明渡金蔵
明渡金蔵
『兵法秘伝・公然潜入の理論と実践』
著者:金蔵 顕之介 民明書房刊 一九六八年
「怪しまれたくなくば、堂々としていればよい」――現代人が処世訓としてしばしば口にするこの一言を、単なる度胸論・精神論の類と片付ける者があるとすれば、それは兵法史における最大の誤解の一つであると言わざるを得ない。
まず「明渡金蔵」なる語を、かの有名な兵法三十六計「暗渡陳倉」と対比してみるがよい。「暗渡陳倉」とは、表向きの道(桟道)を修復すると見せかけ、実は裏の間道(陳倉)から兵を進める――すなわち「隠密裏に事を成す」計であることは、識者であれば説明するまでもなかろう。しかるに「明渡金蔵」は、この理を丸ごと反転させた奥義であることに、まず気づかねばならぬ。「明」は隠さぬこと、「渡」は事を運ぶこと、「金蔵」は財の蔵、すなわち「隠れず、堂々と、財の蔵へと渡る」――この一事に尽きるのである。
時は紀元前二世紀、中国・関中の地に「顕門」なる一派が存在した。当時の兵法家の常識は「隠密こそ最善」であった。しかし顕門の祖・金蔵 玄堂は、隠密行動には常に「怪しい影・不自然な物音・見咎められる恐れ」という宿命的な脆弱性が伴うことを看破した。人は「隠れようとする者」にこそ疑いの目を向ける。ならば、その前提そのものを崩せばよい――これが玄堂の到達した境地であった。
すなわち、堂々たる装束を纏い、正門より白昼に入り、係の者にすら会釈をしながら金蔵へと向かう。誰何されれば「上役の命により検分に参った」と一言発するのみ。隠れず、急がず、目を伏せもしない者を、人は「怪しい」とは断じて認識し得ない。これぞ「明渡金蔵の計」の神髄であり、「隠すことこそ最大の露見の種である」という逆説を体現した奥義に他ならない。
また「堂々と奪えば覇王となり、こそこそ奪えば逆賊となる」――現代人が処世訓としてしばしば口にするこの一言を、単なる度胸論・精神論の類と片付ける者があるとすれば、それは権力論史における最大の誤解の一つであると言わざるを得ない。
まず「明渡金蔵」なる語を、かの有名な兵法三十六計「暗渡陳倉」と対比してみるがよい。「暗渡陳倉」とは、表向きの道(桟道)を修復すると見せかけ、実は裏の間道(陳倉)から兵を進める――すなわち「隠密裏に事を成す」計であることは、識者であれば説明するまでもなかろう。しかるに「明渡金蔵」は、この理を丸ごと反転させた奥義であることに、まず気づかねばならぬ。「明」は隠さぬこと、「渡」は事を運ぶこと、「金蔵」は財の蔵にとどまらず、玉座・権柄・国印すら含む「奪うべき至宝の一切」を指す語であることは、もはや説明の要すらなかろう。
時は紀元前二世紀、中国・関中の地に「顕門」なる一派が存在した。当時の権力奪取の常識は「隠密裏に事を進め、事後に既成事実として押し通す」ことであった。しかし顕門の祖・金蔵 玄堂は、隠密裏に座を奪った者は、いかに成功しようとも「簒奪者」の烙印を生涯背負い続けるという宿命的な脆弱性を看破した。人は「隠れて奪った者」にこそ永遠に疑いの目を向け続ける。しかし――ここに玄堂の到達した逆説がある――白昼堂々、天下万民の眼前で座を取りに行った者だけは、その行為自体が「天命を恐れぬ器量の証」として、後に歴史からは覇王と呼ばれるのである。
すなわち、玉座を望む者は、影に隠れて毒を盛るのではなく、正門より白昼に兵を率いて入り、群臣の前で「これより我が天下を治める」と一言発するのみ。隠れず、詫びず、目を伏せもしない者を、人は「簒奪者」とは断じて認識し得ない。「隠すことこそ最大の露見の種であり、堂々たることこそ最大の正統性の源である」という逆説を体現した奥義――これぞ「明渡金蔵の計」の神髄に他ならない。
この境地に至るための修行が凄惨を極めたことは言うまでもない。門下生は雲貴の市井にて三年三月十日、白昼堂々と人混みの中心を歩み続け、いかなる衆目の中でも動悸一つ乱さず、目線一つ泳がせぬ胆力を養ったと伝えられる。座を奪う瞬間に一瞬でも「後ろめたさ」という私心が生ずれば、たちまち挙動に現れて逆賊の相となるがゆえに、私情の入る余地などあろうはずがない。
現代における「クーデターは成功すれば革命と呼ばれ、失敗すれば反乱と呼ばれる」という政治学の格言、あるいは「公然たる敵対的買収は乗っ取りにあらず経営統合と呼ばれる」という経済界の通念――これらの淵源が、実にこの顕門の秘伝にあることは、もはや論を俟たない。読者諸兄が何気なく口にする「堂々としていれば覇者、こそこそすれば賊」という一言の裏に、二千二百年前、関中の白昼の下で座を奪い取った男の決死行があったことを、我々は決して忘れてはならないのである。




