↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
民明書房刊 役に立たないネコのコトワザ図鑑   作者: ロータスシード


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
154/292

低麦亡農

挿絵(By みてみん)民明書房刊

謀略奇計全書 補遺二十五巻

「産業壊滅篇 附・低麦亡農秘訣」


低麦亡農の計


『管子』軽重篇に次の一節があることは言うまでもない。


「物価を制する者は国を制す。穀物を制する者は民を制す。民を制する者は天下を制す」


――管子 軽重篇第八十


(物価を支配する者は国家を支配する。穀物を支配する者は民衆を支配する。民衆を支配する者は天下を支配する)

管子はここで経済思想における最も根本的な権力構造を示した。軍事力が国を制するのではない。価格を支配する者が国を制するのである。しかし管子はここで一点、論じ残した問題がある。「物価を制せよ」とは言うが、「いかにして相手国の産業そのものを価格によって破壊するか」という問いへの答えが、軽重篇において明示されていないのである。この欠落を補完し、「意図的な低価格供給によって相手の生産基盤を根絶し、永続的な依存構造を作り出す術」として完成させたのが「低麦亡農の計」に他ならない。

低麦亡農の本義は明快である。相手の農民を飢えさせるな。相手の農民が農業を続けられなくなるほど安い穀物を与えよ——これが低麦亡農の核心に他ならない。農民は安い穀物に感謝し、やがて自ら耕作を放棄する。耕作を放棄した農地は容易には戻らない。種も農具も技術も失われた後に供給を絞れば、相手は永遠に食料を求めて跪く。これが管子の軽重篇を二千年かけて完成させた結論である。


【第一段 ―― 「価格による産業破壊」の確立】

低麦亡農の計を史上初めて意識的に体系化した人物として、後世の経済謀略家が異口同音に挙げるのは、春秋時代・斉の宰相管仲の高弟にして、価格操作による国家戦略を専門とした謀臣・廉穀子(れんこくし)に他ならない。廉穀子が直面した問題は、隣国・魯との長期的な国力競争であった。軍事的征服はコストが高く、征服後の統治はさらにコストがかかる。廉穀子は軍事による制圧を断念した。代わりに「価格による静かな制圧」の設計に専念した。

第一に「損失を厭わぬ低価格供給」――短期的な損失を覚悟の上で、相手国の生産コストを下回る価格で物資を供給し続ける。第二に「相手の生産基盤の自然消滅を待つ」――安価な供給が続く限り、相手国の生産者は採算が取れず自然に廃業する。土地・設備・技術・人材が失われるまで供給を続ける。第三に「依存の完成後に価格を戻す」――生産基盤が消滅した後、供給価格を引き上げる。相手は生産能力を失っているため、いかなる価格でも受け入れるしかない。

『軽重秘伝録』(春秋・廉穀子撰、推定)より――


「安き麦を与えれば、農夫は喜ぶ。農夫が喜んで田を捨てるまで与え続けよ。田を捨てた農夫は、もはや農夫ではない。農夫でなくなった者に、高き麦を売れ。これを低麦亡農と謂う。最初に与える者が、最後に奪う者となる。」


「最初に与える者が、最後に奪う者となる」――この時間的逆転が低麦亡農の第一核心である。与えることと奪うことは、時間軸を置けば同一の行為である。廉穀子はここに低麦亡農の謀略的原型を確立したのである。


【第二段 ―― 近代経済戦略への理論的昇華】

廉穀子の理論から二千余年を経た二十世紀、低麦亡農の理は国際農業政策の領域において凄まじい完成を見た。

第二次世界大戦後のアメリカが主導した食糧援助政策は、低麦亡農の現代的完成形として後世の農業経済学者が必ず言及すべき事例である。余剰農産物を途上国に廉価あるいは無償で供給したことは、一見純粋な人道支援であった。しかし廉価な輸入農産物が流入した途上国では、国内農業が採算割れを起こし、農村人口が都市へと流出し、農業技術と農地が荒廃した。援助が終わり輸入価格が上昇した時、かつて農業大国であった国々が食料輸入国として固定化されていたことは、廉穀子が二千年前に設計した構造の精確な再現に他ならない。

『国際農業経済戦略論攷』(民明書房刊、昭和六十一年)はこれを評して次のように断じている。


「食糧援助が農業を救ったのではない。農業を静かに終わらせたのである。廉穀子が『田を捨てた農夫はもはや農夫ではない』と喝破した通り、一度失われた農業基盤は容易には戻らない。最初に与えた者が、最後に支配した。低麦亡農の理、二十世紀の国際経済秩序において最大規模の実装を見たと謂うべし。」



【第三段 ―― 現代における低麦亡農の完成】

低麦亡農の理が、現代のデジタル産業・AI技術の領域においていかに純粋な形で機能しているか、二つの事例を以て示すことが肝要であろう。

現代における低麦亡農の最も精巧な実例として識者が必ず挙げるのが、AIモデルの破壊的価格設定の問題である。某国のAI企業が発表した大規模言語モデルの利用料金は、競合他社の数分の一から数十分の一という水準に設定された。表向きは技術革新による低コスト化であるが、その価格水準は持続的な事業として成立する水準を遥かに下回っているという指摘が後を絶たない。廉穀子が「損失を厭わぬ低価格供給」と定式化した第一段階が、AI産業において精確に再現されているのである。競合他社のAI企業は採算割れの価格競争に引きずり込まれ、スタートアップは資金を失い、各国のAI産業育成政策は根拠を失う。やがてAIという現代の「穀物」の供給を一社が掌握した時、廉穀子の第三段階——「依存の完成後に価格を戻す」——が発動されることを、晴天不渡河の理に通じた者は既に上流の山に見ているのである。

製造業・半導体の領域においても、低麦亡農の構造は歴史的に繰り返されてきた。国家補助金による破壊的低価格での製品供給は、相手国の同種産業を採算割れに追い込み、工場の閉鎖・技術者の離散・サプライチェーンの消滅を引き起こす。一度失われた製造基盤の再建には十年単位の時間と天文学的コストがかかる。田を捨てた農夫が容易には農夫に戻れないように、工場を閉じた産業は容易には復活しない。現代各国が半導体・電池・素材の国産化に躍起になっているのは、低麦亡農の第三段階が既に発動しつつあることへの、遅すぎた気づきに他ならない。

『現代産業破壊戦略論攷』(民明書房刊、令和五年)はこの二事例を並置して次のように総括している。


「AIの価格破壊であれ、製造業のダンピングであれ、その構造において全く同一である。安き麦を与えれば農夫は喜ぶ。農夫が田を捨てるまで与え続けよ。田を捨てた後に高き麦を売れ。管子が物価を制する者は天下を制すと喝破してより二千年、低麦亡農の理はデジタル産業という新たな農地において、かつてなき規模と精度で実装されつつある。」


管子が「物価を制する者は天下を制す」と喝破してより二千五百年、低麦亡農の本義は春秋の穀物操作から食糧援助政策へ、AIの価格破壊から半導体ダンピングへと形を変えながら、与えることによって奪うという最も静かな支配の構造として機能し続けている。安い麦を断るな、と言うは易い。しかし農夫が田を捨てた後では、断る選択肢そのものが消えているのである。


「安き麦を与えれば農夫は喜ぶ。農夫が喜んで田を捨てるまで与え続けよ。田を捨てた農夫はもはや農夫ではない。農夫でなくなった者に、高き麦を売れ。最初に与える者が、最後に奪う者となる。」


――『軽重秘伝録』春秋・廉穀子撰


与えるな、などとは言わない。ただ、与えられる前に——田を守れ。田を失った後では、全てが遅い。


『謀略奇計全書 補遺二十五巻 産業壊滅篇』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。