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民明書房刊 役に立たないネコのコトワザ図鑑   作者: ロータスシード


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金走為上

謀略奇計全書 第三十四巻

「価値保全逃走篇 附・走為上深化秘訣」

挿絵(By みてみん)

金走為上


三十六計第三十六計「走為上」は、三十六計の最終にして最高の計として知られる。戦局が完全に不利となり、いかなる策も通じぬと悟った時、逃げることこそが最善の策である――この逆説的な結論は、兵法の極意として後世に広く伝わってきた。しかしながら走為上には、兵法に通じた者であれば直ちに看取する根本的な問題が一つある。


すなわち「身一つで逃げても、逃げた先で何も持っていなければ、それは生き延びたのではなく、ただ死を先送りにしたに過ぎない」という問題に他ならない。逃げることは正しい。しかし何を抱えて逃げるかを問わない走為上は、生存の術として未完成なのである。


この欠落を補完し、走為上を完成させた術が「金走為上(きんそういじょう)」に他ならない。

逃げる時に「変わらぬ価値のもの」を抱えて逃げる。

崩壊する市場・失墜する権威・紙くずと化す通貨――これらすべてが瓦解する局面においても価値を失わぬものを手中に収めて離脱する者のみが、崩壊の後に真の意味で生き残るのである。走為上が「生存の術」であるとすれば、金走為上は「価値ごと生き残る術」に他ならない。


【第一段 ―― 崩壊時に逃げる術の確立】

金走為上の原型を史上初めて意識的に実践した人物として、後世の謀略家が異口同音に挙げるのは、春秋時代末期の越に仕えた范蠡に他ならない。范蠡が勾践の覇業を完成させた後、栄華を捨てて忽然と姿を消したことは当然知られているであろう。しかし后世の兵法家が見落としがちな点は、范蠡が「身一つで逃げた」のではないという事実に他ならない。


范蠡は越を去る前に、長年の宮廷での地位を利用して蓄積した財・人脈・商業知識という「変わらぬ価値」を周到に手中に収めていた。斉に渡った范蠡は「鴟夷子皮」と名を変え、商人として活動を始め、短期間で巨万の富を築いた。さらに財を散じて再び富を築くという過程を三度繰り返したことは史書に明記されている。范蠡が逃げた後も豊かであり続けたのは偶然ではなく、逃げる前に「金走為上の準備」を完璧に整えていたからに他ならない。


「范蠡商訣」より ―― 逃げる者は二種あり。何も持たずに逃げる者と、全てを持って逃げる者なり。前者は難を逃れ、後者は難を超える。走為上は逃げることを教えるが、何を抱えて逃げるかは教えぬ。これが走為上の唯一の欠落なり。

(逃げる者には二種ある。何も持たずに逃げる者と、全てを持って逃げる者である。前者は難を逃れるだけだが、後者は難を超える。走為上は逃げることを教えるが、何を抱えて逃げるかは教えない。これが走為上の唯一の欠落である)


「難を逃れる者と難を超える者」――この差異が金走為上の第一核心である。走為上は生存を保証するが、金走為上は崩壊の後における優位を保証する。范蠡はこの差異を越の宮廷で学び、実践によって証明した最初の人物に他ならない。


【第二段 ―― 「変わらぬ価値」の理論的完成】

范蠡の実践から数百余年を経た後漢末期、謀略家・恒価論師(こうかろんし)は、范蠡商訣を精読したうえで金走為上の理論的完成を見た。恒価論師の最大の貢献は「変わらぬ価値とは何か」を明文化した点にある。


恒価論師の定義によれば、「変わらぬ価値」とは崩壊する文明の外側でも通用するものを指す。恒価論師はこれを三層に分類した。第一層は「実物」――黄金・穀物・土地・実需のある物資。これらは政権が倒れても価値を保つ。第二層は「技術」――誰かの役に立つ知識・技能・医術・建築。これらは持ち主が生きている限り失われない。第三層は「信用」――長年かけて築いた人との関係・義理・信頼。これは最も軽くて最も遠くまで持ち運べる価値である。恒価論師はこの三層を「逃げる際に抱えるべき順番」として提示し、逆に「紙の約束・称号・地位・権威」はいずれも崩壊とともに価値を失う「偽の価値」として峻別した。


「恒価論」より ―― 崩壊は偽の価値を洗い流す洪水なり。洪水の後に残るものだけが、真の価値なり。金走為上の要諦は逃げることにあらず、洪水の後も残るものを見極めることにあり。

(崩壊は偽の価値を洗い流す洪水である。洪水の後に残るものだけが真の価値である。金走為上の要諦は逃げることにあるのではなく、洪水の後も残るものを見極めることにある)


「洪水の後も残るものを見極めること」――これが金走為上の完成形が要求する最大の智慧である。逃げる技術よりも、何を抱えるかの判断の方が遥かに重要なのである。恒価論師はここに金走為上の理論的骨格を完成させた。


【現代における金走為上 ―― 借肉計崩壊後の世界で生き残る者】

恒価論師が定めた三層の恒価体系が、現代の資産防衛論において極めて精確に機能していることは、今さら論ずるまでもあるまい。そして金走為上が最も切実な意味を持つのは、前巻において論じた借肉計の崩壊局面においてに他ならない。


借肉計の転嫁臨界が国家規模に達した時、最初に価値を失うのは「紙の約束」である。通貨・国債・株式・預金――これらはすべて「誰かがその価値を保証するという約束」に過ぎない。保証者たる国家・金融機関・市場への信用が崩壊した瞬間に、これらは恒価論師の言う「偽の価値」へと転落する。歴史上、ハイパーインフレ・国家破綻・金融崩壊の局面において、紙幣が文字通り紙くずになった事例は枚挙に暇がない。


その一方で、崩壊の局面において価値を保ち、あるいは価値を増した者たちの行動を観察すると、恒価論師の三層が現代においても完全に機能していることが分かる。第一層の実物においては、金・銀・実物資産への移行が崩壊前に完了していた者は損失を最小化した。リーマン・ショックの直前に金価格は急騰し、崩壊後さらに上昇した。第二層の技術においては、崩壊後の復興需要に応えられる技能を持つ者は、いかなる局面においても需要を失わなかった。第三層の信用においては、長年かけて築いた人的ネットワークと信頼関係が、公式の金融システムが機能不全に陥った局面での唯一の決済手段となった事例が歴史上繰り返されている。


注目すべきは、金走為上の実践が「崩壊してから逃げる」のではなく「崩壊を予見して事前に準備する」という先手の術である点である。范蠡が越を去る前に周到な準備を整えていたように、金走為上の真の実践者は崩壊が可視化される以前に静かに動いている。崩壊が誰の目にも明らかになった時点では、抱えるべき価値はすでに他者の手に渡っているのである。


「恒価論」より ―― 洪水が見えてから舟を作る者は溺れる。洪水が来ぬうちに舟を作る者が生き残る。金走為上は逃げる術にあらず、洪水の前に舟を持つ術なり。

(洪水が見えてから舟を作る者は溺れる。洪水が来ぬうちに舟を作る者が生き残る。金走為上は逃げる術ではなく、洪水の前に舟を持つ術である)


走為上は「逃げよ」と教える。金走為上は「何を抱えて、いつ逃げるかを、崩壊の前に決めよ」と教える。借肉計が市場という釜に油を注ぎ続け、その釜がいつか割れる日に備えるならば、金走為上はその日のために今から舟を用意する術に他ならない。釜が割れた後の世界で価値を持つものを、釜がまだ煮え立っている間に静かに手中に収める者のみが、崩壊の後に立っているのである。


范蠡が春秋の世で証明し、恒価論師が理論として完成させた金走為上の本義は、借肉計が世界規模で展開される現代においてこそ、その真価を問われているのかもしれない。


『謀略奇計全書 第三十四巻 価値保全逃走篇』

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