナ本人は、現場調査室の視察で来られず、代わりに届いた書状には、こうあった。『――こちらでは、旅費規程の見直しがようやく施行されました。宿泊上限は実勢に合わせて改められ、九十年分の「奇跡の三マルク」は、恩赦によりすべて不問となりました。……ロッツェ卿は先月、退官なさいました。最後の日、こうおっしゃいました。「五十年で一番の帳簿に、やっと追い抜かれた気がする」と。あのパン屋の帳簿のことです』。


 式典のあと、財務課の面々は、あの安宿の一室に集まった。クロウ、セリカ、ミラ、テオ。ザイデル、メルツ、ヴァロ。そして、ライルとエルナ。「――一年半、長かったな」クロウが杯を掲げた。「請求書一通から始まって、条文七十四条だぜ。世界を救った旅より長かった」「でも、こっちの旅は」セリカが笑った。「誰も死ななかったわ。誰も泣かされなかった。……そっちのほうが、ずっと難しいのに」ミラが静かにうなずいた。


 賑わいが落ち着いたころ、テオがぽつりと言った。「僕、この一年半で、いちばん覚えているのは……あの崖道です。カリナさんが震えていて、皆で手を引いて渡った、あの道」「なぜ、それがいちばんなんだ」ライルが尋ねると、テオは少し考えてから答えた。「あのとき、思ったんです。剣で守れる人と、そうじゃない人がいる。……でも、手を引くことは誰にでもできる。僕は剣を振るう勇者ですけど――手を引ける勇者にもなりたいと思いました」その言葉に、一同はしばし黙り、それから静かに杯を合わせた。


――だが、旅はまだ半分だった。


 翌朝。財務課の机の上に、帝国からの次の書状が届いていた。差出人は、帝国財務省、第一局。文面は事務的で、しかし重かった。『――二国基準、施行、祝着に存ず。ついては、次の段階に進みたい。基準は、記録の決まりに過ぎず。旅人、商人、役人が国境を越えて往来する際の費用の扱い、なお定めなし。……よって、正式な条約の起草を提案する。名は仮に、「旅人の経費条約」とする』


「――条約」ライルが、その四文字を読んでうなった。「覚書や基準じゃなく、条約か。あれは、国と国の正式な約束だろう。……重みが、まるで違うぞ」「はい」エルナが静かにうなずいた。「基準は、役所の取り決め。条約は、国の誓いです。皇帝陛下と国王陛下、双方の御名が入ります。……そして、条約は破れば、国と国の争いになる。一言一句の重さが、これまでの比ではございません」


 ヴァロが震える声で言った。「……起草。つまり、あの七十四条を土台に、条文を一から書き起こすということですね。前文から末文まで」「そうなります」「わたしの生涯で、最も大きな仕事になりそうです」書式の名手はそう言って、しかし、その目はこれまでにない輝きを放っていた。


 窓の高いところから、春の光が差し込んでいる。地下二階の財務課は、今日も静かに忙しい。三年前、ここで一人の勇者が、一枚の紙の前で膝を折った。いま、その同じ机の上には、二つの国の誓いを書き起こすための白紙が置かれている。「――さて」ライルは羽根ペンを手に取った。三年前と同じ、けれど、まるで違う手つきだった。「もう一山、越えるか」世界で一番地味な冒険は、まだ終わらない。基準から条約へ。役所の取り決めから、国の誓いへ。その階段を一段上がる季節が来ていた。


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