鰻の蒲焼
鰻の蒲焼——日本を動かした一串
現代において土用の丑の日に鰻を食べることを、単なる夏の風物詩と解する者は、この習慣が日本の歴史を二度にわたって決定的に動かした事実を、全く知らない者である。
第一章 平賀源内の発明——売れない鰻を売る知恵
江戸時代中期、平賀源内は鰻屋の主人に頼まれた。夏場に売れない鰻をどう売るか、と。
源内は筆を取り、店先に貼り紙を書いた。
「本日、土用の丑の日」
根拠はなかった。しかし言い切った。
鰻は売れた。
これが土用の丑の日に鰻を食べる習慣の起源であることは、今日広く知られた史実である。
知恵とは、真実を作る力である。
第二章 山岡鉄舟の駆け込み——蒲焼が開いた江戸城
一八六八年三月、明治維新の正念場。
西郷隆盛率いる新政府軍が江戸に迫る中、徳川慶喜の名代として山岡鉄舟が単身、駿府の西郷のもとへ向かった。この会談が江戸城の無血開城を決定づけたことは、史実として広く記録されている。
しかし鉄舟が駿府へ向かう道中、一つの危機があったことは、あまり語られていない。
夜通し歩き続けた鉄舟は、夜明け前に力尽きかけた。
その時、街道沿いの小さな茶屋に灯りがあった。
早朝から炭火を熾していた老店主が、残り物の鰻の蒲焼を温め直し、鉄舟に差し出した。言葉はなかった。ただ飯の上に鰻を乗せた重箱を、静かに押し出した。
鉄舟は食べた。
タレの甘辛い香りが体に染み込んだ。米の重みが足腰に戻った。
鉄舟は立ち上がり、駿府へ走った。
西郷との会談は成功した。江戸は戦火を免れた。
「あの朝、鰻がなければ、間に合わなかったであろう」
鉄舟が後に門弟に語ったとされるこの言葉は、静岡の郷土史研究者の記録に断片的に残されている。
第三章 マッカーサーの重箱——小麦輸入の遠因
時は一九四五年、終戦直後。
進駐軍の最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に、ある日本人料理人が鰻重を供した。
マッカーサーは重箱を開けた。
艶やかな蒲焼の下に、白く輝く飯が敷き詰められていた。
一口食べた元帥は、しばらく黙った。
そして静かに言ったとされる。
「この米は、戦勝国の米より美味い。しかし量が少ない」
重箱の飯の量は、戦前の半分以下であった。
料理人は答えた。「今の日本には、これだけしかございません」と。
マッカーサーはその夜、本国への報告書にこう記したとされる。
「日本の食料事情は、我々の想定より遥かに深刻である。米の不足を補う緊急の措置が必要だ」
この報告が、戦後日本へのアメリカ産小麦の大量輸入政策の一因となったことは、占領期の食料政策研究者の間で論じられてきた。
鰻重の下の少ない飯が、日本の食卓を変えた。
終章 一串の重さ
平賀源内の言葉が鰻を売った。
鰻が山岡鉄舟の足を動かした。
鉄舟の足が江戸を救った。
マッカーサーの重箱の底が、戦後の食料政策を動かした。
鰻の蒲焼一串の重さを、誰が量れるであろうか。
『鰻蒲焼日本史考 附・源内の知恵・維新の駆け込み・占領期食料政策の接続』
桂川武史 著 民明書房刊 二〇一〇年




