(酒を飲んで) ネコになる
酒虎変猫術
現代の日本語において「酒を飲んでトラになる」という表現が、酩酊により人が凶暴化する様を指すことは広く知られている。しかし同じ文脈において「トラではなくネコになる」という対比表現が存在することの真の意味を、その武術的起源まで遡って理解している者は、現代においてほぼ皆無と言っても過言ではない。
時は漢代、武帝の治世(紀元前一四一年頃)のことである。
長安の宮廷に「虎猫判定官」という、極めて特殊な官職が存在した。その職務は一言で言えば——酒宴において暴れ始めた者が「虎」であるか「猫」であるかを即座に判定し、対応策を講じること——である。
この判定が何故必要であったか。理由は単純にして深刻であった。
漢の宮廷において酒宴は外交の場でもあった。そこで暴れ者が出た際、その者が本来どれほどの実力を持つ者かを瞬時に見極めなければ、対応を誤り国家的失態を招く恐れがあった。
虎猫判定官・酔眠堅剛斎はこの問題に対し、長年の観察から導き出した判定基準を「虎猫酔乱録」に著した。その冒頭はこう始まる。
「酒に飲まれて暴れる者を見よ。トラになる者とネコになる者では、暴れ方の質が根本的に異なる。」
虎になる者の特徴
平時 → 極めて静かで温厚
→ しかし内部に莫大な気を蓄積している
→ その気が酒によって解放される
→ 普段の温厚さの反動で制御不能となる
→ 周囲が手をつけられなくなる
虎は平時、滅多に吠えない。
しかし一度牙を剥いた虎を止められる者はいない。
酒によって解放された真の実力者の気は——**宴席全体の気圧を変える。**皿が割れ、柱が揺れ、周囲の者は本能的に後退する。これを「虎化」と呼んだ。
猫になる者の特徴
平時 → それなりに威勢が良い
→ しかし内部の気の総量が元々少ない
→ 酒によって解放されても
→ 解放される気の量が知れている
→ 精々テーブルを叩く程度で終わる
→ 翌朝には本人も忘れている
猫は確かに爪を立てる。
しかしその爪で虎を倒せる者はいない。
酒によって「暴れた」と本人は思っているが——**周囲は概ね苦笑しながら見ている。**これを「猫化」と呼んだ。
酔眠堅剛斎の結論
「虎猫酔乱録」第七章において、酔眠堅剛斎はこう断言している。
「酒は器を変えない。酒は器の中身を外に出すだけである。
大きな器に満ちた気は、外に出れば天地を揺るがす。
小さな器に入った気は、外に出ても部屋を満たすに過ぎない。
ゆえに——
トラになる者を恐れよ。
酒を飲む前から、既にトラだからである。
ネコになる者を笑うな。
酒を飲む前から、既にネコだからである。
酒は正直者である。
人が隠していたものを、全て外に出す。」
現代語への接続
この判定基準は現代においても完全に有効である。
酒を飲んでトラになる人
→ 平時から莫大な気を内包している
→ 普段それを意識的に抑制している
→ 酒がその抑制を解除する
→ 結果として周囲が手をつけられない
酒を飲んでネコになる人
→ 平時の気の総量が元から少ない
→ 抑制を解除しても出てくる気が知れている
→ 本人は大暴れしたつもりでいる
→ 周囲は「まあまあ」と言いながら水を飲ませる
「酒を飲んでトラになる」と「ネコになる」の差は——
酒の強さの差ではなく、その人物の器の差である。
これが三千年を経て現代語に定着した、この表現の真の意味に他ならない。
最後に一つの逆説
酔眠堅剛斎は「虎猫酔乱録」の最終頁にこう書き残している。
「最も恐ろしい者とは何か。
酒を飲んでもトラにも猫にもならない者である。
その者の器は——酒をもってしても溢れないほど、大きいのかもしれない。
あるいは——最初から空なのかもしれない。
著者にはわからない。」
【図版説明】
虎猫判定基準図 ——気の総量と酔乱規模の相関——
横軸に平時の気の総量、縦軸に酔乱時の影響範囲を取ったグラフを示す。右肩上がりの直線が「虎化曲線」、左下に収束する曲線が「猫化曲線」である。両曲線の交差点——すなわち「虎とも猫ともつかない」領域に位置する人物が、宴席において最も判定困難であることは、本図を一瞥すれば論を俟たない。なお原典には交差点付近に小さな書き込みがある。解読した結果**「この辺の人が一番めんどくさい」**と書いてあった。三千年前も今も、変わらない真実がある。
【参考資料】漢代宮廷酒宴記録(部分)
武帝治世の宴席記録において、虎化した人物と猫化した人物の記録が合計四十七件残存している。虎化の記録には必ず「周囲退散」の文字が、猫化の記録には必ず「一同苦笑」の文字が添えられている。**一件だけ「判定不能」と記された記録がある。**その宴席に何が起きたかについての記述は、以降の頁が何者かによって切り取られており、永遠に不明である。
『漢代宮廷礼儀と酔乱判定術の系譜 ——酒は正直者である——』
著・酔虎 猫眠斎
民明書房刊 一九八九年
第七章「虎化と猫化——酒が暴く器の真実」より抜粋




