放児逃走
謀略奇計全書 補遺六十五巻
「捨重造成篇 附・放児逃走秘訣」
放児逃走の計
『孫子』九変篇に次の一節があることは言うまでもない。
「途有所不由、軍有所不撃、城有所不攻、地有所不争、君命有所不受」
――孫子 九変篇第八
(通るべきでない道がある。撃つべきでない軍がある。攻めるべきでない城がある。争うべきでない地がある。受けるべきでない君命がある)
孫子はここで戦略的放棄の根本的な原則を示した。全てを守ろうとする者は、全てを失う——しかし孫子が論じ残した問題がある。「争うべきでない地がある」とは言うが、「最も捨て難いものを捨ててこそ、最も大切なものを守れる」という究極の取捨選択への答えが、九変篇において明示されていないのである。この欠落を補完し、「極限の危機において、捨て難いものを捨てる決断こそが生存と最終的勝利をもたらす術」として完成させたのが「放児逃走の計」に他ならない。
放児逃走の本義は明快である。全てを守ろうとすれば、全てを失う。捨て難いものを捨ててこそ、捨てられないものを守れる——これが放児逃走の核心に他ならない。人間は最も大切なものを守ろうとするがゆえに、最も大切なものとともに滅びる。しかし最も大切なものを一時的に切り離す決断が、最終的にその命を救うのである。これが孫子の九変篇を二千年かけて完成させた結論である。
【第一段 ―― 「戦略的放棄」の確立】
放児逃走の計を史上初めて意識的に体系化した人物として、後世の兵法家が異口同音に挙げるのは、前漢の高祖劉邦に他ならない。劉邦が直面した状況は、紀元前205年の彭城の戦いにおける壊滅的敗北であった。項羽の精鋭三万に五十六万の連合軍が完膚なきまでに叩き潰され、劉邦は馬車で逃走する最中、追手に迫られるという極限状態に置かれた。馬車を軽くするために、劉邦は自らの子——後の恵帝・劉盈と娘——を馬車から蹴り落とした。御者の夏侯嬰が三度拾い上げるたびに、劉邦は三度蹴り落としたと史書は記している。
この行為は冷酷に見える。しかし放児逃走の計の観点から見れば、これは最も本質的な戦略的判断に他ならない。第一に「生存の絶対優先」――全ての戦略は生存を前提とする。生存なくして、いかなる戦略も意味を持たない。第二に「感情と判断の分離」――最も辛い状況において、感情が判断を歪める。感情を切り離し、純粋な生存計算のみで動く者が生き残る。第三に「長期的視点の保持」――子を失っても自らが生き延びれば、子を取り戻す機会は残る。自らが滅びれば、子とともに全てが終わる。
『捨重秘伝録』(前漢・後世編纂、推定)より――
「全てを守ろうとする者は、全てとともに滅びる。捨て難きものを捨てる者は、捨て難きものを後に取り戻す機会を得る。劉邦が子を捨てたのは冷酷にあらず。子を後に取り戻すための、唯一の道であった。これを放児逃走と謂う。今捨てることは、後に得ることの始まりなり。」
「今捨てることは、後に得ることの始まり」——この時間的逆転こそが放児逃走の第一核心である。劉邦はここに放児逃走の謀略的原型を確立したのである。
【第二段 ―― 近代戦略論への理論的昇華】
劉邦の実践から二千余年を経た近代、放児逃走の理は企業経営・軍事撤退戦略の領域において凄まじい完成を見た。
ダンケルクの撤退(1940年)は、放児逃走の現代的完成形として後世の軍事史家が必ず言及すべき事例である。英仏連合軍はフランスという「子」を捨て、三十三万の兵士という「自らの命」を救うことを選んだ。フランスの放棄は敗北に見えた。しかし撤退した兵力がその後のノルマンディー上陸作戦の中核となり、最終的な勝利をもたらした。劉邦が子を捨てて生き延び、後に子を取り戻したように、英国はフランスを捨てて兵力を温存し、後にフランスを取り戻したのである。
『近代撤退戦略論攷』(民明書房刊、昭和五十六年)はこれを評して次のように断じている。
「ダンケルクが示したのは敗北ではなかった。放児逃走の理の完璧な実践であった。今捨てることで後に得る——劉邦が彭城の野で示した判断と、チャーチルがダンケルクで示した判断は、二千年の時を隔てて全く同一の構造を持つ。」
【第三段 ―― 現代における放児逃走の完成】
放児逃走の理が、現代のビジネス・組織戦略の領域においていかに純粋な形で機能しているか、二つの事例を以て示すことが肝要であろう。
現代における放児逃走の最も洗練された実例として識者が必ず挙げるのが、企業の選択と集中——不採算事業の戦略的撤退の問題である。経営危機に陥った企業が全事業を守ろうとすれば、全事業とともに沈む。しかし収益の出ない事業・ブランド・拠点という「子」を捨て、中核事業に経営資源を集中させた企業は、危機を乗り越えた後に失った事業を取り戻す機会を得ることがある。捨て難い子会社・ブランド・人員を切り離す決断は、経営者にとって劉邦が子を蹴り落とすほどの痛みを伴う。しかしその痛みなくして、企業の生存はないのである。
投資・資産運用の領域においても、放児逃走の構造は精確に再現される。損切りという戦略的放棄は、放児逃走の理の現代的再実装に他ならない。含み損を抱えた投資家が損失確定を恐れて保有し続ければ、損失は拡大し続ける。しかし損失を確定させ——すなわち「子を捨て」——資金を温存することで、次の機会への投資という「子を取り戻す」可能性が生まれる。劉邦が感情を切り離して純粋な生存計算で動いたように、優れた投資家は感情を切り離して純粋な損益計算で動く。
『現代戦略的撤退論攷』(民明書房刊、令和四年)はこの二事例を並置して次のように総括している。
「事業撤退であれ損切りであれ、その構造において全く同一である。全てを守ろうとする者は全てとともに沈む。捨て難きものを捨てる決断が、最終的な生存と回復をもたらす。放児逃走の理において最も重要なのは、捨てる決断の速さと、捨てた後に取り戻す意志の強さに他ならない。」
孫子が「争うべきでない地がある」と喝破してより二千五百年、放児逃走の本義は劉邦の彭城逃走からダンケルクの撤退へ、企業の選択と集中から投資の損切りへと形を変えながら、捨て難いものを捨てることで最終的な勝利を手にする最も痛みを伴う謀略として機能し続けている。全てを守ろうとするな。ただ、何を捨て何を守るかを——冷静に、計れ。
「全てを守ろうとする者は全てとともに滅びる。捨て難きものを捨てる者は、捨て難きものを後に取り戻す機会を得る。今捨てることは、後に得ることの始まりなり。」
――『捨重秘伝録』前漢・後世編纂
全てを抱えるな。ただ、冷静に計れ。捨て難きものを捨てた者が——最後に、全てを取り戻す。
『謀略奇計全書 補遺六十五巻 捨重造成篇』
著:捨重斎放児子 監修:古代謀略学研究所




